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リリア姫は思わず手を伸ばした。
「触れるな!」
しかし鋭く手は弾かれた。
氷の様に冷たい言葉、ゴミを見る目。
「ゴードン、さま……?」
「お前如きが我が名を呼ぶな、穢らわしい!」
優しかった彼が、まるで別人の様に見えた。
間違いようもなく婚約者であると言うのに。
やっとの帰還を果たし、その報告をしたばかりだと言うのに。
お前如き。
これでもリリアはこのヴァールバラ王国の第一王女である。たとえ婚約者といえども、今時点では宰相子息であるゴードンにお前如き呼ばわりされる立場ではない筈だ。
しかし、誰も彼を咎めない。
ここは玉座の間。
玉座には父王が座し、その隣に母王妃。
王の傍には国の中枢たる頼もしき宰相や大臣達が控え、玉座の間には老練たる騎士団長と勇名高き聖騎士団の花形、近衛騎士らが整然と控えている。
しかし大人達は誰も、ゴードンの暴言を咎めなかった。
父も、母も。
リリアにとってはつい最近まで、優しく慈しみに満ちた目で見守ってくれていた両親、家臣達。
見知らぬ他人なら、まだ耐えられる。
けれどここに居るのは、リリアの知ってる顔ばかり。
リリアは彼らの優しい笑顔ばかりを見て育った。
優しく頼もしい面しか知らなかった。
なのに。
今やそのどれもが嫌悪に満ちた目でリリアを見る。
侮蔑、嫌悪、唾棄すべきゴミクズを見る目。
リリアを同じ人間とすら思っていない目。
……敵を見る目。
「穢れ姫の分際で」
ずらりと八方、冷たい視線。
心がひび割れ、凍り付く。
精神が、粉々に砕けて元に戻れなくなっていく。
……悪夢だ。
信じたくない光景が、そこにあった。
ひっく。ひっく。
少々大袈裟な、少女のすすり泣く声。
さも哀しげな、悲哀と庇護を掻き立てさせようとする声。
リリアはその泣き声がワザとらしい様に感じられたが、恐ろしい目でリリアを睨んでいた周囲の者は途端に優しい目をして、慈しむ様に泣き声の主を心配しだした。
かつてのリリアを見守る様に。
「おお、泣かないでくれメイフェア。君は私がきっと守ってみせるから。穢れた魔王の売女如きに私は負けない……!」
「ゴードンさま……ぁ」
ゴードンの背に隠れて見えない。
ただ、豪奢なドレスの端が、ゴードンの身体越しに見えるのみ。縋る様な甘ったるい声で泣く度、馬鹿馬鹿しいほどの大仰さで周囲に甘やかされている。
健気な風を装いながら、嫋やかな手は艶めかしくゴードンの背に絡み付いている。
色めいた女の手付きが、酷く穢らわしいものに見えた。
男の腕の中から、恐る恐るという仕草でリリアをのぞき見る。母王妃そっくりの顔が見えた。
うるうると涙を浮かべた、臆病な子ウサギを思わせる愛らしい仕草、容貌。
その癖ゴードンの背に縋り、なぞる手は妙に色っぽくて気味が悪い。
しかし誰も気にしていない。
純粋培養で穢れなどないと信じ切って、彼女を護り愛おしむ周囲。
メイフェア。
リリアの妹だ。
ゴードンの腕の中で守られている。
彼はリリアの婚約者なのに。
嘆息の様な声が漏れた。
「メイフェア」
「口を開くな穢れ姫! 魔王の売女風情が、穢れた口で愛らしいその名を呼ぶな!」
こちらをチラ見て怖がる素振りの妹姫メイフェア。
おおよしよしとばかりに腕に抱き込む婚約者ゴードン。
刹那、垣間見えるニタリとした妹の笑み。
まるで良き両親の様に妹を心配する父母。
可憐なる妹姫を守る様に、リリアを警戒する周囲。
敵を見る目。軽蔑の目。害獣を排除する態勢。
どっと疲れが湧く。
「…………魔王の、ですか。その様な立場にありません。わたくしの身は潔白です」
「信じられるか! 半年だぞ?! その純潔が魔王に穢され、屈して、媚びていない訳がない!」
「勇者ユリウス様が魔王を倒すまでの間、わたくしは魔結晶に封印されておりました。魔王とは二三会話をしたのみで指一本触れられておりません」
「信じられるか! その顔、その胸、その身体! 誘拐して半年もあれば、男なら手を出すに決まっている!」
「わたくしはどうやら聖なる力が強く、ただ在るだけで地を清め勇者の力を増すとか。相性の悪い魔王はそれを厭い封印すると申しておりました。邪なる魔王は我が身に触れると火傷すると。……ご想像の行為は不可能かと」
「売女の癖に屁理屈こねるな! お前は半年も前に魔王に誘拐されたんだぞ!? お前の心身はもう、ずっぷり魔王に穢されたんだ! そうに決まっている! 魔王に堕ちた、穢れ姫なんだ!!」
「違います! わたくしは潔白です。本当なんです。どうか信じて……!」
「ならその証拠を見せろ!」
「それは……」
「ほら口ごもった! 後ろ暗いことがあるからだ! この穢れ姫が!」
純潔を証明する検査はある。
しかしそれは非常に屈辱的な体勢を、行為を強いる。
正真正銘、穢れなき乙女たるリリアにとってその検査を考えるだけで身の毛がよだつ。
あまりに嫌で、検査を強いられるくらいなら、誇りを守る為の死すら選択に入る。
誘拐されて、救われて、戻ってきた姫の信頼なんてこんなものなのか。
魔王と対峙という殆どの人間が一生味わわないであろう絶対的な恐怖たる災難に遭って、おぞましく凍り付いた感覚の、一瞬にして永遠の間、魔水晶封印させられて、勇者と共にとはいえ慣れない旅路、死と隣り合わせの敵討ちに燃える魔物に満ちた帰路の果て、やっと安心できる故郷に戻ってこられたと思ったのに、汚染物質扱いなのか。
一理はある。
言い分は分かる。
けれどもっと慎重に、丁重に言って貰いたいのは我が儘だろうか?
どうしてリリアが魔王に堕ちたと、頭から決めてかかっているのだろうか?
恥辱に耐えて、身の潔白は簡単に証明される。
けれどそれを証明して、その後は?
こんなにも頭から魔王の売女、穢れた姫だと信じ切っている家族や王国の者達。
魔王に穢されていなかったんだね、ならこれまで通り姫として国に尽くしてね! と言われて、これまで通りに出来るわけない。
こんな侮辱の言葉を吐いた、ゴードンと結婚させられる?
冗談じゃない。
言われるがままに王族の務めと、添い遂げる為に淡く抱いた敬意も消え失せ、残るは重く広がる失望ばかり。
そもそも妹姫メイフェアの方がお好きな様だし、あそこがまとまる予定なのでしょう。
純潔証明検査。
その検査をしただけで潔白だろうと侮蔑の対象。
疑われただけで傷物扱い。
高貴な生まれの女性は、一切の侵入知らぬ清い身体で嫁ぐのが最低条件という不文律があるからだ。もちろん純潔証明検査も侵入として扱われる。
検査を受ければもう、まともな女性として扱われない。
疑われ、検査まで要求される女性の方が悪いとされるからだ。疑われる様な振る舞いをした女の自業自得と。
亡き祖父よりも年上の、後妻業の者すら逃げ出すほど性格の悪い、或いは暴力的な癖の強い老人の妾が御の字。その条件でも妻になる資格すらない。
姫としては勿論、女性としても、人としてもリリアの価値はなくなるだろう。人間らしい人生の喪失。
それでも人々の不安を払拭してあげる為、純潔証明検査をするべきなのだろうか。目の前の異物は魔王に穢されていません安心して下さいね、と示してあげるのが正しき姫の姿なのか。
彼らは私を欠片も信じていないというのに。
婚約者ゴードンは簡単に言う。
潔白を証明しろと。
私の人生が完膚なきまでに喪われ、私を侮辱する人々がちょっとホッとする、ただそれだけの為に検査を?




