黎明前奏そのⅤ
―――黙想。
ソレが生まれたのは地球上に生命が誕生したその瞬間からだろう。
ソレは風に乗って世界へとばら撒かれた。
ソレは人類が最も忌むべき寓意の象徴。
ソレは生命と同居し、生命と常に隣り合った概念。
パンドーラの箱は厄災を世界に放ったとされるが、それと同列に、いやそれ以上に神々ですら畏怖する暗黙だ。
ソレは日本では蝶、ヨーロッパでは蛾、ギリシャでは梟と司るものは地域によって違う。懐疑的に思うかもしれないが事実そうであり、くらがりをその象徴としている地域も確かにあるのである。
何処の黙示録にて。
小羊が第四の封印を開いたとき、「出て来い」と言う第四の生き物の声を、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は『■』といい、これに陰府が従っていた。彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の獣で人を滅ぼす権威が与えられた。
―――■■■の黙示録。
ソレに意思はない。生命を滅ぼすという明確な意思など持ち得ない。現象としてその場にただ生じるだけであり、個が持っていい力の一端ではないからだ。汎ゆる恐怖の根源が此れに帰す。然しながら、異端児の躍如がそれほどまでに至るとは神ですら予想してなかっただろう。
呪われた子。
この場合、二つの意味で―――ということを先に断っておく。
愛とも形容できる呪いに包まれた憐れなる子。ソレに触れてしまった。触ったから障られた。ある意味で彼の自業自得とも呼べる。ソレは彼を愛する、その代償にその力は彼を孤独にした。拠り所のない彼は―――
自身を憐れむ。
一見利口に思えるこの行動だが、とどの詰まりは道理に合わないことを自分の都合のように解釈して、こじつけて、妄言を吐き捨てているのに過ぎない。
その先に彼の望む“答え”は存在しないというのに。
この物語は彼を起点として黎明から始まる自他を問う物語。彼の呪いが取り零すことを甘んじることはない。凡てを薙ぎ倒しても、地球上の生命が死滅しようとも、呪いは幾星霜の永久に続く。
―――ソレは彼を死なせない。
とある一節でソレをこう呼んだ。
剣と飢饉と死と地の獣。
「■■■■■」
※※※※※ ※※※※ ※※※ ※※ ※
―――病院は嫌いだ。
僕がまだ幼い頃、小学校に入学しようという時に肺炎を患い、病院に入院することになった。桜の木がよく咲き乱れていたのを思い出す。春の象徴であり、新たな出会いの象徴。ただその機会は潰されてしまったが。
僕はそんな病院を蔑称として『窓のうちの箱庭』と形容する。窓から見える景色と、箱庭のような閉塞感が僕には耐え難かった。
そんな僕を不憫に思ってか、父と母が本をプレゼントしてくれた。白い表紙に愛らしいイラストが添えられて、タイトルは『星の王子さま』。
退屈と孤独をまぎわすのにはちょうどよかった。当時は本の内容なんて理解できなかったけど、今になって読み返すと違う面白さがあることが発見できた。
僕が特に好きだったのは星を巡り、王子さまがさまざまな大人たちに出会っていくところだ。自由に生きられたら楽しいだろうなと、病院という閉鎖空間を嫌う僕は思っていた。
同時に僕は人見知りだった。
愛想の悪い子どもだったと思う。聞かれたことに対して口ごもって答えるのに時間が掛かちゃってたし、もじもじして意気地なんてないから仲のいい友達なんてできなかった。
極度の寂しがりでありながら、人とうまく付き合えない。自分でも矛盾していると思う。でも弱虫な僕は本の世界に閉じこもった。どうしようもなく、眺めた。ひたすらに目で文字を追った。
―――窓の内から桜を眺める。
つまらない日が続いて、本も読み終えようとしてた頃に。
「ねぇ何読んでるの?」
それは唐突だった。車に轢かれるような衝撃と言ったら聞こえが悪いし、比喩に訊こえないかもしれないけど、ほんとうに何かが変わるような気がしたんだ。
声をかけられた僕は本から目を離し、声がした方へと顔を上げる。
―――それは。
それは目を輝かせて浅い桃色の入院着を着用した女の子だった。月の白さが滲んだような色の長髪でまつ毛まで白いものだから日本人じゃないと思ってしまった。それから肌に生気がなく青白かった。そんなものだから今にも死んでしまうのではないかと怯えた。その眼は透き通った硝子のように透明で、平たく言えば色素がないと言えてしまえた。そして彼女はリボンを身につけているが、たれが少しばかり長い。そのリボンは紅の赤だ。
「えっと……これ」
「―――星の王子さま!これ知ってる!」
「……知ってるの?」
「うん!お母さんがよく読み聞かせてくれた」
それが僕と彼女の出会いだった。
今にして思えば僕にとって破滅的な出会いとも言えたし、自滅的な出会いとも言えた。
こんな幼いボーイミーツガールな出会いを『運が悪かった』とか『不運』と形容するのは彼女に対する冒涜にあたるだろう。
もちろん僕がその運命とも呼べる出会いを避けられたとして、もしくは彼女が僕に話しかけることがないとするならばこんなことにならなかった―――と言ったら僕は首を吊るか、ビルから飛び降りてしまうだろう。
それほどの自責があり、そんな無責任な言葉で、無責任な物言いで、無責任な言いぐさで、それら一括りで片付けていいほど眉唾な問題ではない。
でも、これが思い上がりや自惚れでないとするならば、たぶん彼女は“僕”だから話しかけたのだと思う。
理由はない、ただそう感じるというだけの感なのだから。
だからこれは僕が僕であったがゆえに起こった事件であると言えるのだ。
「本は好き?」
「ふつう……」
「わたしは好き!」
―――ある一室の病室で少年は運命と出会う。
「あなた名前はなんていうの?」
―――それは破滅的な出会いとも言えたし、自滅的な出会いとも言えた。
「ミズキ……早瀬瑞希」
―――『運が悪かった』とか『不運』と形容するのはきっと彼女に対する冒涜にあたるだろう。
「わたし式園依篭!」
―――夜に輝く星のように。
「よろしくねミズキ!」
―――思いがけない邂逅をした。
それから不規則的に彼女は僕の前へと現れるようになった。最初はよそよそしかった僕だったけど、屈託のない笑顔を浮かべる彼女に僕は軽くされた。重さではなく“心”という意味で。
朝昼晩に問わず彼女はどうにかして看護婦の目を掻い潜って、彼女は僕の部屋へとたどり着くのだ。彼女にインポッシブルなミッションなど存在しないのではないかと思わせられた。その姿を間近で見たわけではなかったが、きっとトム・クルーズも驚きのノットスタントアクションで数々のスタント俳優をスタンディングオベーションさせるが如くの拍手喝采が巻き起こすだろう。
冗談はここまでにして。
不規則に朝昼晩来るもんだから驚いた。何に驚いたって彼女―――依篭ちゃんは毎日欠かさず僕の元へとやってくるのだ。
一日平均二回くらい来ていた気がする。昼食や夕食の時には部屋に戻るが、逆にそれ以外はほとんど僕の部屋にいたと思う。たぶん一番多く来た日だと七回だった気がする。本当に忙しなかった。
こんな頻々に抜け出して病院の人に見つからないのだから驚きである。よくバレなかったものだと称賛したくもなる。
そして彼女はアーサー王の物語が好きだった。きっと幼い子にとってのアンパンマンが彼女にとってのアーサー王だったのだ。
彼女は飽きもせずに僕に話してくれた。
「アーサー王物語読もう!」
「前も見たじゃん…」
「では読んであげます!」
彼女は僕の話を聞かずに手に持っていた絵本の1ページ目を開いた。
乳白色の長髪が換気のためにちょっと開いた窓のから入る風にあおられて外の桜と共に揺らぐ。
「―――むかしむかしー、アーサーという少年がいましたとさー。
「王様の子供であるその少年は望んで生まれてきたのではなく、王様にとってただ邪魔な存在でした。
「それを不憫に思った魔術師がアーサーを引き取り、育て上げました。
「そして時は流れて彼が十五歳になったとき、『この剣を抜いたものが真の王である』と刻まれた石に突き刺さる剣が彼の住む村の湖の近くに現れました。
「村の豪傑のような男たち、王になりたいと目がくらむ似非者、そんな有象無象が引き抜こうとしますがそれでもピクリともしません。
「そしてアーサーの番となりました。
「皆が誰も引き抜けるとは思っていませんでした。
「しかしアーサーにはこんな思いがありました。
「この私がこの国を守りたい!この国を守る王となって皆を助けたい!
「その瞬間、剣が光を発しながらいともたやすく剣を引き抜いたのです。
「皆、アーサーを崇めました。
「そして正当なこの国の王として即位しました。
「アーサー王として、新たな王の誕生でした。
「その後に湖の精霊から聖剣を授かり、国の外敵を退け、円卓の騎士と呼ばれる特に優れた騎士が集う円卓を結成し、強大な帝国を築き上げました。
「しかしアーサー王の絶頂も長くは続きませんでした。
「アーサー王の息子であるモルドレッドが反旗を翻したのです。
「それはやがて戦となり、アーサー王とモルドレッドは戦います。
「勝負はアーサー王の槍の一撃で決まり、アーサー王はモルドレッドを倒しました。
「しかし、この戦いでアーサー王は致命の傷を負ってしまいました。
「やがてアーサー王は自身の死を悟り、円卓を囲んだ騎士の一人に自身の聖剣を湖の精霊に返させました。
「アーサーはそれを確認するとまぶたを閉じ、それが開くことはもうありませんでした。
「そしていずこでアーサーは今もなお眠り続けているのです。
「おしまい」
一通り話し終えると彼女はこんなことを言った。
「ミズキ―――どうしてアーサーは剣を精霊に返したと思う?」
突拍子なく、伏線など張られてなどなく突然言われたので僕は驚いた。驚いて何か言おうとしたんだ『そんなのわかんないよ』とかそれに似たようなことを。でも言葉を吐く前に彼女の表情が不意に僕の瞳に映り込んだ。
なんだが風に髪を揺らしたまま、儚くて、切なくて、淡くて、すぐに消えてしまいそうな依篭が。
幽霊のように透明で、涙が出そうになる彼女の笑顔が。泡沫になってしまいそうな儚さが、幽明に飽かされた。
僕がいったいどれほど言葉を尽くしても彼女を表現するには至らない。
彼女の月のような白髪も、彼女の晶石のようなまつ毛も、彼女の掠れた眼も、彼女の泡影のような輪郭も、彼女の幽霊のような肌も、彼女の月姫のような笑みも、彼女の桃のような耳たぶも、彼女の瑠璃のような唇も、彼女の膨らんだ頬も、彼女の雪化粧のような眉も、彼女の硝子のような爪先も、彼女のピアノのような声も、彼女の透明なその心も。
この世のどんな絶景よりも美しい。
―――結局僕はあの質問に答えられなかった。
依篭は僕が答えるのを待ったが、僕は呆けている間に外が暗くなり始めて来た頃になって、ただ一言。
「また来るね」
と言い残して僕のそばから消えるように立ち去った。僕にはレモンを噛んだような後悔が残った。
幽霊のように忽然と去り、海面が揺らいでいるようにその時の彼女の表情は寂しそうだった。
彼女の質問をなぜ僕が返せなかったのか僕にも分からなかった。
なんでだろう。
いつもと違う彼女の雰囲気に気圧されて、いや違うな。そんな安い言葉で片付けられることじゃない。僕は彼女の表情に切なさを見いだした。気を取られて、言葉を発するタイミングを失った。なにしろ過去の自分にしかわからない。
――――答えは失われた。
彼女が何かに思いを馳せていたのか、何を考えても推測にしかならない。
そして夜の帳が降りた午前の刻。0時を回った時計の針がかすかな音を奏でながら黎明に刻まれる。
その頃を回った時間でさえ僕は起きていた。あまり寝付けなかった。彼女のあんな顔を見るのは初めてで脳裏に影のように染み込んで離れないのだ。
僕は自身の想いの出で立ちに心の霧が立ち込めていた。依篭のことを考える心がもやもやする。
彼女のあの表情を、あの切ない表情を思い出すと胸がざわめく。僕は締め付けられるような甘美な苦しみを知った。
それは星の瞬きのようだ。
すぐに消えていく流星の輝きにして、遍く星々の黎明前奏なのだ。
どれほど苦しもうと、どれほど締め付けられようとも、僕のこの想いは―――
「ミッズキー!」
僕がベットで寝れないでいたとき、ふとそんな声が訊こえた。横を向けばそこにいたのは依篭だった。
彼女がこの時間帯に抜け出してくるのは初めてだった。彼女を見て思うのはちょっとした気まずさだった。先ほどの問いを答えられなかったという後ろめたさからだ。
だが彼女はそんなこと気にもとめてない様子で。
「明日さ!病院抜け出して遊ぼうよ!」
「え? いやいやお医者さんとか看護婦さんに怒られちゃうよ」
「え〜?いいじゃん遊ぼうよー」
「……いいけど」
「ほんとう!?やったー!」
破天荒の極みのような彼女であった。
「大丈夫!ちゃんと計画も立ててあるから!」
「計画って?」
「ふふん!よくぞ聞いてくれた!」
そう言って彼女は自身が建てたとされる計画の全容を僕へと知らせた。
「まずわたしがいつものようにミズキの部屋に侵入する。こんときはだいたい8時半だと思う。朝食の配膳に来た人と鉢合わせないためにね」
「それでそっからどうするの?」
「もちろん病院を抜け出す。でも病院の服だとすぐにバレちゃうし、外に出られたとしてもほかの人の目が気になっちゃうよね?だからわたしたちの服をあらかじめ用意しておきました!」
「!? いやどうやって用意したの!」
「キギョウヒミツ!」
「あーそっか……」
「ミズキのサイズがあまり分からなかったから、ちょっと大きかったり小さかったりするかも」
「まあ気にしないからいいよ」
「よかった!」
そう言ってさらに説明。いやもはや説明とは言えないかもしれないがとにかく説明を続けた。
「8時半に服を持ってわたしが来るから準備しといて」
「準備って何をさ」
「んー……とにかく準備!なんか準備するの!」
「投げやり……」
「いいからいいから!」
「はいはい、それで着替えてどうやって抜け出すのさ?お医者さんや看護婦さんに見つからない可能性もゼロじゃないでしょ」
「あ……」
「え……?」
「………………」
「もしかして、そこまで考えてなかった?」
「……うん」
「やばいでしょ!そんなんじゃすぐ見つかっちゃうよ!」
「大丈夫!もしものことがあればわたしの魔法を使うから!」
「魔法?」
「うん!わたし魔法使いなの!」
「……スゴイネ」
「あー!絶対信じてない!」
「だって魔法なんてないもん。物語だけのものだよ」
「そんなに言うんだったら明日見せてあげるよ!すんごいのをね!」
―――絶対ウソだ。
そんなふうに思いつつも全世界共通の少年の魂であるワクワクは止まらなかった。
「じゃ明日ね!」
そう言って外へ駆けていった。
そうして嵐が去ったあとのような静けさが訪れた。そしてそのまま、僕は案外すんなりと眠りについてしまった。
※※※※※ ※※※※ ※※※ ※※ ※
死ナナイデ。
嫌イニナラナイデ。
怖ガラナイデ。
離レナイデ。
傷ツカナイデ。
「そして、生きてね」
※※※※※ ※※※※ ※※※ ※※ ※
窓から朝が登ってきた。
―――空は青くて、雲は澄んでいたのを僕はよく覚えている。
桜はだんだんと散っていっていた。だが悲しくはなかった。季節が移り変わるだけのなんてことのない変化だったから。
―――そういう当たり前を、軽んじていた。
思えば、今の僕は変化するものを見ると少し、いや無性に、泣きたくなるような悲しくなるような、そんな切ない気持ちになってしまう。
過去とは違うんだと思い出にわからされる。
そしてこれは雲が空に溶けていく春の一日だ。
「………………」
ご飯も食べ終えて、時間は8時半に迫ってきた。
することも思い浮かばないので星の王子さまを読み返そうと手に取る。
それから適当にページを開く。タラタラと字を追っていた。すると、
「トゥットゥルー!おっまたー!」
静かに抜け出さなければならないはずなのに大っぴらに声を上げて依篭ちゃんは登場した。
いつもと違う依篭は白いワンピースのようなものと自身の体躯にはあまりに不釣り合いな、少しばかり大きい麦わら帽子を浅く被っていた。そして髪形もいつもは下げているのに今日はまとめて縛っており、ポニーテールとなっている。
「ちょっと、声大きいよ!」
「あっ…!ごめんごめん」
舌を出しながら両手を合わせて謝る依篭に『反省してないな』と感じつつ視線を下へと落としてみると、一つのビニール袋を手に下げていた。
そこから衣服のようなものが見え隠れしていた。
「これ、ミズキの分ね!」
「えっ、ここで着替えるの?」
「うん、そうだよ?」
「……せめてあっち向いてよ」
「なんで?恥ずかしいの〜?」
「恥ずかしいの!いいから!」
―――『まったくもう』と彼女は笑って、
「わたしは見られてもいいのになー?」
と濡れたような唇を少しだけ開けて目を細めながらこちらを覗くように見ていた。
「いいから……向こう向いて……!」
「はいはい」
依篭が見ていないうちに僕はそそくさと着替えを済ませた。幸いにも衣服の大きさはちょっぴり大きいくらいで、いつも僕が着るものとそれほど大差もないものだった。
僕が『もういいよ』と言って振り向き、彼女を見据える。同様に彼女も僕を見据えて、
「すごくいい!かっこいいよ!」
でも恥ずかしくて、
「……ありがと」
そのぐらいしか僕は返せなかった。
「じゃー早速だけど、みんなから見えなくなる魔法をかけるね」
「……でもさ、それって僕とヨルちゃんも見えなくなっちゃうんじゃないの?」
「だいじょうVだしー!」
ニシシっと笑って答える。
「魔法かけるからベットに座って」
彼女の言われるがままにベットに座る。
そして依篭は僕の隣に座り彼女は手のひらと僕の手のひらを密着させ、指と指を絡めてくる。
僕は頬を赤らめていたと思う。
「恥ずかしい?」
「―――恥ずかしい」
「……そっか」
―――恥ずかしいのは自分だ。
「―――ちちんぷいぷい!」
魔法の詠唱なのかなんなのかそのひとことを告げて彼女と僕の絡めあった手のひらが一瞬光った。
それは思い出を美化する僕の錯覚だったかもしれないけど、でもあの瞬間の一枚絵だけは本物だと信じたい。
「おわったよ」
「…もう?」
まるで実感のわかない僕は先ほどの光を見間違いと認識したと思う。
なんかの手品だとかそういう事も考えた。何か種も仕掛けもあるんじゃないかって。
結局わからなかったけど。
「さあ行こう!」
彼女は僕の手をそのまま握り、一緒に、気づいたら走っていた。病院を。
病院にいるすべての人たちに怪しい目をされると思っていた。彼女のことを信じていないわけではないが、現実味がないことに実感が持てなかったと言うべきか、僕は彼女の『魔法』を日頃の軽口だろうと思っていた。
けれど実際はどうだろう―――すれ違う人々は僕らに目もくれなかった。
医者も、看護婦も、受付も、入院着を着た人たちも、まるで本当に見えていないようだった。
「すごい……すごい……!」
「そうでしょ!」
―――何も怖くない。
―――誰も見えてない。
「誰も見てないよ!」
そんなふうに笑う彼女の背中はどこか寂しそうだった。僕もふと寂しくなった。
まるでこの世界で二人だけになってしまったようだったからだ。この小さな孤独を、二人だけで分け合えてしまった。
相会えたのだ。
窓のうちの箱庭で。
逃げ出せたのだ。
窓のうちの箱庭を。
―――そして誰も僕らの存在に気づくことなく、幽霊のようにその病院から立ち去った。
「ヨルちゃん」
「なーに?」
「ありがとう」
「……うん!」
率直に述べれば素晴らしい話のように聞こえるだろう。一人の少年が一人の少女に手を引かれ今までの閉塞感を取っ払うのは―――
だがこの物語の落としどころはそこではない。
そんなハッピーなオチはつかないのだ。
物語にアンハッピーは憑きものだ。
※※※※※ ※※※※ ※※※ ※※ ※
太陽が照る、青い空の下。雲が空に溶けていく、飽和するような春の季節のもとで、二人の幼童は駆け抜けていく。
風を抜き、人を抜き、建物もその他多くも抜き去り、けれど元気にそれではつらつと互いに手を握り合いながら、東京という大きな怪物の肚の中を駆けていく。
病院から逃げて、ずっと走っていたから手が汗ばんできて、手だけではなくて体からも汗が浮かんできて、天気がいいのが少し憎たらしく思った。
そして依篭は笑いながら立ち止まって、
「つっかれたぁ!」
と笑いながら倒れる。
ずっと笑っている彼女が青く見えた。
「はぁはぁ……暑いな……」
「公園行こ!水飲めるよ」
というわけで彼女と公園に行く。少し歩いたところに小さな公園がある。『あすなろ公園』と少し古ぼけて書かれた石の表札があった。
あまり目立たない公園で近所の子供らでも遊ぶことはあまりなさそうに思う。
―――桜は、まだ完全に散ってはいなかった。
桃色の風情は失われつつあったけど、完全にはなくなってなかった。緑が茂り始めていて、少し時の流れを感じた。
少ししたら、もう、梅雨が来て、夏が来るんだろうな………という何とも言えない翳りが心に差した。
―――いつかは大人になるんだと、そう思った。
二人で水飲み場に行こうとして、今歩く地面の感触や太陽の熱さ、じめつく自身の汗や時々突き抜ける風、そして式園依篭のほころんだ笑顔。
今になってもっとあの空気を、感触を、想いを記憶しておけばよかったと心から思う。だけど戻れない。
―――過去は過去にしか残せない想さなのだから。
「ああー……ぷっはぁ!生き返るー!」
「ふう……」
水飲み場で水分補給をして自身の身体が落ち着いてきた頃、僕は『この後なにする?』と聞きたくて彼女の方面を振り返った。
―――ビシャっと僕に水がかかった。
ヨルがくれた服が濡れてしまった。しかし濡らしたのは服を与えた張本人であったヨル自身であった。
水飲み場の水がいきよいよく溢れているところに蛇口の入り口を指で押さえ、それによって生じた水圧をうまくコントロールしたのだ。
彼女の双眸は僕を捉えながら、口角を上げ、嫌ぁーな笑みを浮かべる。
それは純粋ないたずら心であったと思う。
「もう!濡れちゃったじゃん!」
「トゥットゥルー。油断大敵なのだよ!」
『ハッハッハー!』と高笑いしたのも刹那の間、指の位置がズレたのか水圧の勢いのすべてがヨルの顔面へと振りかかる。『あべがー!?』という間抜けな声と意味不明な言葉の羅列が多少笑いのツボだった。
「うわぁー!濡れたぁー!」
「バチが当たったんだよ」
その後二人で目を合わせて笑っていた。太陽の煌めく熱さと水を被った僕らの“熱”は実にちょうどよかった。
―――身体的な意味と内面的な意味で。
それから僕らは公園の遊具を遊び尽くした。
砂場でお城を立てた。
水で砂を固めて手が砂まみれになった。
それをまた水で洗い流す。
ブランコで立ちながら漕いだ。
風を感じた。
自身が風に跨っているのではないかと錯覚するほどに。
滑り台には二人乗りで同時に滑った。
二人同時で滑ったことなんてなかったから新鮮だった。
ただヨルが僕の上に乗ってたから少しお尻が痛くなった。
ターザンロープで空を駆けた。
ガキの喧しさを大っぴらに広げた。
汗が頬を、服を、首筋をつたっていく。
ただ悪い感じはしなかった。
むしろ気持ちよかったとさえ思う。
―――何もかも初めての体験だった。
「■■■■■」
※※※※※ ※※※※ ※※※ ※※ ※
「ねぇミズキ」
「なにー?」
「これあげる」
「……なにこれ?」
「それ、バレッタって言ってね。……髪留めみたいなやつ」
「ありがとう……!」
「……えへへ」
「でもなんで僕に?」
「あー、ほっ…ほら!ミズキ髪の毛長いじゃん!最近暑いし……留めておけばさ、少しは涼むんじゃないかな!」
「……へー、いいねこれ。なんか見た目好きだな」
「もちろんミズキが好きそうなやつ選んだ!」
「うん……好き!」
「それからよかった……」
「この帯みたいなのがいい」
「よかったよかった。私ちょっと不安だったんだよね。ミズキも男の子だしさ、もっと男らしいものっていうか、オモチャとかゲームとかそういうの……の方がいいのかなぁって―――」
「そんなことないよ。ヨルちゃんが選んでくれたものすごいうれしい」
「そういうんじゃなくてさ、こうもっと、自分が欲しいなってやつ。なんかない?」
「……ないかな」
「本とかは?よく読むでしょ」
「お父さんとお母さんが僕の暇つぶしに買ってくれてたものだから、欲しいってものじゃない」
「―――……そういえば、ミズキのお父さんとお母さん見たことないけど……その、お見舞いとか来ないの?」
「入院するってなったときが最初で最後だったな、その時に星の王子さまをくれて、暇つぶしで読んでた」
「……………………………………」
「ヨルちゃ―――」
「おかしいよそんなの」
「……? どこが?」
「だってだってさ!普通、お父さんとお母さんって自分の子供が心配で入院したらお見舞いに来てくれるよ!それなのにさ―――」
「じゃあさ」
「…」
「お母さんが僕に死んだお姉ちゃんの服を着せてくるのも変?」
「――――……ぇ」
「お母さんが僕に女の子の服着せてくるのも変なの?」
「………なにそれ」
「―――僕って友達、ヨルちゃんしかいなくてさ。だからなんだね……僕が変だから友達ができないんだ」
「変じゃない!」
「………………」
「ぜっんぜっん!変じゃない!」
「―――ありがとう」
「―――うん」
「じゃあ髪につけてみるね」
「うん!見たいみたい!」
「………………………………………………………どう?」
「すごくいい!似合ってる!でもさ、ここをこうやって…………………………………………………………」
「……これは?」
「ポニーテール!やっぱりこうするともっと似合うと思ったんだぁ!」
「…………!」
「いっしょ!だからね変じゃないよ!」
「変じゃない……」
「そう!この髪型ね、よくお姉ちゃんにやってもらったんだぁー」
「お姉ちゃんがいるの?」
「うん!目に入れても痛くないお姉ちゃんだよ!」
「入るわけないでしょ」
「モノの例えだよぉ!」
「お姉ちゃんとは仲良かったの?」
「……良かったよ、すごくね」
「そうなんだ」
「いつも私、赤いリボンつけてるじゃん?タレがちょっと長いやつ。あれ、お姉ちゃんとお揃いなんだ」
「ほんとに仲いいんだね」
「うん…でも家の事情で私だけ家、追い出されちゃって」
「……なんで」
「だーかーらー。家の事情なの、もう仕方ないことなの」
「仕方なくないよ。お姉ちゃんと仲良かったのに離ればなれなんて!そんなのおかしいよ!」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
「じゃーさ」
「二人でどっか逃げちゃおうか?」
※※※※※ ※※※※ ※※※ ※※ ※
少女のその言葉に僕は何と答えただろう。
壮絶な少年期だと僕は思わない。自分が可哀想だなんて思ったことなんかなかった。憐れんだことなんてなかった。
それが普通だと思って感じて信じてきた。
だが彼女の瞳が、僕を捉える双眸があまりにも白かったから。その白さを僕は『哀切』と呼んだ。
彼女のその白い哀切は僕を孤独にはさせなかった。
まるで自分のことのように悲しんでくれた。もちろん依篭のことは大切だし、悲しんでほしくなんかはない。でも本質はそこではない。
僕の本質と呼べる心は歪んで澱んだ肉塊だった。『嬉しかった』と―――
そう思ってしまった。彼女の困る様を見て僕は喜びを得てしまったのだ。ドーパミンかアドレナリンがぐつぐつ沸き立つような感覚だったように思う。
そんな邪悪な心を持つ僕は―――最悪だ。
―――今を生きる僕をすぐにでも殺してやりたい。
なんでお前なんかが!なんでお前なんだ!なんでお前なんだよ!誰にこの怒りをぶつければいいんだ!誰を殺せばいい!?誰を吊るせばいい!?誰を晒し上げればいいんだ!!この行き場のない怒りはどこへ投げ捨てればいい!?どうしようもない!塵芥にしてやりたい!憎い!苦しい!いいや苦しめ!もっとだもっと!そんなもんじゃないだろう!怒りを!償え贖え!その首に手をかけろ。その首に、その首に、その首に、その首に、その首に、その首に、その首に、その首に、その首に、その首に―――
―――その首に手をかけろ。
※※※※※ ※※※※ ※※※ ※※ ※
この偽典幻想の物語はアウトロに向かう。
夢想の影にうつつを抜かす。
破却された病夢。
よってその名を騎兵より―――■■■■■■■。
「楽しかったぁ」
「そうだね」
「………」
「………」
「ねえミズキ」
交差点の赤信号。
押しボタンを押して、暮れた夕日に染まりながら赤信号の点滅を待っている。
「一緒に大人になろう」
―――これだけは鮮明に覚えている。
「そしたらさ、一緒に暮らして、結婚して、その……ちょっと恥ずかしいけど赤ちゃんとか……も、ね」
「………」
「そして年寄りになるまで楽しく末永く暮らすの!」
「………」
「こんな未来……素敵じゃない?」
「―――僕もそう思う」
「……ふふっ」
「それなら僕だって“オトナ”だからヨルちゃんのこと助けられる」
「私も“大人”だったらミズキのことを助けれる」
―――ずれた価値観。
「トゥットゥルー!」
赤信号が点滅から青になる。
そんな横断歩道の中央を力いっぱいに大地を踏み蹴って、夢としか思えないような酔った幸福な瞬間を少女は演出する。
「ミズキ!」
―――幻惑の対価。
「ねぇミズキ!」
―――幻惑の対価。
「私ね!」
―――幻惑の対価。
「ミズキのこと―――」
―――幻惑の対価。
「―――※ ※※※ ※ ※※」
その刹那、スカーレッドが空を舞う。
それはニキビを潰して弾けた膿みのように、轟音と共に間引かれた。辺りが鉄臭い匂いで充満する。
青信号だった。トラックが、トラックが猛スピードでやってきて少女を引いた。
そして運悪く、無垢な少女の頭部がタイヤの車輪に巻き込まれ―――
プチトマトを潰したような凄惨な姿へと変貌していた。血が死の香りを醸し出すその前で少年は泣くこともできずに、ただただ白濁とした脳に現状の惨状を情報として伝達しようとするが脳がショートしているのかピクリとも動こうとしない。
―――依篭ちゃん?
『救急車!早く!』『おい、頭潰れてるぞ!』『女の子……か?……ッゔ、お゙ぉ゙え゙』『誰もいなかっただろう!?』『助かんねぇだろ!頭潰れてんだぞ!?』などと野次馬が集まってくる。この惨劇を見て騒ぎ立てる者、思わず吐瀉物を吐き捨てる者、あり得ない状況に驚愕する者。三者三様と言えた。
少年は―――一歩も動かない。
「あ―――」
―――なんで?
―――ヨルちゃん死んじゃうの?
「ああぁ―――」
―――魔法、使っちゃって、みんなから見えていなかったから………?
「ぁ」
―――ごめ、ん、なさい。
―――ごめん、なさい。
―――ごめんなさい。
「死んじゃ駄目だ……」
―――死なないで。
―――生きて。
―――駄目だ、駄目だ、駄目だ。
―――駄目だ!
「死なないで!駄目だよ!駄目、駄目、駄目ッ!」
―――やっと、見つけられた気がしたんだ。
―――自分の意味を。
「……ぁあ」
―――僕はまた“ひとりぼっち”なんだ。
「ひ■り■■ち■■ない■」
―――ヨルちゃん……。
「■■に」
―――もう死にたいよ。
「■なないで」
―――なんでいなくなるの?
―――お前が悪いからだ。
「■■■は■くない」
「これ■■■うがな■」
―――お前が殺した。
―――お前が苦しめた。
―――それがお前の罪だ。
「■■を■めないで」
「どうか■■■■■■■■■■■」
―――なんでお前が……。
―――お前なんかが……。
―――のうのうとそこに立っているんだ……。
―――臙脂色の腐臭が漂う魂のお前が……。
―――どうして。
―――彼女を生かさなかったんだ。
―――なんでもっと周りを見なかったんだ。
―――なんで魔法なんて使わせたんだ。
―――折れたままでいればよかったんだ。
―――心なんて。
―――傷ついたままでよかったんだ。
―――会わなきゃよかった。
―――心底、死んでほしいと願うよ。
―――お前が。
『生きて』
※※※※※ ※※※※ ※※※ ※※ ※
意識が覚醒する。
時刻は2時8分、丑の刻をとうに回っている。
―――久々に懐かしい夢を見たな……。
夢のもどかしさが、奇妙な襟巻のように喉に絡み付く。その一念が官能的な刺激だけを夢幻に残して、彼女の処へと行きたくてたまらない叫びを己の心中が自覚していた。
―――依篭ちゃん。
少年は幼き日に出逢った少女のことを想っていた。その夢の出来事は現実と妄想がシチューのようにかき混ざったヘドロのようなものであった。
それはまるで出来の悪い映画でも見ているようだった。時々見る三流の映画監督が作る虚妄の物語を―――
もちろんどの夢だってまるっきり同じってわけではないのだ。細かいところはその時々によって違う。
状況と役柄は変わらず、基本的なパターンでさえ一緒、登場人物も一緒だし結末も同じだ。
シリーズ最高傑作と銘打っておきながら、見せてきたのは低予算で作られた贋作ときたら僕は怒りで腸が煮えくりかえりそうだ。
「…………」
少年は夜風に当たるべくベランダに出る。奇妙な夢を見て少しセンチメンタルになることくらいある。
ふと右手の甲が傷んだ。
夜風が彼を孤独にさせない。優しく身を包み込むよう寄り添ってくれる。
『‐‐‐‐‐‐』
その声亡き声はまだ少女を頭の傍らに想う少年には届くことはなかった。
役者は揃いついに『黎明前奏』はアウトロへ。
やがて始まるは魔術師たちによる己が最強を賭けた魔術戦争。
舞台上に役者が演じきるその様を傍らに、観客席で嗤い踊る女とこの戦いに身を投じていくこととなる憐れなる少年。
この少年は魔術戦争のイレギュラーとして、またはダークホースとしてこの物語を大団円へと導く。
―――然しながら。
―――この物語が行き着く先はバッドエンドである。




