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第29話 北西へ続くもの


 白耀塔を離れる前に、隊列は少しだけ組み直された。


 リディアが観測員として同行することになったためだった。マティアスは短く指示を出し、ロランはいつも通り無言で周囲を見ている。


「リディア殿はクラウディア殿の後方へ。観測具を広げる時は、必ずこちらへ声をかけてください」


「了解です。前へ飛び出す趣味はありません。少なくとも今日は」


 リディアは軽く肩をすくめた。


 ロランが一度だけ視線を向ける。


「殿下の前には出るな」


「心得ています。命知らずではありますけど、そこまで無謀じゃありません」


 リディアは少しも気を悪くした様子を見せず、軽く頭を下げた。


 ユナはそのやり取りを見ていた。


 巡祈隊に新しい人が加わった。けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。リディアは、ユナが見たものを測れないからといって、なかったことにしなかった人だった。


 それが少しだけ、胸の奥に残っている。


 白耀塔の青白い光は、もう背後に遠ざかっていた。


 王城外苑を抜け、一行は聖都の北西側へ向かった。大通りから外れるにつれて、人の声は少しずつ遠のいていった。市場のような賑わいも、住居区画の温かな匂いも、ここには薄かった。


 代わりに、古い石畳が残っていた。


 何度も踏まれ、雨に削られ、ところどころ角の丸くなった石。その脇には、背の低い聖名標がいくつか並んでいる。新しいものではない。刻まれた聖句は浅く、白い石の表面には細かなひびが入っていた。


 聖都の中にも、こんな場所があるのだとユナは思った。


 やがて、北西古道碑が見えた。


 思っていたよりも、ずっと地味な場所だった。


 広場でもなく、塔でもなく、聖墓苑のような厳かな門があるわけでもない。低い柵に囲まれた古い石碑がひとつ、北西へ続く細い道の脇に立っているだけだった。


 本当に、ここが聖都十二結界のひとつなのだろうか。


 思わずそう考えてしまったユナに気づいたのか、リディアが静かに言った。


「見た目はただの古い碑に見えるでしょうけど、ここ、結界構造ではかなり大事な場所なのよ」


 リディアは北西古道碑を見上げた。


「聖都十二結界と、北西方面へ伸びる聖名標網をつなぐ接続基点。今は主要街道から外れてますけど、結界構造では外せない場所ね」


 マティアスが後を引き取るように言った。


「昔は、北西の教区へ向かう巡教者や、聖名標の補修隊がここで祈ってから出たそうです。今は別の街道の方が使われていますが、古い道には古い守りが残っている」


 シャルロッテは石碑を見上げた。


「人が通らなくなっても、道がなくなるわけではありません。祈りが薄れても、結界の役目は残ります」


 その言葉に、ユナはもう一度、北西古道碑を見た。


 古い石碑には、細かな文字が刻まれていた。聖句だけではない。北西方面へ続く古い地名や、聖名標の設置地、巡教路の名らしきものが並んでいる。


 読める名もあった。

 けれど、読めない名もあった。


 その中の一箇所に、ユナの目が止まる。


 そこだけ、文字が浅くなっていた。風雨で削れたのか、人の手で均されたのか、分からない。けれど他の文字とは違って、そこだけが名を失っているように見えた。


 シャルロッテが碑の前へ進んだ。


 クラウディアが記録板を構え、リディアは携帯式の測定具を開く。ロランはシャルロッテの少し前に立ち、マティアスは周囲の位置を確認している。


 祈りの言葉が、古い道の端に落ちた。


 シャルロッテの祝福が、石碑へ重なる。


 北西古道碑の聖句が淡く光った。白耀塔の光よりもずっと弱く、けれど古い石の奥から応えるような光だった。


「第十一結界、北西古道碑。祝福反応、安定」


 クラウディアが記録する。


 リディアも測定具へ目を落とした。


「結界基点は正常範囲。外縁網への流れも、大きな乱れはなし。……今のところは、ね」


 異常はない。


 そのはずだった。


 けれどユナには見えた。


 石碑の足元に、見えない雫が落ちたような輪が生まれる。


 ひとつ。


 それから、ふたつ。


 みっつ。


 水はない。石畳の上に水などない。それなのに、古道碑の周囲だけが、薄い水面の下に沈んだように揺れて見えた。


 ユナは息を呑んだ。


 淡い輪が、石畳の継ぎ目を伝う。北西の古道へ向かうのだと思った。


 けれど違った。


 輪は、北西へは行かなかった。


 石碑に刻まれた読めない名のところへ触れる。そこだけが、濡れたように暗くなった。文字は浮かび上がらない。名は読めない。ただ、そこに何かの名があったのだという痕だけが、ほんの一瞬、ユナの目に残った。


 次の瞬間、淡い輪は聖都の内側へ流れた。


 聖名庁の方へ。


 もっと奥、聖名大聖堂の裏手へ。


 聖名水庭の方角へ。


「ユナ」


 シャルロッテの声がした。


 名を呼ばれて、ユナはようやく息をした。


「何か見えたのですね」


「……はい」


 ユナは石碑の足元を見つめたまま、言葉を探した。


「碑の足元に、輪が見えました。水はありません。でも、水面に雫が落ちた時のように、輪が広がって」


 喉が少し乾く。


「それが……北西へは行きませんでした」


 マティアスの表情がわずかに引き締まる。


「どちらへ」


「聖名庁の方へ。たぶん、聖名大聖堂の裏手の方へ」


 クラウディアが記録板へ筆を走らせる。


「ユナ証言として、碑下より聖名庁方向へ向かう輪状反応を記録」


 ロランは周囲を確認した。


「敵影はない。だが、警戒は上げる」


 リディアは測定具を見ていた。眉間に、わずかな皺が寄っている。


「大きな異常値じゃないわ。ただ……祝福反応のあと、外縁網へ流れた力が一拍遅れて戻ってる」


「白耀塔と同じですか」


 クラウディアが尋ねる。


「似てる。でも今回は、遅れたというより、流れの向きが一瞬だけ変わった感じね」


 リディアは測定具を閉じた。


「異常と呼ぶには小さすぎる。けど、白耀塔の記録と並べると、無視するには気持ち悪いわ」


 ユナは、もう一度碑文を見た。


 さっき濡れたように暗くなった箇所。読めない名。そこに何が刻まれていたのか、分からない。


 何の名前だったのだろう。


 村の名だろうか。

 古い道の名だろうか。

 それとも、もう誰も呼ばなくなった場所の名だろうか。


 問いは喉まで上がった。けれど、声にはならなかった。


 今は、その名を確かめている時間ではない。


 シャルロッテはしばらく石碑を見つめていた。


 やがて、静かに言う。


「第十一結界の反応が、聖名水庭の方角へ向かったのであれば、第十二結界を後回しにはできません」


 マティアスが頷いた。


「同感です。ここで立ち止まっている時間はない。ロラン卿、前をお願いします。リディア殿、観測具はすぐ使える状態で」


「了解です。すぐ出せるようにしておきます」


 リディアは測定具を閉じながら、北西古道碑へ一瞬だけ視線を戻した。


「碑文の欠けは、後で魔術局側の台帳と照合しておきます。気持ち悪い空欄ですけど……今は聖名水庭が先ですね。あの反応を放っておく方が、よほどまずいです」


 クラウディアが記録板へ素早く筆を走らせる。


「第十一結界、北西古道碑。祝福反応、安定。ユナ証言として、碑下より聖名庁方向へ向かう輪状反応を記録。詳細確認は後回し」


 ロランが前へ出た。


「隊列を詰める。ユナ、遅れるな」


「はい」


 返事をしながら、ユナはもう一度だけ石碑を見た。


 北西へ続く古い道。

 読めない名。

 石畳の上に広がった、淡い輪。


 けれど、そこで見えたものは北西へは向かわなかった。


 それはもう、ユナたちがこれから向かう場所へ、先に辿り着いているのかもしれなかった。


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