第38話 最凶公爵令嬢は、動き始めた女の意図を見逃さない
翌朝の空気は、前日までより少しだけ薄かった。
静まった、というよりは鈍ったと言う方が近い。
学園長代理との面談があったことそれ自体は、まだ全員が正確に知っているわけではない。だが、教師側と事務方の空気が一段変わったことで、感のいい者たちは“どこかで線が引かれた”ことだけは察していた。
そうなると、人は少しだけ動きを止める。
安く触っていい話題ではなくなったかもしれない、と。
それは悪くない変化だった。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、そうした空気を感じながら一年一組の扉をくぐる。
「お嬢様」
「何かしら」
廊下側に控えるルークが、低く言う。
「昨日より、露骨な視線は減っております」
「ええ」
「ですが、その分だけ“見ているふりをしない目”が増えております」
「でしょうね」
セレスティアは淡々と席へ向かった。
熱が落ち着けば、今度は整理の段階に入る。
誰がどこへ立つのか。
誰と距離を詰め、誰を避けるのか。
そういう静かな選別が始まる。
その意味では、むしろここからの方が本番だ。
イザベラ・フォン・クロイツは今日も整った笑みを浮かべていたが、机の横まで来ることはしなかった。代わりに、一度だけこちらへ視線を寄越し、ごく僅かに頷く。
今朝は動かない。
そういう合図だろう。
悪くない判断だと、セレスティアは思った。
そして、その代わりに動いたのは別の女だった。
二限目の休憩に入った頃、教室の扉の前に立った気配に、セレスティアはすぐ気づいた。昨日までのような“上品さを装った群れ”ではない。一人だ。しかも、ためらいはあるが退くつもりはない気配。
リディア・アシュクロフト。
淡い金髪を整えた二年令嬢は、教室の前に立つと、以前よりずっと素直な顔で口を開いた。
「グランフェル様」
「何かしら」
セレスティアは座ったまま答える。
周囲の空気が少しだけ揺れる。
また二年の女が来た。
そういう熱だ。
「少しだけ、お時間をいただけます?」
「内容によるわ」
その返しに、リディアはわずかに苦笑した。
「そのお返事にも、少し慣れてしまいましたわ」
「そう」
「ええ」
彼女はそこで一拍置いた。
「今日は、昨日の続きではありません」
「では何?」
「確認が一つと、提案が一つです」
昨日は“謝罪ではなく確認”と言った。
今日はそこへ“提案”が足されている。
前へ進める気があるということだろう。
悪くない。
「外で聞くわ」
セレスティアが立ち上がると、リディアの表情にほんの僅かな安堵が走った。断られなかったことに対する安堵だ。だが喜びすぎない。そこはまだ分かっているらしい。
廊下へ出る。
ルークが半歩後ろに付く。
イザベラは席から動かない。だが、確実に聞こえる位置にいることは分かった。
「それで」
人通りが少し薄い柱際まで移ってから、セレスティアが促す。
「何かしら」
リディアはわずかに息を整え、それから言った。
「まず確認したかったのは、昨日お話ししたことを、あなたが誰かにそのまま流したりはしていないか、です」
セレスティアは少しだけ目を細めた。
「面白い確認ね」
「必要でしたの」
「どうして?」
「わたくしが昨日ここへ来たこと自体を、知らないはずの方が知っていたからです」
そこまで聞いて、セレスティアは内心で一つ頷いた。
なるほど。
ようやく、リディアが動いた理由の輪郭が見えた。
「誰が?」
セレスティアが問うと、リディアは少しだけ表情を硬くした。
「二年女子寮側の令嬢が一人」
「名前は」
「まだ伏せます」
即答だった。
そこは簡単には渡さないらしい。
「理由は?」
「まだ断定できないからです」
それも筋は通っていた。
「それで、あなたは私を疑ったの?」
「少しだけ」
リディアは認める。
「あなたが誰かへ話した可能性も、ゼロではないと思いましたもの」
「なるほど」
「でも」
リディアは続ける。
「あなたは、そういう流し方をする方ではなさそうだとも思っていました」
「今は?」
「今は、その可能性はかなり低いと見ています」
正直だった。
セレスティアはそこで小さく頷く。
「答えるわ」
「はい」
「私は、あなたと話した内容を、そのまま誰かへは流していない」
リディアの肩が、ほんの少しだけ緩んだ。
つまり本当に、そこは気にしていたのだろう。
「ありがとう」
「それで提案は?」
セレスティアが問うと、リディアの表情がわずかに引き締まる。
ここからが本題だ。
「マリアと、もう一度だけ三人で話せませんか」
セレスティアは黙ってリディアを見る。
悪くない提案だ。
だが、そのまま呑むにはまだ少し足りない。
「理由を聞くわ」
「マリアは、あなたを盤面として見ています」
「知っているわ」
「わたくしは、そこまで割り切れていませんでした」
「ええ」
「でも昨日、あなたと話してから少し分かったんです」
リディアは言葉を選びながら続ける。
「わたくしたちが今感じている不快や不安は、あなた個人だけへ向けても意味がない」
そこまで言えるなら、昨日よりはかなり前進している。
「つまり?」
「誰がどう煽っているのか、誰がどう見せたいのか、その方を見るべきだと」
リディアの瞳はまっすぐだった。
上品に整ってはいる。
だが、昨日のように“周囲からどう見えるか”へ逃がす言い方ではない。
自分の言葉で掴みに来ている。
「それで、三人で?」
「ええ」
「なぜマリアを入れるの?」
「わたくし一人では、たぶん足りないからです」
その答えは好ましかった。
自分の限界を理解している。
「マリアは盤面を見られる。わたくしは女子側の不快や反発の温度に近い」
リディアは続ける。
「あなたは、その両方を切り分けられる」
「ずいぶん都合のいい組み方ね」
「そう思います」
リディアは苦笑した。
「でも、今の女子側の空気を見ていると、誰かが一度整理しないと余計な方向へ行きそうで」
「私に整理役をやれと?」
「そこまでは言いません」
「でも、少しは期待しているでしょう」
リディアは数秒だけ黙り、それから答えた。
「ええ、少しは」
正直だった。
セレスティアはそこで、ほんの少しだけ面白くなった。
「あなた、やっぱり浅いだけではないわね」
「それは褒められているのでしょうか」
「半分は」
リディアが小さく息をついた。
「そういう返しをなさると思っていました」
「それで」
セレスティアは視線をまっすぐ向ける。
「一つ確認するわ」
「はい」
「あなたは今、私を“女子側の空気を鎮める便利な存在”として見ているの? それとも、“見誤ると危ない盤面を一緒に整理できる相手”として見ているの?」
リディアの表情が一瞬だけ固まる。
鋭い問いだった。
だがここを曖昧にすると、あとで必ず腐る。
リディアは数秒考え、それから低く言った。
「後者でいたい、が近いです」
「いたい?」
「まだ完全にはなれていないと思うから」
悪くない答えだ。
“後者です”と即答しないところに、まだ正直さが残っている。
「そう」
「ええ」
「では保留にするわ」
セレスティアがそう言うと、リディアの目がわずかに揺れた。
「断らないのですね」
「価値はあるもの」
「……ありがとう」
「感謝は早いわ」
セレスティアは続ける。
「マリアにも伝えなさい。三人で話すなら、場は私が選ぶ。時間も短く。あと、誰かを味方に引き込む話にするなら切る」
リディアはすぐに頷いた。
「分かりました」
「その上で、もう一つ」
「何でしょう」
「あなたを知っていた“二年女子寮側の令嬢”については、見えた段階で知らせて」
リディアの目が少しだけ開く。
「そこまで聞きますの?」
「当然でしょう」
「……そうですね」
リディアは頷いた。
「見えたらお伝えします」
それで会話は足りた。
リディアは一礼し、去っていく。
背筋は相変わらず綺麗だ。
だが、昨日より迷いが少ない。
自分の不快を“確認”と“提案”へ変換するところまでは来たのだろう。
悪くない。
「お嬢様」
リディアの姿が見えなくなってから、ルークが低く言った。
「何かしら」
「かなり変わりましたね」
「ええ」
「リディア・アシュクロフト嬢、でございます」
「昨日までは不快の顔が先だったもの」
「本日は」
「自分の見方が足りないことを理解している顔だったわ」
ルークは静かに一礼した。
「保留の価値は上がったと」
「そうね」
セレスティアは短く答える。
「でも、まだイザベラやマリアとは違うわ」
「ええ」
「だからこそ見えるものもある」
柱の影から、イザベラ・フォン・クロイツがこちらを見ていた。
さすがにずっと席に座ってはいなかったらしい。
だが、近づいてはこない。
今のやり取りを終わるまで待っていたのだろう。
「ごきげんよう、クロイツ嬢」
セレスティアが先に声をかけると、イザベラは少しだけ目を細めて歩いてきた。
「ごきげんよう、グランフェル様」
「聞いていたの?」
「途中から少しだけ」
イザベラはあっさり認める。
「悪趣味ね」
「今さらですわ」
その返しに、セレスティアはほんの少しだけ口元を上げた。
「それで」
イザベラが静かに問う。
「リディア様はいかがでした?」
「悪くなかったわ」
「そうでしょうね」
「驚かないのね」
「少しずつ自分の不快を切り分け始めた時の顔をしておりましたもの、昼の時点で」
やはり、この女はよく見ている。
「でも」
イザベラは続けた。
「三人で、ですのね」
「ええ」
「面倒そうですわ」
「かなりね」
「それでも受けるのですか」
セレスティアは少しだけ考え、それから答えた。
「拾う価値がある面倒なら」
イザベラは小さく笑った。
「本当に一貫していらっしゃる」
「今さらでしょう」
最凶公爵令嬢は、動き始めた女の意図を見逃さない。
謝罪ではなく確認。
確認の先に提案。
そして提案の奥にある、“自分はどの位置に立ちたいのか”という迷い。
そういうものが見えたなら、切らずに少しだけ保留を延ばす。
盤面は、また少し変わった。
リディア・アシュクロフトは、“不快をぶつける女”から“自分の不快を見直し始めた女”へ動いた。
マリア・セルヴェーンは、その変化をどう使うかを見るだろう。
イザベラ・フォン・クロイツは、相変わらず盤面の外周を整え続ける。
そして、その日の放課後。
セレスティアのもとへは、
また別の意味で面倒な言葉が届く。
今度は、王子でも、上級生でも、女子側でもない。
担任セルウィンが、
珍しく私的な顔で、
こう言うのだ。
――少し、教師ではなく一人の大人として話したい。




