表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/36

第7話 王国を継ぐ者


 紅茶の湯気は、午後の光の中で細くほどけていた。


 テラス席の前を、人々が行き交っている。買い物籠を提げた女、花を抱えた子ども、聖名標の前で短く祈る老人。通りはいつも通りに賑やかで、先ほど聖女の巡祈の列が通ったことも、少しずつ日常の音へ紛れていく。


 それでも、ユナの中にはまだ、あの一瞬の視線が残っていた。


 白金の絹糸のような髪。

 民へ向けられる、柔らかく乱れのない微笑み。

 白銀の鎧をまとった女性聖騎士にも負けないほど、静かに凛とした立ち姿。


 誰に対しても、同じように優しく笑っていた。


 なのに、なぜだろう。


 ほんの一瞬だけ、疲れているように見えた。


「ユナ」


 向かいの席から、リゼが声をかけた。


 ユナは瞬きをする。


「はい」


「また世界の終わりみたいな顔してる」


「……そんな顔、していましたか」


「してた。おいしいものが目の前にある時の顔じゃないよ」


 リゼは真面目な顔で、皿に残った菓子を少し割った。


「悩みにはおいしいもの。考えごとには、もっとおいしいもの」


「それは、同じでは」


「違うよ。悩みには甘いもの。考えごとには紅茶も必要」


 きっぱりと言われて、ユナは少しだけ笑った。


 リゼはその笑みを見て、満足そうに頷く。


「よし。戻ってきた」


「私はどこにも行っていません」


「そういう顔で、どこか行きそうになるんだってば」


 軽い言葉なのに、不思議と胸の奥に残る。


 どこかへ行きそうになる。

 戻ってくる。


 それは、夢の外から名を呼ばれた時の感覚に少し似ていた。


 ユナは紅茶の杯を両手で包んだ。温かさが指に移る。紅茶の水面には、午後の光が小さく揺れていた。ただ風と湯気が触れているだけの揺れだった。


「聖女様のこと、考えてた?」


 リゼが小声で尋ねた。


 ユナは杯から視線を上げる。


「……少しだけ」


「きれいだったよねえ。近くで見たら、絶対もっとすごいんだろうな」


「はい」


「でも、聖女様って大変そう」


 リゼは何気なく言った。


 ユナはその言葉に、少しだけ息を止めた。


「リゼも、そう思いますか」


「うん。だって、街を歩くだけでみんな見てるし、手を振られて、祈られて、笑い返して。私だったら三歩で疲れる」


「三歩ですか」


「三歩。がんばって五歩」


 リゼは冗談のように言ってから、少しだけ声を落とした。


「それに、聖女様って王女様でもあるんでしょ。祈られて、見られて、王家の人としても立たなきゃいけないって、普通に考えて大変だよ」


 王女。


 ユナは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 聖女シャルロッテ。


 聖名庁の中でも、その名を聞かない日はほとんどない。祈りの中で、祝福の中で、街の噂の中で。けれど、同じ敷地にいることがあると知っていても、声をかけられる相手ではなかった。


 白い塔を見上げるように、遠くから知っている名。


 そこにいると分かっていても、手の届くものではない名。


「でも、王家ってそういうものなのかもね。聖女様だけじゃなくて、王太子殿下も」


「王太子殿下」


 ユナはその言葉を口の中で繰り返した。


 同じ王家に、王国を継ぐ者として第一王子がいる。


 レオンハルト・アステリア。


 名前は知っていた。聖名庁へ届く知らせや、年長の修道女たちの会話の中で、ときどきその名を聞く。国王陛下の次に王国を担う人。ユナに分かるのは、それくらいだった。


 けれど、ユナにとっては遠い名だった。


 聖女シャルロッテの名は、祈りの中で聞く。

 民が手を合わせ、子どもたちが憧れを込めて口にする。


 王太子レオンハルトの名は、それとは少し違うところで聞く名だった。


 式典の日。

 聖名庁へ届く知らせ。

 年長の修道女たちが、小さな声で交わす王宮の話。


 王国を継ぐ人。


 ユナに分かるのは、それくらいだった。


「王太子殿下って、見たことありますか」


 ユナが尋ねると、リゼは菓子を口に入れながら首をひねった。


「遠くからなら。王宮前の式典で一回だけ。なんか、背が高くて、すごく静かな人って感じだった」


「静か」


「うん。聖女様みたいにぱっと明るいっていうより、周りの人が自然に道を空ける感じ。怖いんじゃなくて、あ、この人が前に立つ人なんだなって分かる感じ」


 リゼの言葉に、ユナは通りの向こうを見る。


 先ほどシャルロッテが通った道には、もう別の人々が行き交っていた。誰かが笑い、誰かが荷物を抱え、誰かが祈る。


 民が祈りを向けるのは、聖女シャルロッテ。


 けれど同じ王家には、王国を継ぐ者として、王太子レオンハルトがいる。


 王国を継ぐ者と、民を祝福する者。


 同じ王家に生まれても、二人の役目は違うのだと、ユナは思った。


 けれど、それは自分には遠い世界のことだった。


 自分は聖名庁の修道女見習いで、記録棟の写字室で名を写し、食堂でリゼに食べるのが遅いと言われる。聖女とも、王太子とも、同じ聖都にいるようで、同じ場所には立っていない。


「ユナ?」


 リゼが少し身を乗り出した。


「今度は世界の終わりじゃなくて、国の会議みたいな顔してる」


「国の会議、ですか」


「すごく難しいこと考えてそう」


「そんな大きなことではありません」


「じゃあ小さいこと?」


「……遠いこと、です」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 リゼは茶化さなかった。


「遠いことかあ」


 紅茶の杯を両手で包み、リゼは通りの方を見た。


「まあ、王族とか聖女様とか王太子殿下とか、遠いよね。私たち、見習いだし」


「はい」


「でも、聖女様、さっきユナのこと見てたよ」


 ユナの指が、杯の縁で止まった。


「……気のせいです」


「気のせいかもしれないけど、私は見た」


「リゼ」


「はいはい、言わない。言わないけど、ユナがまた考えごとの底に沈みそうだったから」


 リゼはわざと軽く笑った。


 けれどその軽さは、ユナをからかうためだけではない。深く沈みすぎないように、ほんの少し水面の上へ引き上げるためのものだった。


 ユナは紅茶を口に含む。


 少し冷めていた。けれど、蜂蜜の甘さが残った口には、ちょうどよかった。


「リゼは」


「うん?」


「王太子殿下と聖女様なら、どちらが大変だと思いますか」


 リゼはしばらく考えた。


「どっちも」


「どっちも、ですか」


「うん。王太子殿下は、国の重たいものを持ってるんでしょ。聖女様は、みんなの祈りを受け止めてる。重さの種類が違うだけで、どっちも大変そう」


 重さの種類。


 ユナはその言葉を静かに受け取った。


 シャルロッテの微笑みの奥に見えた疲れ。


 あれは、祈られる者の重さなのだろうか。


 それとも、王女として、聖女として、自分の感情を後回しにして立ち続ける人の疲れなのだろうか。


 ユナには分からない。


 ただ、見えてしまった。


 見ないふりをするには、あまりにも短く、けれどはっきりとした一瞬だった。


「ユナは優しいね」


 リゼが不意に言った。


「え?」


「遠い人の疲れまで気にするんだから」


「私は、ただ……気になっただけです」


「それを優しいって言うんじゃない?」


 ユナは答えられなかった。


 優しいのかどうかは分からない。


 自分はいつも、見なくていいものまで見てしまうだけだ。セシリアの目の奥の痛みも、聖女の微笑みの奥にあった一瞬の疲れも。


 気づかなければ、もっと楽にいられるのかもしれない。


 けれど、気づいてしまったものを、なかったことにはできない。


 通りの向こうで、また鐘が鳴った。


 聖名庁の鐘より少し遠い、街の鐘だった。人々は足を止めない。祈る者も、買い物を続ける者もいる。聖都アステルの午後は、何事もなかったように流れていく。


 リゼは最後の菓子を半分に割り、片方をユナの皿に置いた。


「考えごと用。追加」


「もう十分いただきました」


「いいから。半分」


 ユナはその欠片を見つめた。


 半分。


 何気ない言葉なのに、なぜか胸の奥で小さく響いた。


 けれど理由は分からなかった。


 ユナは菓子を受け取り、ゆっくり口に運ぶ。


 甘さが、舌の上で静かにほどけていく。


 その向こうで、白金の髪を揺らして微笑んでいた聖女の姿が、まだ消えずに残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ