第41話 最凶公爵令嬢は、小さな排除を見過ごさない
翌朝の一年一組は、いつも以上に“普通”を装っていた。
静かではない。
だが、落ち着いてもいない。
令嬢たちは笑みを交わし、令息たちは教本を開き、朝の挨拶も交わされている。けれどその全部の下に、薄く、しかし確かに張りついた違和感があった。
誰かを見ていないふりをする空気。
何かを知っていて、そこへ触れないように歩幅を揃える空気。
それは学級という小さな共同体が、“排除”を始める時の顔だった。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、扉をくぐった瞬間にそれを察した。
「早いわね」
小さく呟くと、廊下側に控えたルークが低く返した。
「ええ」
「誰かしら」
「まだ断定はできませんが」
ルークは教室内を一瞥する。
「少なくとも、お嬢様ではございません」
その言い方に、セレスティアはほんの少しだけ口元を上げた。
「珍しいわね」
「はい」
「私以外が空気の中心になるなんて」
「少なくとも、今朝はそう見えます」
セレスティアは自席へ向かいながら、視線を教室全体に滑らせた。
すぐに見つかった。
後方の壁際、窓から少し離れた席。
男爵家の娘、ノーラ・フェンディル。
目立つ令嬢ではない。成績は中の上。発言も少なく、誰かの前へ出るよりは空気を読んで端へ寄る方の少女だ。イザベラの取り巻きでもなく、セレスティアを露骨に恐れる側でもなく、ただ“学級の中にいる一人”としてこれまで埋もれていた。
そのノーラの周囲だけが、妙に空いていた。
露骨に離れているわけではない。
だが近づく者がいない。
話しかける者もいない。
本人もそれを悟っているのか、教本を開いたまま視線を上げない。
つまり、誰かが先に線を引いたのだ。
そしてその線に、皆が静かに従っている。
「お嬢様」
「ええ」
「見えました」
「そうね」
セレスティアは席に着いた。
イザベラ・フォン・クロイツは、すでにそれに気づいている顔だった。だが今の時点では動かない。まだ誰が火元か、あるいはどの程度まで広がっているのかを測っているのだろう。
レオンもディルクもここにはいない。
当然だ。
これは騎士科の盤面ではない。
王族の盤面でも、外の政治でもない。
一年一組の中で起きている、最も日常的で、最も扱いの難しい種類の排除だ。
一限目の講義が始まる。
担当教師は普段通り進めている。気づいていないか、気づいていても今は触れないのかは分からない。だが教室の空気は、講義中にも消えなかった。
ノーラが答えを求められて立ち上がる。
声は少しだけ小さい。
答えは間違っていない。
だが着席した後、隣の席の令嬢がほんの僅かに椅子を引いた。
悪いわね、とセレスティアは思った。
こういうのが一番悪い。
殴るわけでもない。
罵るわけでもない。
ただ“なんとなく距離を取る”で、人を静かに外へ押し出していく。
しかも、それをやっている側は、自分たちをそこまで悪いとは思っていないことが多い。
二限目の休憩に入る。
その瞬間、空気はさらに分かりやすくなった。数人の令嬢がまとまって立ち、何でもない顔でノーラの席を避けるように動く。ノーラは水差しへ向かおうとして、一瞬だけ足を止め、結局行くのをやめた。
「お嬢様」
ルークが低く言う。
「見過ごされますか」
セレスティアはすぐには答えなかった。
窓の外を見る。
春の光は穏やかだ。
だが教室の中だけが、妙に息苦しい。
父の返書が頭をよぎる。
見る。
選ぶ。
立つ。
これは、どれなのか。
価値のある盤面として見るだけで済むか。
あるいは、ここで立たなければ鈍く腐るか。
「……面倒ね」
小さく呟いてから、セレスティアは立ち上がった。
教室の空気が、ほんの一瞬だけ止まる。
セレスティアが自分の席を立つだけでそうなるあたり、もう十分に異常だと自分でも思う。だが今はそれを気にしても意味がない。
セレスティアは真っ直ぐノーラの席へ向かった。
そこで、教室中の空気が本当に止まった。
ノーラ自身が、驚いたように顔を上げる。
「何かしら」
セレスティアは彼女の机の横で止まり、静かに言った。
ノーラの目が揺れる。
明らかに予想外だ。
セレスティアが自分へ来る理由など、考えたこともなかったのだろう。
「え……」
「水差し、取りに行きたかったのでしょう?」
ノーラの表情が硬直する。
図星だった。
「……はい」
ほとんど声にならない返答。
「では行きましょう」
セレスティアはそれだけ言った。
教室内に、妙な静寂が落ちる。
ノーラは一瞬、自分の耳を疑ったような顔をした。それから立ち上がる。動きが少しぎこちない。周囲の視線が一斉に突き刺さっているのが分かるからだろう。
だがセレスティアは気にしない。
そのまま水差しの置かれた棚まで歩く。
ルークは何も言わず、廊下側から全体を見る位置に移る。
イザベラは席から動かない。
ただしその目は、今この瞬間の教室全体の反応を一人ずつ見ている顔だった。
ノーラが水を注ぐ。
手が少し震えている。
その隣で、セレスティアは平然としていた。
「ありがとう、ございます……」
ノーラが小さく言う。
「別に」
セレスティアは淡々と返す。
「喉が渇いたなら水を飲めばいいでしょう」
その何でもなさが、かえって強かった。
席へ戻る。
戻った瞬間、教室の空気がまた別の意味で揺れた。
排除の線が、一度そこで切れたからだ。
完全には切れていない。
だが少なくとも、“ノーラへ近づくとまずい”という暗黙の了解に、セレスティアが真正面から足を乗せた。
つまり今度は、皆が考え直さざるを得ない。
誰が線を引いたのか。
なぜ引かれたのか。
そして、セレスティアがそこへ立った意味は何か。
「ごきげんよう、グランフェル様」
柔らかな声がした。
イザベラだった。
だが今日は笑みの温度が少し低い。
怒っているわけではない。
ただ、かなり真剣だ。
「何かしら」
「後で少しだけ、お時間をいただいても?」
「内容によるわ」
「でしょうね」
イザベラは頷いた。
「ですが、今の件はかなり“後”に響きます」
「そうでしょうね」
セレスティアはあっさり言う。
「分かった上でやったわ」
イザベラの目が、そこでほんの僅かに細くなる。
「そうですの」
「ええ」
「では、後ほど」
それだけ残して、イザベラは自席へ戻る。
周囲の令嬢たちは、もう完全に落ち着かない顔をしていた。
誰も何も言わない。
だが、この教室で今“何かが起きた”ことだけは全員が理解している。
二限目の残り時間は妙に静かだった。
休憩が終わり、講義が再開しても、先ほどまでの“何となくノーラを外へ押し出す空気”は薄れている。完全に消えたわけではない。だが、少なくとも無自覚に続けられる段階は終わった。
セレスティアはそれで十分だと思った。
排除そのものを一度止める。
その上で、誰がどう動くかを見る。
いきなり全員を裁く必要はない。
昼休み。
北回廊の端で、イザベラ・フォン・クロイツが待っていた。今日は最初から、話をする気の位置取りだ。
「ごきげんよう、グランフェル様」
「ごきげんよう」
「少し、困りましたわね」
その第一声に、セレスティアはほんの少しだけ口元を上げた。
「またそれなのね」
「ええ、またです」
イザベラは苦笑した。
「でも今回は、本当に困りましたの」
「どうして?」
「あなたが、ついに学級の中で“立った”からです」
セレスティアは黙ってイザベラを見る。
父の返書が、頭のどこかで静かに響いた。
見る。
選ぶ。
立つ。
たしかに、今朝のあれは“立った”のだろう。
「そう見えたのね」
「ええ」
イザベラははっきり答える。
「今までは、価値のある盤面へだけ触れていた。けれど今朝のあなたは、“この排除はここで止める”と、学級内の空気へ明確に線を引いた」
悪くない見立てだった。
「それで困るの?」
「困りますわ」
イザベラは小さく息をついた。
「なぜなら、今朝の一件で、これから一年一組の中で何かが起きるたびに、“あなたがどう動くか”が一つの軸になってしまうからです」
それはたしかに厄介だった。
セレスティアは一つ息を吐く。
「でも、見過ごしたら腐るでしょう」
「ええ」
「なら、どちらにしても面倒よ」
イザベラはそこで、ほんの少しだけ笑った。
「本当に、その通りですわ」
短い沈黙。
それからイザベラは静かに言った。
「火元は、だいたい見えました」
セレスティアの目が細くなる。
「誰かしら」
「ノーラ様の後ろの席の令嬢です。直接命じているわけではありませんが、あの方が距離を置いたことで、周囲がそれに合わせたようです」
「理由は?」
「些細ですわ」
イザベラの声に、ほんの少しだけ冷たさが混じる。
「ノーラ様が先日、課題提出の順番を勘違いして、その令嬢に軽く恥をかかせた。それを、“気の利かない方は少し距離を置いた方がいいのでは”という空気へ変えたようです」
安い、とセレスティアは思った。
だが、そういうものほど広がる。
「名前は」
「フィオナ・ベルクレイン」
知らない名ではない。
子爵家だったはずだ。
目立つタイプではないが、学級内の小さな空気を上手く使う類の令嬢。
「どうするつもり?」
セレスティアが問うと、イザベラは答えた。
「わたくしが動きます」
「珍しいわね」
「今朝、あなたが先に立ってしまいましたもの」
その言葉に、セレスティアは少しだけ目を細めた。
「私に借りでも返すつもり?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「学級の空気を戻します」
それがイザベラだ。
自分の領分として処理する。
感情ではなく、場の均衡として。
「好きにしなさい」
セレスティアがそう言うと、イザベラは一礼した。
「ええ、そういたしますわ」
最凶公爵令嬢は、小さな排除を見過ごさない。
そして見過ごさなかったことで、
ついに一つ、
学級内の盤面で“立つ”側へ足をかけた。
それは面倒の始まりでもあり、
選んだ責任の始まりでもある。
だが、だからこそ見えるものも増える。
誰が火をつけるか。
誰が合わせるか。
誰が止めるか。
誰が、それを“なかったこと”にしようとするか。
盤面は、また一段深くなった。




