第8話 魔導灯の街角
小さな喫茶店を出るころには、午後の光が少しだけ傾いていた。
リゼは満足そうに歩きながら、包み紙に残った蜂蜜の香りを名残惜しそうに嗅いでいる。
「やっぱり正解だったでしょ」
「はい。おいしかったです」
「ほら。悩みにはおいしいもの」
「考えごとには紅茶も、でしたね」
「そう。それで、まだ考えごとするなら買い物も足す」
「増えるんですか」
「増えるよ。人間、見るものが多いと悩みがちょっと忙しくなるから」
リゼは当然のように言った。
ユナは小さく笑った。悩みが忙しくなる、という言い方は少し変だった。けれど、街に出てから、その意味が分からなくもなかった。
聖名庁の敷地では、白い石壁も、鐘の音も、聖句も、すべてが決まった形でそこにある。自分がどの棟へ向かえばよいのか、何をすればよいのか、すぐに分かる。
けれど、その分だけ、自分がそこに本当に馴染んでいないことも分かってしまう。
街は違った。
色の違う布。焼いた小麦の匂い。馬車の軋む音。知らない人たちの笑い声。店先に吊るされた小さな鈴。目に入るものが多すぎて、胸の奥に沈んでいるものを見つめ続けずに済む。
居場所を見つけたわけではない。
ただ、少しだけ目を逸らせる。
「まずはあそこ」
リゼが指差したのは、小さな雑貨屋だった。
店先にはリボン、糸巻き、木製の髪留め、小さな香袋が並んでいる。窓辺には薄い青や白の布飾りが揺れていて、近づくと乾いた花の匂いがした。
「リゼは、何か買うんですか」
「見るだけのつもりだったけど、見るだけで終わる人に見える?」
「……あまり」
「正直でよろしい」
リゼは楽しそうに店先へ近づいた。
ユナはその隣で、並んだ小物を見る。どれも聖名庁ではあまり見かけないものだった。修道女見習いに華美な飾りは必要ない。けれど、小さな髪紐や押し花の栞くらいなら、持っている者もいる。
リゼは薄緑のリボンを手に取った。
「これ、どう?」
「リゼに似合うと思います」
「ほんとに?」
「はい。明るすぎなくて、でもリゼらしいです」
リゼは一瞬だけ照れたように目をそらした。
「そういうこと、さらっと言うよね」
「変でしたか」
「変じゃないよ。だから困るの」
リゼはそう言って、そのリボンを買った。
店を出ると、通りの向こうで魔導灯を扱う露店が見えた。小さな硝子筒の中に、青白い光がゆっくりとまたたいている。まだ昼なのに、その光ははっきりと存在していた。
リゼが足を止める。
「見ていく?」
「はい」
二人は露店へ近づいた。
店主は小さな金属部品を布の上に並べていた。丸い留め具、細い導線、豆粒ほどの結晶片。どれもユナには詳しく分からないが、聖名庁の渡り回廊や食堂で見かける魔導灯の中にも、似たようなものが使われているのだろうと思った。
「お嬢さんたち、聖名庁の見習いさんかい」
店主が気さくに声をかけた。
「はい。見るだけでもいいですか?」
リゼが答える。
「もちろん。最近の魔導灯は持ちがいいよ。王宮魔術局の規格に合わせたやつもある。こっちは帝国製の部品を使ってるから、少し値は張るが明るい」
「帝国製?」
リゼが目を丸くした。
ユナも、並べられた小さな金属片を見る。
アルヴァリス帝国。
聖名庁の講義でも、街の噂でも、ときどき耳にする名だった。南の大きな国。神ではなく、魔術と法で秩序を作る国。ユナに分かるのは、そのくらいだった。
「帝国の部品は精度がいい。王宮魔術局でも、測定具なんかには使っているらしいよ。ただ最近は、南方街道の荷が少し遅れていてね。次に同じ値で出せるか分からない」
「南方街道、ですか」
「帝国方面の商隊が通る道さ。検問だの測量だの、あちらは何かと細かいからね。商人にはありがたい時もあるが、遅れる時は困る」
店主は笑った。
リゼは小さな魔導灯をのぞき込んでいる。硝子の中の光が、彼女の瞳に青く映った。
「聖名庁の灯りも、こういう部品で光ってるのかな」
「そうかもしれません」
ユナは魔導灯の光を見つめた。
聖法の祝福とは違う光。
祈りではなく、術式と部品で灯る光。
聖都では、それが当たり前のように並んでいる。聖名標の淡い聖なる光と、街角の魔導灯の青白い光。祈りと魔術が、同じ通りの中にある。
不思議な気がした。
けれど、誰も不思議そうにはしていない。
ユナだけが、時々、世界の継ぎ目を気にしてしまう。
「ユナ?」
リゼが隣から声をかける。
「また考えごと?」
「少しだけ」
「じゃあ半分まで」
「半分……」
「全部考えたら帰れなくなるでしょ」
冗談のように言われたのに、胸の奥が少しだけ揺れた。
帰れなくなる。
どこから。どこへ。
ユナはその問いを飲み込んだ。
「大丈夫です」
「それ、あんまり信用できないやつ」
リゼはそう言いながらも、それ以上聞かなかった。
代わりに、露店の端にあった小さな栞を手に取る。透明な薄い板の中に、乾いた花びらが閉じ込められていた。魔導具ではなく、ただの手仕事の品らしい。
「これ、ユナにいいかも」
「私に?」
「うん。写字室で使えるでしょ」
小さな白い花の栞だった。
聖名帳に挟むには少し軽すぎる。けれど、講義の本になら使えるかもしれない。
「綺麗ですね」
「買う?」
「でも」
「じゃあ、私が買う。今日連れ出した記念」
「そんな、いただくわけには」
「いいの。私が買いたいだけ。ほら、受け取って」
リゼは店主に硬貨を渡し、栞をユナに差し出した。
ユナは戸惑いながら受け取る。
透明な板の中の花は、もう咲いてはいない。けれど形を残している。誰かが閉じ込めたから、消えずにここにある。
記録されることに少し似ている、と思った。
けれど、聖名帳の文字よりもずっとやわらかい。
「ありがとうございます」
「うん。大事にして」
「はい」
ユナは栞を胸元にそっと抱えた。
それから二人は、聖名庁へ向かって歩き出した。
帰り道は、行きより少し静かだった。買い物を終えた人々が家路につき、店先の魔導灯がひとつ、またひとつと灯り始める。青白い光が白い石畳に落ち、聖名標の淡い光と重なっていた。
その二つの光は、似ているようで違う。
どちらも街を照らす。
どちらも人の足元を示す。
けれど、片方は祈りから生まれ、片方は術式から生まれている。
ユナには、その違いがうまく言葉にできなかった。
「今日は成功だったね」
リゼが言った。
「成功が多いですね」
「多い方がいいでしょ」
「そうですね」
ユナは少し笑った。
聖名庁の正門が見えてくる。
白い石の門。奥に連なる棟の屋根。遠くに見える聖名大聖堂の塔。自分が暮らす場所。戻る場所のはずの場所。
けれど門をくぐる時、胸の奥に小さな重さが戻ってきた。
街のざわめきが遠くなる。紅茶の香りも、蜂蜜の甘さも、雑貨屋のリボンも、少しずつ背中の向こうへ置いていかれる。
リゼが隣で、自分の名を呼ぶ。
「ユナ、明日も朝早いから、今日は早めに寝ようね」
「はい」
返事をしながら、ユナは胸元の栞に触れた。
薄い板の中に閉じ込められた白い花。
消えないように残されたもの。
けれど、それは咲いていた時のままではない。
聖名庁の正門をくぐると、夕方の鐘が鳴った。
その音に重なるように、夢の中で聞いた泣き声の気配が、一瞬だけ胸の奥をかすめた。
ユナは栞を握ったまま、リゼの隣を歩き続けた。




