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最凶公爵令嬢は王家にも頭を下げない  作者: 翡翠


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29/41

第29話 最凶公爵令嬢は、女の警戒を軽く見ない

 その夜、寮の廊下は昼間よりずっと静かだった。


 女子寮特有の、柔らかな物音だけが遠くで続いている。扉の開閉、控えめな足音、浴室帰りらしき小さな笑い声。学園全体が昼の熱を脱ぎ捨て、ようやく個人の顔へ戻る時間だ。


 セレスティア・ヴァン・グランフェルは、自室の机に向かっていた。


 父――ヴァレリウス・ヴァン・グランフェルへの返書はすでに封を終え、机の端へ置いてある。明朝、家へ向けて出すだけだ。


 考えるべきことはまだあったが、少なくとも軸は定まっていた。


 その時、扉が控えめに叩かれた。


 ルークがすぐに視線を上げる。


「お嬢様」


「ええ」


「女子寮内でございますので、わたくしが出るのは不自然かと」


「分かっているわ」


 セレスティアは立ち上がり、扉へ向かった。


「どなたかしら」


 扉越しに問うと、返ってきたのは落ち着いた女の声だった。


「クロイツ様付きの侍女見習いでございます」


 セレスティアは一瞬だけ目を細めた。


 イザベラ・フォン・クロイツ本人ではない。

 だが、彼女付きの人間が夜に寮の部屋へ来る。

 それ自体が少し珍しい。


 扉を開ける。


 そこに立っていたのは、栗色の髪をきっちりまとめた少女だった。年の頃はセレスティアたちと大差ない。だが姿勢や視線の置き方には、よく訓練された侍女の気配がある。


「夜分に失礼いたします」


 少女は一礼した。


「クロイツ様より、急ぎでお伝えしたいことがあると承って参りました」


「ここで聞くわ」


 セレスティアがそう言うと、少女はすぐに頷いた。


「かしこまりました」


 彼女は声をさらに落とした。


「本日、上級生の女子寮側で、セレスティア様のお名前が何度か出ております」


 その一言で、セレスティアの中の何かが静かに切り替わる。


 男ではない。

 騎士科でもない。

 女子寮側。


「続けて」


「詳しい名前までは、まだ掴みきれておりません」


 少女は簡潔に言う。


「ですが、“最近のグランフェル公爵令嬢は、男の方ばかり騒がせている”という言い回しと、“そろそろ女同士で分からせた方がよろしいのでは”という類の言葉があったそうです」


 ルークの気配が、背後でわずかに変わる。


 だがここは女子寮だ。彼は口を挟まない。


 セレスティアは少女の目を見た。


「イザベラがそう言ったの?」


「いいえ」


 即答だった。


「クロイツ様は、その話を拾っただけです」


「誰から」


「女子寮の二年生側で、空気に敏い方から」


 つまり、イザベラは直接の発信源ではない。

 だが、拾った情報として流す価値があると判断した。


「それで、イザベラは何と?」


 セレスティアが問うと、少女は答えた。


「“男は単純ですけれど、女の不快は形を変えるから、先にだけ伝えておいて”と」


 その言い回しに、セレスティアは少しだけ口元を上げた。


 いかにもイザベラらしい。

 自分では直接来ず、だが必要な温度だけは届くように人を使う。

 そしてその内容も、妙に的確だ。


「ありがとう」


 セレスティアは少女へ言った。


「受け取ったわ」


「お言葉、クロイツ様へお伝えいたします」


 少女は一礼し、無駄なく去っていく。


 扉を閉める。


 部屋の中に静けさが戻る。


「お嬢様」


 ルークが低く言った。


「何かしら」


「かなり、質の違う面倒が来ました」


「ええ」


 セレスティアは扉から離れ、机へ戻る。


「ようやく、というべきかもしれないわね」


「女同士の、でございますか」


「ええ」


 セレスティアは椅子に腰を下ろした。


「今までは、男が見て、男が値踏みして、男が近づいてきた。でも、それを見ている女が不快になる流れは、むしろ自然でしょう」


 ルークは一礼する。


「クロイツ嬢の言葉どおり、男の熱とは別種で」


「ええ。しかも、あちらの方が面倒なことが多いわ」


「と申しますと」


「正面から来ないもの」


 セレスティアは淡々と続ける。


「男の敵意は、まだ分かりやすい。剣、評価、接触、名誉、そういう形で来る。でも、女の不快は空気と関係性に乗るでしょう?」


「ええ」


「つまり、“何が起きたか”ではなく、“どう見えたか”の方で広がるのよ」


 それは厄介だった。


 たとえば、セレスティアが王子と話した。

 レオンやディルクと接触した。

 アーネストのような男を切った。

 そういう出来事を、“男の側が勝手に騒いでいるだけ”として見るか、“セレスティアが男を引き寄せている”として見るかで、女側の反応は変わる。


 そして後者に傾く者は、必ずいる。


「お嬢様」


 ルークが慎重に言う。


「この件、どう扱われますか」


 セレスティアはすぐには答えなかった。


 窓の外はもう暗い。寮の庭に置かれた灯りだけが、低い木々の輪郭を浮かび上がらせている。


「拾う価値はあるわ」


 やがてそう答えた。


「学級の外の女側がどう見ているかは、今まで薄かったもの」


「ええ」


「しかも、イザベラがわざわざ寄越したということは、それなりに気にしているということでもあるでしょう」


「クロイツ嬢ご自身が、でございますか」


「たぶんね」


 セレスティアは少しだけ考えながら続ける。


「イザベラは、男の接触そのものより、それを材料に女側の空気が動く方を嫌っているのよ」


「なぜでしょう」


「自分の盤面だから」


 短く答える。


「学級内の空気も、女子側の感情の流れも、あの女の領分でしょう。そこへ、外から来た熱でぐちゃぐちゃにされるのが不快なの」


 ルークは静かに頷いた。


「なるほど」


「でも、それだけじゃないわね」


「と申しますと」


「たぶん少しは、私個人に関わる話としても気にしている」


 その言葉を口にして、セレスティア自身がほんの少しだけ黙った。


 断定はしない。

 だが、そう見る余地はもうある。


 イザベラは、単に学級の空気のためだけではなく、セレスティアへ寄ってくる“質の悪いもの”そのものを嫌い始めている。そこにどれだけ個人的な感情が混ざっているかは、まだ分からないが。


「お嬢様」


「何」


「いかがなさいますか」


 ルークの問いに、セレスティアは机へ置かれた父への返書を一度見た。


 盤面を見失うな。


 父の問いが、頭のどこかでまだ響いている。


「まず、慌てて動かないわ」


 セレスティアは言った。


「女の不快は、こちらが先に反応すると、反応したこと自体が材料になるもの」


「たしかに」


「でも、完全に無視もしない」


「どのように」


「イザベラには、明日受け取ったとだけ返す」


「それだけで?」


「ええ。今はそれで十分」


 それ以上踏み込めば、逆に“女同士で何かある”という空気を強める。今必要なのは、知っている、受け取った、慌てていない、その三点だけだ。


「そして」


 セレスティアは続ける。


「誰が言い出して、誰が広げて、誰が面白がっているのかを見たいわ」


「女子寮側から、でございますね」


「ええ」


 ルークは少しだけ考える顔をした。


「直接は触れづらい領域でございます」


「知っているわ」


「その点でも、クロイツ嬢の価値は」


「ええ。高いわね」


 セレスティアはあっさり認めた。


「だから明日は、少しだけ話す」


「承知いたしました」


 ルークは一礼した。


 最凶公爵令嬢は、女の警戒を軽く見ない。

 男の敵意より、

 形を変えて空気に混ざる不快の方が、

 ときに長く残ることを知っている。


 だからこそ、慌てない。

 だが、見逃しもしない。


 その夜、セレスティアは父への返書と並べるように、小さな覚え書きを一枚作った。


 女子寮側。

 上級生。

 不快の言い回し。

 誰が拾い、誰が整えるか。


 それはまだ、ただのメモだ。

 けれど、こういう小さな整理の積み重ねが、後で盤面を読む力になる。


 そして翌朝。


 セレスティアが教室へ入ると、

 イザベラ・フォン・クロイツはすでに立っていた。


 笑顔はいつも通り。

 けれどその瞳の奥には、

 珍しく少しだけ“先に答えを知りたい”色があった。

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