第37話 最凶公爵令嬢は、学園そのものの顔を見る
翌日の空気は、朝から妙に薄かった。
王立アルディオン学園はいつも通りに動いている。講義は始まり、生徒たちは教室へ向かい、教師たちは何事もない顔で廊下を行き交う。けれど、その“何事もない”という顔が少しだけ硬い。
誰もが、直接は知らない。
だが何かが上へ上がったことだけは察している。
学園という場所は、そういう気配に敏い。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、自席へ着きながら小さく息を吐いた。
「お嬢様」
「何かしら」
廊下側に控えたルークが低く言う。
「本日は、教師陣の気配も少し違います」
「ええ」
「見ております」
「でしょうね」
昨日の夜に告げられた、学園長代理からの面談要請。
その事実そのものは、まだ生徒全体に広がっていないだろう。
だが、寮監室、事務方、教師の一部を通れば、それだけで学園の空気はわずかに変わる。
今のこれは、その変化だった。
「ごきげんよう、グランフェル様」
イザベラ・フォン・クロイツが、今日も整った笑みで声をかけてくる。
「ごきげんよう、クロイツ嬢」
「少しだけ、空気が上へ寄っておりますわね」
さすがに敏い。
「そうね」
「何かございました?」
「ええ」
セレスティアは隠さず答えた。
「今日の放課後、学園長代理と面談よ」
イザベラの睫毛がわずかに揺れた。
それは驚きというより、やはりそこまで来たか、という納得に近い反応だった。
「……そうですの」
「ええ」
「理由は」
「“最近の学園内の動きについて、少し確認したい”ですって」
イザベラは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく息をついた。
「曖昧で、でも軽くない言い方ですわね」
「ええ」
「差し支えなければ、戻られた後に少しだけ」
「必要があればね」
セレスティアがそう返すと、イザベラは微笑んだ。
「ええ。その返しだと思っておりました」
だが、その目の奥にははっきりとした緊張があった。
それも当然だろう。
学級、騎士科、王族、女子側の空気。
それらの上に、今度は“学園そのもの”が乗ってくるのだから。
午前の講義は静かに進んだ。
だがセレスティアは、講義の内容よりも、周囲の“変わらなさ”の方を見ていた。誰も露骨に触れてこない。だからこそ、逆に分かる。上へ上がった話題に対して、生徒たちは無闇に口を出さない方がいいと本能で知っているのだ。
それは悪くない。
少なくとも、安いざわめきは減る。
放課後。
学園長代理との面談場所は、本棟奥の応接室ではなかった。より事務寄りで、だが格式のある小会議室。公的でありながら、過剰に仰々しくない場所だ。
その選び方がまず、学園らしかった。
「お嬢様」
「何かしら」
廊下を歩きながら、ルークが低く言う。
「本日は、どの位置で待機いたしましょう」
「最初は中まで入りなさい」
「かしこまりました」
「ただし、向こうが外を求めるなら、その時に判断するわ」
「承知いたしました」
扉の前には、学園事務方の中年男性が一人立っていた。昨日の寮監室とは違い、今日は完全に“学園側の正式導線”であることが分かる。
「グランフェル様」
「ええ」
「お待ちしておりました。どうぞ」
中へ入る。
室内には三人いた。
一人は五十代半ばほどの男性。痩せすぎず、整えられた灰色の髪、落ち着いた紺色の上着。机に向かって座っているが、座り方に隙がない。
おそらく学園長代理。
その右手に、事務方らしい女性。
左に、見覚えのある顔――担任のセルウィンがいた。
なるほど、とセレスティアは思う。
完全な事務面談ではない。
学園としての確認だが、教育現場の視点も入れている。
それがこの配置なのだろう。
「初めまして、セレスティア・ヴァン・グランフェル嬢」
中央の男性が静かに言った。
「学園長代理を務めております、ローデリック・ハイゼンです」
「ごきげんよう、ハイゼン代理」
セレスティアは必要十分な礼を返す。
ルークも騎士礼を取る。
「本日はお時間をいただき感謝いたします」
「内容次第では次はないわ」
つい、いつものように言う。
セルウィンが横でごく僅かに視線を逸らした。たぶん笑いを殺したのだろう。
だがハイゼン代理は驚かなかった。
「率直で結構です」
そう返した。
悪くない。
「座ってください」
促され、セレスティアは着席する。ルークは斜め後ろ。事務方の女性は記録役らしく、すでに紙を整えていた。
「早速ですが」
ハイゼン代理が切り出す。
「今日お呼びしたのは、あなた個人を咎めるためではありません」
「そう」
「ですが、あなたの周囲で起きている変化が、すでに一学級の範囲を超えて学園全体へ波及し始めているのは事実です」
率直だった。
そこは好ましい。
「それで?」
セレスティアが促すと、ハイゼン代理は続ける。
「確認したいのは三点です。まず一つ。あなた自身が、現在の状況をどこまで把握しているか」
「二つ目は?」
「その状況に対し、あなたが何を選び、何を選ばないつもりか」
「三つ目は?」
「学園として、どの線までを許容し、どこからを整理対象とするべきかを判断するため、あなたがどの程度協力的か」
セレスティアはそこで、ほんの少しだけ目を細めた。
悪くない整理だ。
見ている。
選ぶ。
整理する。
昨日、父の返書で確認した三つと、かなり近い。
「順に答えるわ」
セレスティアが言うと、ハイゼン代理は頷いた。
「お願いします」
「まず一つ目。状況の把握だけれど」
セレスティアは淡々と話し始めた。
「学級内では、私の言動と実力に対する評価がすでに固まってきている。騎士科では、ディルク先輩との模擬戦以降、“正式に向き合えば測れる相手”という認識が一部で広がっている。女子側では、“男側の熱が私の周囲へ集まって見えること”への不快が出始めている。外では、匿名で測ろうとする動きと、安く取り込もうとする接触があった」
記録役の女性の筆が少し速くなる。
ハイゼン代理は途中で遮らない。
「把握はしているわ」
セレスティアは結んだ。
「少なくとも、見えている範囲では」
「なるほど」
ハイゼン代理が頷く。
「二つ目は」
「選ぶことと選ばないこと、ね」
セレスティアは続ける。
「私は、価値があると判断した相手と場にしか乗らないつもりよ。王族でも、上級生でも、侯爵令嬢でも同じ。逆に、安く取り込もうとする相手、曖昧な善意で縛ろうとする相手、見え方だけで削ってくる相手には乗らない」
セルウィンがそこで初めて口を開いた。
「基準は、一貫しているな」
「そうかしら」
「少なくとも、君の中では」
「それで十分でしょう」
セルウィンは小さく息を吐く。
「たしかにな」
ハイゼン代理が三つ目へ進む。
「では最後に。学園として線を引く必要が出た時、あなたはどの程度協力してくれるか」
ここが本題に近い。
セレスティアは少しだけ間を置いた。
父の返書が、頭のどこかで静かに響いている。
見たから乗るのか。
立つべきだから立つのか。
「内容によるわ」
セレスティアは答えた。
「予想どおりです」
ハイゼン代理はそう言ったが、嫌味はない。
「例えば、学園内の公的な場で整理が必要になった時。あるいは、あなた個人の意思とは別に、あなたの名前を使って熱を煽る者が出た時」
「そこは協力するでしょうね」
「ほう」
「でも、私に“熱を集めるな”とは言わないで」
ハイゼン代理の視線が、わずかに鋭くなる。
「理由は」
「私がそれを意図してやっているわけではないから」
セレスティアはまっすぐに返す。
「寄ってくる側の熱まで、私が責任を持つ気はないわ。ただし、その熱を使って学園の秩序を乱す者がいるなら、そちらの整理には協力できる」
静かな沈黙。
セルウィンが横で、ほんの少しだけ頷いたのが見えた。
ハイゼン代理は数秒考え、それから言った。
「非常に明快です」
「それは何より」
「つまりあなたは、“自分が中心に見えていても、それ自体は引く理由にならない”と考えている」
「ええ」
「だが、“その熱を誰かが勝手に使うこと”は学園の整理対象になりうると」
「そういうこと」
悪くない確認だった。
少なくとも、ここで話が噛み合わないなら面倒だったが、そうはならないらしい。
「一つだけ」
ハイゼン代理が言う。
「こちらからも率直に申し上げます」
「どうぞ」
「学園は、あなたを抑え込みたいわけではありません」
「そう」
「ですが、あなたが動くことで熱が生まれ、その熱が複数の層へ波及する以上、“個人の問題”で済ませ続けることもできません」
「でしょうね」
「だから今後、必要に応じてこちらからも接触します」
「構わないわ」
セレスティアは頷いた。
「ただし、私を整えるためではなく、盤面を整理するためなら」
ハイゼン代理が、そこで初めて小さく笑った。
「難しい方だ」
「今さらでしょう」
セルウィンがついに咳払いで笑いを誤魔化した。
「代理」
「何でしょう」
「その台詞は、彼女にはあまり効きません」
「よく分かりました」
少しだけ空気が緩む。
そこでハイゼン代理は、最後の一言を置いた。
「では、本日はこれで十分です」
「ええ」
「あなたが自分で現在地を見失っていないことは確認できました」
その一言に、セレスティアはほんの少しだけ目を細めた。
父の返書と、近い場所を見ている。
そこは悪くない。
「では失礼するわ」
セレスティアが立ち上がると、ルークも自然に位置を戻す。
部屋を出る。
廊下へ出た瞬間、空気が少しだけ軽くなった。
「お嬢様」
「何かしら」
ルークが低く言う。
「いかがでしたか」
「悪くなかったわね」
「学園長代理が」
「ええ」
セレスティアは歩きながら答える。
「少なくとも、“私をどうにかする”話ではなかったもの」
「たしかに」
「見ているのは盤面の広がり方よ。そこは父上と近い」
ルークは一礼する。
「左様でございます」
それは大きかった。
学園が自分を矯正対象として見ているのか、それとも盤面の一要素として見ているのか。
後者なら、まだ話ができる。
最凶公爵令嬢は、学園そのものの顔を見る。
そしてその顔が、自分を抑えるためではなく、
広がった盤面をどう整理するかを見ているなら、
そこにも価値を認める。
廊下を曲がる。
夕方の光が、また少しやわらかく差していた。
「お嬢様」
「何」
「少し、立ち位置が定まりましたか」
ルークの問いに、セレスティアは短く答える。
「ええ」
「どのように」
「私はまだ、どこにも“立って”はいないわ」
父の返書を思い出しながら言う。
「でも、少なくとも今、誰がどの盤面をどう見ているかは前よりよく分かる」
「ええ」
「それで十分よ。立つ時は、その後でいい」
ルークは静かに一礼した。
その日の夜。
セレスティアが寮へ戻る頃には、
学園長代理との面談があったこと自体が、
また少しずつ別の熱として広がり始めていた。
だがその熱は、以前のような無秩序なものではない。
学園そのものが見ている。
その事実が、逆に何人かの動きを鈍らせている。
悪くない。
そして翌日。
その鈍った空気の中で、
最初に動くのは意外にも、
イザベラでもレオンでもディルクでもない。
リディア・アシュクロフトの方だった。




