第40話 最凶公爵令嬢は、慎重になった外の使者を値踏みする
翌日の昼下がり、王立アルディオン学園の空気はどこか落ち着いていた。
静かになったわけではない。
ただ、ここ数日続いていた“何かが起きるかもしれない”という熱が、少しだけ鈍っている。
学園長代理が動いた。
教師陣も見ている。
騎士科側も熱を抑え始めた。
女子側も、単純な不快だけで騒げる段階を少し過ぎた。
盤面が一段整理されたのだ。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、その変化を感じながら本棟中央階段を下りていた。次の講義まで少し時間がある。図書室へ寄るつもりだった。
「お嬢様」
「何かしら」
半歩後ろのルークが低く言う。
「本日は、外側の気配がございます」
セレスティアは足を止めない。
「ええ」
「昨日までより慎重でございます」
「でしょうね」
慎重である時点で、誰が来たかはある程度絞れる。
アーネスト・ヴァルグレイのような男なら、こういう時ほど余裕の顔を作りたがる。
ディルクなら、もっと率直だ。
レオンなら、気配の角がもっと少ない。
では、誰か。
階段を下り、本棟一階の回廊へ出たところで、その答えが姿を現した。
ウォルター・エルムヘイヴン。
痩せすぎず太すぎず、よく整えられた中年男。柔らかな顔つき。磨かれた物腰。
以前、学園内の来賓談話室でセレスティアへ接触し、匿名の相手を差し出そうとして切られた男だ。
今日は一人ではなかった。
少し後ろに控えた事務方らしき男が一人いる。だが、それは護衛というより立会いの記録係に近い。
そして何より、前回より距離がある。
近づきすぎない。
先に声をかけるが、空気は押しつけない。
慎重になったのは明白だった。
「ごきげんよう、セレスティア様」
ウォルターが一礼する。
「ごきげんよう、エルムヘイヴン卿」
セレスティアも必要十分な礼だけ返す。
「先日は、こちらの詰めの甘いお話をお聞かせしてしまい、失礼いたしました」
まずそこから来た。
悪くない入り方だ。
「そうね」
セレスティアは淡々と返す。
「かなり甘かったわ」
ウォルターは苦笑に近い息を漏らした。
「お言葉どおりでございます」
そこを否定しないのも悪くない。
「それで、今日は何かしら」
セレスティアが問うと、ウォルターはほんの少しだけ表情を引き締めた。
「本日は、前回の続きではありません」
「では?」
「訂正と、改めての確認です」
セレスティアは少しだけ目を細める。
創作した体裁の謝罪でも、安い誘いでもない。
訂正と確認。
言葉の選び方としては、前回よりはるかにましだ。
「聞くだけ聞くわ」
「感謝いたします」
場所はそのまま、回廊脇の小さな待合スペースへ移した。完全な密室ではない。だが、人通りから半歩外れた位置で、短い話をするには十分だった。
セレスティアが腰を下ろす。ルークは斜め後ろ。ウォルターは向かいへ。後ろの事務方の男は少し距離を置いて控えた。
「訂正とは?」
セレスティアが先に促す。
ウォルターは素直に答えた。
「前回、私は“名を伏せた相手”との接触を持ちかけました」
「ええ」
「それは、あなたを正しく見ていない提案でした」
率直だった。
セレスティアは黙って続きを待つ。
「私は、あなたが“価値のある盤面なら見る方”だと理解したつもりで、しかし同時に“匿名の相手でも、その先の価値を見て動くだろう”と甘く見ておりました」
「そうね」
「ですが実際には違った」
「当然でしょう」
セレスティアは静かに言う。
「私は、名も出せない相手の値踏みに付き合うほど安くないもの」
ウォルターは頷いた。
「その通りです」
そこに反発はない。
少なくとも今日のこの男は、本当にそこを訂正しに来ている。
「それで、確認は?」
セレスティアが問うと、ウォルターは一拍置いてから言った。
「今もなお、あなたに興味を持っている者はいます」
「でしょうね」
「ですが、前回とは少し性質が変わっております」
「どう変わったの?」
「“見たい”から、“一度きちんと話すべきではないか”へ」
その表現に、セレスティアは少しだけ口元を上げた。
「ずいぶん都合がいいわね」
「ええ」
ウォルターも認める。
「ですから、今日はその確認だけです」
「何をかしら」
「あなたが、“名も出せない相手とは話さない”という線を今も変えていないか」
なるほど、とセレスティアは思った。
前回の失敗を踏まえ、今日は誘いを持ってきていない。
その前提条件だけを確認しに来たのだ。
悪くない。
少なくとも、話の順番を学んだ。
「変えていないわ」
セレスティアは即答した。
「そうですか」
「ええ」
「理由も、以前と同じで?」
「同じよ」
セレスティアはまっすぐウォルターを見た。
「名を伏せる側は、最初から上に立ったつもりでしょう。私はそれが嫌いなの」
ウォルターはそこで、ほんの少しだけ苦笑した。
「やはり、そこを最も嫌われますか」
「ええ」
「たしかに、匿名のまま相手を見ようとする構図自体が、あなたにとっては失礼になる」
「理解が早くなったわね」
「学びましたので」
その返しに、セレスティアは小さく頷いた。
悪くない。
この男は前回切られたことを、“自分が拒絶された”だけで終わらせていない。
ちゃんと提案の構造そのものを見直している。
「では、こちらも率直に申し上げます」
ウォルターが言う。
「今この段階で、具体的な名前を出して改めて場を持つ提案をすると、学園内外の空気がまた一段揺れます」
「そうでしょうね」
「ですから、今日の時点ではそこまで進めません」
「賢明ね」
「光栄です」
その言葉を今のこの男が使うと、前より少しだけましに聞こえた。
「ただし」
ウォルターは続ける。
「近いうちに、相手の名を明かした上で、それでもまだ話す価値があるかどうかだけを問う形で、改めて打診する可能性があります」
セレスティアは数秒だけ考えた。
父の返書。
学園長代理の面談。
セルウィンの言葉。
見ている。
選ぶ。
立つ。
今は、まだ選ぶ段階だ。
だから、こういう確認そのものは切らない方がいい。
「その時は、その時に判断するわ」
そう答えると、ウォルターの目に少しだけ安堵がよぎった。
「ありがとうございます」
「感謝は早いわ」
「ええ。承知しております」
短い沈黙のあと、セレスティアは逆に問うた。
「一つ聞くわ」
「どうぞ」
「あなた自身は、私をどう見ているの?」
ウォルターは一瞬だけ驚いた顔をした。
予想外だったのだろう。
だがすぐに表情を整える。
「前回は、“興味を持たれている公爵令嬢”として見ておりました」
「今は?」
ウォルターは、少しだけ考えた。
「自分が乗る盤面の条件を、自分で定めようとする方だと」
悪くない答えだった。
「それなら、前より少しはましね」
セレスティアがそう言うと、ウォルターは本当に少しだけ苦笑した。
「かなり厳しい評価ですが、前進と受け取ります」
「好きにしなさい」
会話はそこで足りた。
ウォルターは立ち上がり、一礼する。
「本日はこれ以上、余計な提案はいたしません」
「そうするといいわ」
「では、失礼いたします」
去っていく背中は、前回よりずっと軽かった。
安さが消えたわけではない。
だが少なくとも、“切られたことに執着して自分の物語を作る男”ではない。
そこはアーネスト・ヴァルグレイと違う。
「お嬢様」
ウォルターたちの姿が見えなくなってから、ルークが低く言った。
「何かしら」
「かなり変わりましたね」
「ええ」
「エルムヘイヴン卿でございます」
「前は、盤面を整えたつもりでこちらを測ろうとしていた」
「本日は」
「測り方そのものを見直してきたわね」
ルークは一礼した。
「いかがご覧になりますか」
セレスティアは少しだけ考えた。
「悪くないわね」
「保留の価値が」
「ええ。少し上がった」
そこまで言ってから、セレスティアは窓の外へ視線を向けた。
夕方の学園は静かだ。
だが、その静けさの内側では相変わらず盤面が細かく動いている。
イザベラは空気を整える。
レオンは熱を削る。
ディルクは線を覚え始めた。
マリアとリディアは女子側の不快を別々に切り分ける。
セルウィンは大人として距離を測る。
ウォルターは外の使者として、ようやく順番を学び始めた。
そして自分は、その全部を見ている。
だが、まだどこにも“立って”はいない。
最凶公爵令嬢は、慎重になった外の使者を値踏みする。
切った相手が学び、整え、順番を変えてきたなら、
その変化自体はちゃんと評価する。
それは甘さではない。
盤面を見る者として、当然の選別だ。
そして翌日。
その選別の中で、
ついに一つだけ、
セレスティアが“見るだけでは済まない”場面が訪れる。
女子側でも、騎士科でも、王族でもない。
もっと日常に近く、
それでいて無視すると盤面全体が鈍く崩れる種類の問題。
発端は――
一年一組の中で起きる、小さな排除だった。




