潔いほどの、田中であった
信号が黄色から赤に変わり、私はゆるやかにブレーキを踏む、そして停止線少し手前に車を止めた。
ちょうど脇に家が一軒、ひかえていた。
歩道を挟んで、何の変哲もないブロック塀が巡らされている。
運転席からは、家の正門にあたる切れめを通し、小ぎれいに整えられた庭と、その奥の屋敷が垣間見えた。
この辺りの住宅地としては、やや敷地が広い方に入るのだろうか、それでも特に成り金らしくもなく、古くからの農家などという感じでもなく、その家はきらびやかさも派手さもないごく普通の、整った感じにみえた。
正門と言っても、塀のブロックが途切れた間に、同じような灰色の大きな四角柱が、鉄柵などもしつらえずにただ、並んで立っているだけだ。
そして右側の柱には、白い御影石が四角く嵌めこまれ、まん中に墨くろぐろと
『田中』
そう、彫り込まれていた。
潔いほどの、田中である。
細めの明朝体であろうか。
そのふた文字を目にしたとたん、私の胸中にこれまでのさまざまな出来事が蘇ってきた。
そう、まさに、怒涛のごとく。
隕石群の襲来で終末を迎えた故郷の星から、三千機の編成で辛くも脱出したあの時……
間に合わせの船は次々と宇宙の塵と消え、残るは私含め五十体の乗ったペ・ッゴイ・サイサクエ・ゲス号のみと判明したあの期間……
ン・ベリゲー航法とツパ・ッインセリハ睡眠待機とを駆使した末に、ようやく我々の生存に適した惑星を発見し、歓喜に沸いたあの日……
後に知ったことだが、ここの文明では我々の母星は、彼らの観測可能な宇宙内でも一番、遠い場所だったようだ。
そして住環境が一番近いという点で、私たちとこの地球と名付けられた星との出逢いは、奇跡とも言える巡り合わせの結果であった。
我々は、母星に文明を築いていた三万年(地球時間に換算)もの間、常に他を抑え征服し、自らを拡げ高めるためだけに存在する、誇り高き種族として生存してきた。
そんな我々の種族ではあるが、既に、この宇宙空間上には個体としては殆ど残されていない……私と連れ合い、そして私たちの子ども一体のみ。
私の本名は、イーサ・クバレイ・ンャチージオドケ・ダ・ンナャチッイ。
もちろん、今名乗っている夏井伊作は仮の名である。
隕石群は、数少ない科学者の間では既に数百年前から予言されていた。しかし、好戦的な政府間の諍いが災いし、それらの見解はまるで、日(地球上における太陽)の目をみることはなかった。
降り注ぐ隕石群の中、ようやく飛び立った飛行船団の中でも諍いは絶えなかった。
自刃して果てる者、地団太を踏んで当たりちらし、他を傷つけたり命を奪ったりする者、発狂して操縦を誤り、他の船とぶつかって宇宙の藻屑と化す者たち……
ペ・ッゴイ・サイサクエ・ゲス号のヨシー・ド・タデモミ艦長は、我々種族の中でも珍しい、沈着冷静な、しかも遠い先まで見通しのきく優れたコンチ(ひと)であった。
彼はすぐさま、舵をチラア方向に固定し、すぐさまン・ベリゲー航法を使用するよう、機関士に命じた。
その結果、我々だけが生き延びることができたのだ。
聡明な艦長であったが、この地球に向かう時にはすでに船は耐久年数ギリギリの状態だった。
地球に降り立ち、死なずに済んだのはたった二体。この私と、ユウ・ョシモ・トレソスーソニ・キヤマダメのみ。
我々はテレパシーで誓いあった。
必ず、この星を征服しよう、そして我々の種族で埋め尽くそう、と。
環境に対応するために数百万年を費やし、そしてこの星の最上位種に変換するための移行期間に更に数百万年をかけた。
どうにか適応種として固定されたのは、ごく最近のことだ。多細胞種にまで変換が済んだ我々は潮の流れに乗って、この島に流れ着き、小さな湾で少しずつ、成長していった。
その時代の『ヒト』なる種族の形を取ってからは、成長は速かった。
我々は見る見るうちに知識を吸収し、そして、最終的には……
ニホンのトーキョーコウガイ、カワサキという場に所帯をもった。
キャマダメとの討議の結果、私がヒトのオスに、キャマダメがメスに変異した。
私はごく普通のカイシャインとして日々を送った。キャマダメもごく普通のカイシャインとして、日々を送った。
ブチョーという種類に罵倒され、コキャクにもてあそばれた。
キャダマメの方も似たりよったりだった。
しかし、私たちは誓いを忘れることなく、生存の基盤を徐々に拡げて行った。
そして、人びとが寝静まる夜中、我々の暮らすアパートで、何度もヒトの生殖行為を繰り返してみた。
娘が生まれた。
それは本当に地球的な、ヒト的な出産だった。
好戦的だった私たちはこの星に降り立ってからずっと、たった二体であった。
しかし限りない譲歩と忍耐によって、そして常なる情報収集と分析とによって、この星のこの生体に合わせた方法で、ようやく後継者を手に入れることができたのだった。
後継者の生育状況も、まさに地球的、そしてニホン的であった。
生まれてから地球時間の二十年、我々は本来の目的も忘れがちになりながら、後継者としての子どもを育てていった。
ホイクエンなるものに娘をたくし、私たちはまず収入の安定をはかるべく、とにかく働いた。
ガッコウなるものにも通わせた。ヨボウセッシュも、娘がすっかりヒトとしての個体が定着しているとの判断で全てもれなく受けさせ、ヒトらしい病気の際にはおろおろと、近くの空いている病院を駈け廻って診てもらった。
幸いにも、娘はすっかり、ヒトとして生物学的にも社会的にも、地球にに根付いたようであった。
しかし、娘は二十歳になった時、我々の前に正座し両手をついて、こう言ったのだ。
「おとうさん、おかあさん、今まで育てていただいて、本当にありがとうございました」
地球上で「薫」と名付けた我々の娘は、少し前からカイシャインになっていた。
そのカイシャで、なんとヒトの男と知り合い、コイに落ちたらしい。
コイというのが何なのか解らなかった私とキャマダメ――その時には優と名乗っていたが、妻の優とはただぽかんと、カオルのことばを聞いているしかなかった。
カオルが好きになった男。
そいつの名は「田中真」。
私は、それを聞いた時なぜか種族本来の気質が急に蘇ったようだ。
つまり、思わずこう叫んでいたのだ……チャブダイをひっくり返しながら。
「馬鹿やろう!! 勝手にしろ! お父さんは知らん!
もうお前なんぞ娘でも何でもない!
どこへでも行ってしまえ!
オレは絶対もう、お前とも会わんし、タナカというどこかのウマノホネにも会わないからなっ!
ずぇぇぇぇぇ~~~っっっっったいに!!」
薫は黙って、部屋から出て行った。
それから間もなく、大きな荷物を持って家から出て行った。
迎えに来た田中某を、私は家の中からただ黙って睨んでいた。
やけに肩幅が広く、その割に笑顔が優しげだな、と何となく感じただけであった。
優は、ずっと泣いていた。
それからというもの、娘にも会っていなかったし、その田中がどこに住んでいるのか、彼らがどんな暮らしを営んでいるのか、いっさい興味をもつことを止め、ただ私たちは淡々と日々を送っていた。
滅びの日に向かって。
もっと早く、せめてもう三世代早くここに居ついていれば、間に合ったかもしれないのに。
そう、優はつぶやいて、また泣いた。
地球のヒトも、あと数世代で滅びのときを迎える。
知ったのはつい最近だ。
私と優とが日々の暮らしに埋没せず、もっとしっかり地球規模の事変を把握していれば、防げたかも知れないのだ。
次に襲い来る災厄を防いだことで、私たち種族は崇めたてまつられ、或いは新しい生殖の方策も見つかったのかも知れない。
しかし既に、どれも遅すぎた。
私たちはあまりにも、ヒトとしての生き方を享受し過ぎていたようだ。
クラクションの音で、私は我にかえる。
ヒトとしての、夏井伊作としての、我にかえった私は今ふたたび、その表札を見た。
その家は、まるで私たちとは関係ない家なのかも知れない。
しかし、もしかしたら、私たちの娘が住んでいるのかも知れない。
すでに数年前に家を出て行ったきり、音沙汰のない私たちの娘が。
白い表札には、墨くろぐろとただ二つの文字。
田中、としか刻まれていない。
潔いほどの、田中であった。
私はその表札に深ぶかと頭を下げる。
「娘を、よろしくお願いします」
クラクションがまた鳴って、私はおもむろにアクセルを踏み付けた。
わずかに残ったかつての気質が、ふだんはおとなしい車のタイヤを思いきり鳴らす。
私はただ車を前に走らせるのみであった。妻の優が待つ、その家に。
了