第7話 王国を継ぐ者
紅茶の湯気は、午後の光の中で細くほどけていた。
テラス席の前を、人々が行き交っている。買い物籠を提げた女、花を抱えた子ども、聖名標の前で短く祈る老人。通りはいつも通りに賑やかで、先ほど聖女の巡祈の列が通ったことも、少しずつ日常の音へ紛れていく。
それでも、ユナの中にはまだ、あの一瞬の視線が残っていた。
白金の絹糸のような髪。
民へ向けられる、柔らかく乱れのない微笑み。
白銀の鎧をまとった女性聖騎士にも負けないほど、静かに凛とした立ち姿。
誰に対しても、同じように優しく笑っていた。
なのに、なぜだろう。
ほんの一瞬だけ、疲れているように見えた。
「ユナ」
向かいの席から、リゼが声をかけた。
ユナは瞬きをする。
「はい」
「また世界の終わりみたいな顔してる」
「……そんな顔、していましたか」
「してた。おいしいものが目の前にある時の顔じゃないよ」
リゼは真面目な顔で、皿に残った菓子を少し割った。
「悩みにはおいしいもの。考えごとには、もっとおいしいもの」
「それは、同じでは」
「違うよ。悩みには甘いもの。考えごとには紅茶も必要」
きっぱりと言われて、ユナは少しだけ笑った。
リゼはその笑みを見て、満足そうに頷く。
「よし。戻ってきた」
「私はどこにも行っていません」
「そういう顔で、どこか行きそうになるんだってば」
軽い言葉なのに、不思議と胸の奥に残る。
どこかへ行きそうになる。
戻ってくる。
それは、夢の外から名を呼ばれた時の感覚に少し似ていた。
ユナは紅茶の杯を両手で包んだ。温かさが指に移る。紅茶の水面には、午後の光が小さく揺れていた。ただ風と湯気が触れているだけの揺れだった。
「聖女様のこと、考えてた?」
リゼが小声で尋ねた。
ユナは杯から視線を上げる。
「……少しだけ」
「きれいだったよねえ。近くで見たら、絶対もっとすごいんだろうな」
「はい」
「でも、聖女様って大変そう」
リゼは何気なく言った。
ユナはその言葉に、少しだけ息を止めた。
「リゼも、そう思いますか」
「うん。だって、街を歩くだけでみんな見てるし、手を振られて、祈られて、笑い返して。私だったら三歩で疲れる」
「三歩ですか」
「三歩。がんばって五歩」
リゼは冗談のように言ってから、少しだけ声を落とした。
「それに、聖女様って王女様でもあるんでしょ。祈られて、見られて、王家の人としても立たなきゃいけないって、普通に考えて大変だよ」
王女。
ユナは、その言葉を胸の中で繰り返した。
聖女シャルロッテ。
聖名庁の中でも、その名を聞かない日はほとんどない。祈りの中で、祝福の中で、街の噂の中で。けれど、同じ敷地にいることがあると知っていても、声をかけられる相手ではなかった。
白い塔を見上げるように、遠くから知っている名。
そこにいると分かっていても、手の届くものではない名。
「でも、王家ってそういうものなのかもね。聖女様だけじゃなくて、王太子殿下も」
「王太子殿下」
ユナはその言葉を口の中で繰り返した。
同じ王家に、王国を継ぐ者として第一王子がいる。
レオンハルト・アステリア。
名前は知っていた。聖名庁へ届く知らせや、年長の修道女たちの会話の中で、ときどきその名を聞く。国王陛下の次に王国を担う人。ユナに分かるのは、それくらいだった。
けれど、ユナにとっては遠い名だった。
聖女シャルロッテの名は、祈りの中で聞く。
民が手を合わせ、子どもたちが憧れを込めて口にする。
王太子レオンハルトの名は、それとは少し違うところで聞く名だった。
式典の日。
聖名庁へ届く知らせ。
年長の修道女たちが、小さな声で交わす王宮の話。
王国を継ぐ人。
ユナに分かるのは、それくらいだった。
「王太子殿下って、見たことありますか」
ユナが尋ねると、リゼは菓子を口に入れながら首をひねった。
「遠くからなら。王宮前の式典で一回だけ。なんか、背が高くて、すごく静かな人って感じだった」
「静か」
「うん。聖女様みたいにぱっと明るいっていうより、周りの人が自然に道を空ける感じ。怖いんじゃなくて、あ、この人が前に立つ人なんだなって分かる感じ」
リゼの言葉に、ユナは通りの向こうを見る。
先ほどシャルロッテが通った道には、もう別の人々が行き交っていた。誰かが笑い、誰かが荷物を抱え、誰かが祈る。
民が祈りを向けるのは、聖女シャルロッテ。
けれど同じ王家には、王国を継ぐ者として、王太子レオンハルトがいる。
王国を継ぐ者と、民を祝福する者。
同じ王家に生まれても、二人の役目は違うのだと、ユナは思った。
けれど、それは自分には遠い世界のことだった。
自分は聖名庁の修道女見習いで、記録棟の写字室で名を写し、食堂でリゼに食べるのが遅いと言われる。聖女とも、王太子とも、同じ聖都にいるようで、同じ場所には立っていない。
「ユナ?」
リゼが少し身を乗り出した。
「今度は世界の終わりじゃなくて、国の会議みたいな顔してる」
「国の会議、ですか」
「すごく難しいこと考えてそう」
「そんな大きなことではありません」
「じゃあ小さいこと?」
「……遠いこと、です」
言ってから、自分でも少し驚いた。
リゼは茶化さなかった。
「遠いことかあ」
紅茶の杯を両手で包み、リゼは通りの方を見た。
「まあ、王族とか聖女様とか王太子殿下とか、遠いよね。私たち、見習いだし」
「はい」
「でも、聖女様、さっきユナのこと見てたよ」
ユナの指が、杯の縁で止まった。
「……気のせいです」
「気のせいかもしれないけど、私は見た」
「リゼ」
「はいはい、言わない。言わないけど、ユナがまた考えごとの底に沈みそうだったから」
リゼはわざと軽く笑った。
けれどその軽さは、ユナをからかうためだけではない。深く沈みすぎないように、ほんの少し水面の上へ引き上げるためのものだった。
ユナは紅茶を口に含む。
少し冷めていた。けれど、蜂蜜の甘さが残った口には、ちょうどよかった。
「リゼは」
「うん?」
「王太子殿下と聖女様なら、どちらが大変だと思いますか」
リゼはしばらく考えた。
「どっちも」
「どっちも、ですか」
「うん。王太子殿下は、国の重たいものを持ってるんでしょ。聖女様は、みんなの祈りを受け止めてる。重さの種類が違うだけで、どっちも大変そう」
重さの種類。
ユナはその言葉を静かに受け取った。
シャルロッテの微笑みの奥に見えた疲れ。
あれは、祈られる者の重さなのだろうか。
それとも、王女として、聖女として、自分の感情を後回しにして立ち続ける人の疲れなのだろうか。
ユナには分からない。
ただ、見えてしまった。
見ないふりをするには、あまりにも短く、けれどはっきりとした一瞬だった。
「ユナは優しいね」
リゼが不意に言った。
「え?」
「遠い人の疲れまで気にするんだから」
「私は、ただ……気になっただけです」
「それを優しいって言うんじゃない?」
ユナは答えられなかった。
優しいのかどうかは分からない。
自分はいつも、見なくていいものまで見てしまうだけだ。セシリアの目の奥の痛みも、聖女の微笑みの奥にあった一瞬の疲れも。
気づかなければ、もっと楽にいられるのかもしれない。
けれど、気づいてしまったものを、なかったことにはできない。
通りの向こうで、また鐘が鳴った。
聖名庁の鐘より少し遠い、街の鐘だった。人々は足を止めない。祈る者も、買い物を続ける者もいる。聖都アステルの午後は、何事もなかったように流れていく。
リゼは最後の菓子を半分に割り、片方をユナの皿に置いた。
「考えごと用。追加」
「もう十分いただきました」
「いいから。半分」
ユナはその欠片を見つめた。
半分。
何気ない言葉なのに、なぜか胸の奥で小さく響いた。
けれど理由は分からなかった。
ユナは菓子を受け取り、ゆっくり口に運ぶ。
甘さが、舌の上で静かにほどけていく。
その向こうで、白金の髪を揺らして微笑んでいた聖女の姿が、まだ消えずに残っていた。




