第一話 刃紋
月明かりが、研ぎ澄まされた鋼の上にひんやりとした青白い光を落としていた。
鞘から三寸ほど引き抜いた刀身を傾けると、暗がりの中にくっきりと「互の目」の刃紋が浮かび上がる。備前長船の刀匠が鍛え上げたその波打つ鋼の模様を、丸は大変気に入っていた。丸が知る他のどの刀よりも雄大な刃紋であった。通常の刀が刃先のみに細く控えめな波を宿すのに対し、この刀の焼き入れは鎬のすぐ際まで達している。丸の目には、故郷である備前の連山や、ゆったりと流れる吉井川の波そのもののように見えた。
(いつか、この名刀に相応しい、立派な武功を立てる侍になりたい)
刀身を見つめる丸の瞳には、ひたむきな憧れが宿っていた。泰平の世とはいえ、武士として生まれたからには、この美しくも恐ろしい鉄の芸術品を正しく振るう真の強さを身につけたい。丸にとって、それはごく自然な純粋な願いだった。
「また刀を出しているのか、丸」
背後から低く沈んだ声がした。病床にある父が、煤けた行灯の灯りの向こうで息を荒げている。
「お前の剣への情熱は立派だ。だが、今は戦国ではない。純粋すぎる刃は、時に己自身を傷つけることになりかねんぞ……」
父の心配そうな言葉を、丸はまだ、本当の意味で理解してはいなかった。
翌日、藩の道場には乾いた竹刀の音が響いていた。
「小手!」
審判の声が上がるのと同時に、丸の竹刀が対戦相手の右腕を深々と捉えていた。しかし、丸は動きを止めない。小手を打たれてたたらを踏んだ相手の懐へ瞬時に踏み込み、左手で相手の襟首を掴んで床に叩きつけると、喉元に竹刀の切っ先をピタリと突きつけた。
「そこまでだ! 丸、貴様またやったな!」
師範が怒号を飛ばし、周囲の門下生たちが呆れと非難の目を向ける。
「小手が入って勝負はついておっただろう! なぜさらに打ち倒すような真似をする!」
丸は竹刀を下ろし、真剣な眼差しで師範を見つめ返した。
「勝負はついておりません。あれは竹刀だから止まったのです。もし真剣での斬り合いであれば、右腕を負傷しただけで相手は死にません。左手に小太刀を持ち替えて刺してくるやもしれず、あるいは懐の暗器を投げてくるかもしれません。完全に息の根を止めるか、無力化するまで気を抜くのは、実戦においては死を意味します」
「屁理屈を申すな! ここは己の精神を鍛える神聖な道場だ。貴様のやっていることは、ただの野蛮な殺し合いの稽古だ!」
丸の「真摯すぎる実戦主義」は、型と礼儀を重んじる泰平の世の武士たちには、決して理解されなかった。
その日のうちに、丸は道場から破門を言い渡された。これで三度目だった。
数ヶ月後、父は無念の思いを残したまま病死した。
「剣とは強さだけではない。道でもあるのだ。稽古鍛錬は精神も鍛え、武道の心得は人格を作る。お前は強さを求めすぎている。儂はそれが心配だ」
息を引き取る寸前の病床にあっても、父は丸の徹底した実践主義と、力を信奉しすぎる危うさを深く憂いていた。しかし、皮肉なことにその遺言は丸の心に全く逆の形で根を下ろしてしまった。
残されたのは、道場破り同然の悪名ばかりが高くなった跡取り息子一人。藩の上層部の判断は冷酷だった。「平時にあって戦国の妄執に囚われた粗暴な者に、家督は継がせられん」
家財が没収される中、丸はあの備前長船の真剣だけを固く抱きしめていた。役人たちも、無言で刀を抱える青年の、あまりにも澄み切った鋭い眼光に気圧され、それを取り上げることはできなかった。
後日、再度この家伝の刀を接収しようと土足で踏み込んできた役人たちを、丸は容赦なく力でねじ伏せ、叩き出した。この広大な刃紋を持つ一振りは丸にとって唯一無二の財産となり、理不尽な世から己を護る絶対的な御守りとなったのである。
精神の鍛錬など、力なき者の言い訳に過ぎない。何者にも奪われない圧倒的な強さこそが、己を立派な武士にするのだ。父の願いに背を向けるように、刀を握りしめる丸の心は、強さを求める執着によって石のように頑なになっていった。
カチン、と鍔鳴りをさせて刀を腰に収めると、丸は顔を上げた。出世を求めて都へ向かうことにした。黒塗りの下見板張りが陽光に映える烏城――岡山城である。
旭川の川面を撫でる風を浴びながら、丸は活気にあふれる城下町へと足を踏み入れた。道場に通い、形だけの稽古で満足する気など毛頭ない。彼が求めているのは、己の血肉に染み付いた実戦の「強さ」を高く買い、存分に刃を振るう機会を与える雇い主だ。武士の道ではなく、ただひたすらに用心棒としての戦場を求め、丸は漆黒の天守閣を見据えながら喧騒の中へと歩き出した。




