第29話 最凶公爵令嬢は、女の警戒を軽く見ない
その夜、寮の廊下は昼間よりずっと静かだった。
女子寮特有の、柔らかな物音だけが遠くで続いている。扉の開閉、控えめな足音、浴室帰りらしき小さな笑い声。学園全体が昼の熱を脱ぎ捨て、ようやく個人の顔へ戻る時間だ。
セレスティア・ヴァン・グランフェルは、自室の机に向かっていた。
父――ヴァレリウス・ヴァン・グランフェルへの返書はすでに封を終え、机の端へ置いてある。明朝、家へ向けて出すだけだ。
考えるべきことはまだあったが、少なくとも軸は定まっていた。
その時、扉が控えめに叩かれた。
ルークがすぐに視線を上げる。
「お嬢様」
「ええ」
「女子寮内でございますので、わたくしが出るのは不自然かと」
「分かっているわ」
セレスティアは立ち上がり、扉へ向かった。
「どなたかしら」
扉越しに問うと、返ってきたのは落ち着いた女の声だった。
「クロイツ様付きの侍女見習いでございます」
セレスティアは一瞬だけ目を細めた。
イザベラ・フォン・クロイツ本人ではない。
だが、彼女付きの人間が夜に寮の部屋へ来る。
それ自体が少し珍しい。
扉を開ける。
そこに立っていたのは、栗色の髪をきっちりまとめた少女だった。年の頃はセレスティアたちと大差ない。だが姿勢や視線の置き方には、よく訓練された侍女の気配がある。
「夜分に失礼いたします」
少女は一礼した。
「クロイツ様より、急ぎでお伝えしたいことがあると承って参りました」
「ここで聞くわ」
セレスティアがそう言うと、少女はすぐに頷いた。
「かしこまりました」
彼女は声をさらに落とした。
「本日、上級生の女子寮側で、セレスティア様のお名前が何度か出ております」
その一言で、セレスティアの中の何かが静かに切り替わる。
男ではない。
騎士科でもない。
女子寮側。
「続けて」
「詳しい名前までは、まだ掴みきれておりません」
少女は簡潔に言う。
「ですが、“最近のグランフェル公爵令嬢は、男の方ばかり騒がせている”という言い回しと、“そろそろ女同士で分からせた方がよろしいのでは”という類の言葉があったそうです」
ルークの気配が、背後でわずかに変わる。
だがここは女子寮だ。彼は口を挟まない。
セレスティアは少女の目を見た。
「イザベラがそう言ったの?」
「いいえ」
即答だった。
「クロイツ様は、その話を拾っただけです」
「誰から」
「女子寮の二年生側で、空気に敏い方から」
つまり、イザベラは直接の発信源ではない。
だが、拾った情報として流す価値があると判断した。
「それで、イザベラは何と?」
セレスティアが問うと、少女は答えた。
「“男は単純ですけれど、女の不快は形を変えるから、先にだけ伝えておいて”と」
その言い回しに、セレスティアは少しだけ口元を上げた。
いかにもイザベラらしい。
自分では直接来ず、だが必要な温度だけは届くように人を使う。
そしてその内容も、妙に的確だ。
「ありがとう」
セレスティアは少女へ言った。
「受け取ったわ」
「お言葉、クロイツ様へお伝えいたします」
少女は一礼し、無駄なく去っていく。
扉を閉める。
部屋の中に静けさが戻る。
「お嬢様」
ルークが低く言った。
「何かしら」
「かなり、質の違う面倒が来ました」
「ええ」
セレスティアは扉から離れ、机へ戻る。
「ようやく、というべきかもしれないわね」
「女同士の、でございますか」
「ええ」
セレスティアは椅子に腰を下ろした。
「今までは、男が見て、男が値踏みして、男が近づいてきた。でも、それを見ている女が不快になる流れは、むしろ自然でしょう」
ルークは一礼する。
「クロイツ嬢の言葉どおり、男の熱とは別種で」
「ええ。しかも、あちらの方が面倒なことが多いわ」
「と申しますと」
「正面から来ないもの」
セレスティアは淡々と続ける。
「男の敵意は、まだ分かりやすい。剣、評価、接触、名誉、そういう形で来る。でも、女の不快は空気と関係性に乗るでしょう?」
「ええ」
「つまり、“何が起きたか”ではなく、“どう見えたか”の方で広がるのよ」
それは厄介だった。
たとえば、セレスティアが王子と話した。
レオンやディルクと接触した。
アーネストのような男を切った。
そういう出来事を、“男の側が勝手に騒いでいるだけ”として見るか、“セレスティアが男を引き寄せている”として見るかで、女側の反応は変わる。
そして後者に傾く者は、必ずいる。
「お嬢様」
ルークが慎重に言う。
「この件、どう扱われますか」
セレスティアはすぐには答えなかった。
窓の外はもう暗い。寮の庭に置かれた灯りだけが、低い木々の輪郭を浮かび上がらせている。
「拾う価値はあるわ」
やがてそう答えた。
「学級の外の女側がどう見ているかは、今まで薄かったもの」
「ええ」
「しかも、イザベラがわざわざ寄越したということは、それなりに気にしているということでもあるでしょう」
「クロイツ嬢ご自身が、でございますか」
「たぶんね」
セレスティアは少しだけ考えながら続ける。
「イザベラは、男の接触そのものより、それを材料に女側の空気が動く方を嫌っているのよ」
「なぜでしょう」
「自分の盤面だから」
短く答える。
「学級内の空気も、女子側の感情の流れも、あの女の領分でしょう。そこへ、外から来た熱でぐちゃぐちゃにされるのが不快なの」
ルークは静かに頷いた。
「なるほど」
「でも、それだけじゃないわね」
「と申しますと」
「たぶん少しは、私個人に関わる話としても気にしている」
その言葉を口にして、セレスティア自身がほんの少しだけ黙った。
断定はしない。
だが、そう見る余地はもうある。
イザベラは、単に学級の空気のためだけではなく、セレスティアへ寄ってくる“質の悪いもの”そのものを嫌い始めている。そこにどれだけ個人的な感情が混ざっているかは、まだ分からないが。
「お嬢様」
「何」
「いかがなさいますか」
ルークの問いに、セレスティアは机へ置かれた父への返書を一度見た。
盤面を見失うな。
父の問いが、頭のどこかでまだ響いている。
「まず、慌てて動かないわ」
セレスティアは言った。
「女の不快は、こちらが先に反応すると、反応したこと自体が材料になるもの」
「たしかに」
「でも、完全に無視もしない」
「どのように」
「イザベラには、明日受け取ったとだけ返す」
「それだけで?」
「ええ。今はそれで十分」
それ以上踏み込めば、逆に“女同士で何かある”という空気を強める。今必要なのは、知っている、受け取った、慌てていない、その三点だけだ。
「そして」
セレスティアは続ける。
「誰が言い出して、誰が広げて、誰が面白がっているのかを見たいわ」
「女子寮側から、でございますね」
「ええ」
ルークは少しだけ考える顔をした。
「直接は触れづらい領域でございます」
「知っているわ」
「その点でも、クロイツ嬢の価値は」
「ええ。高いわね」
セレスティアはあっさり認めた。
「だから明日は、少しだけ話す」
「承知いたしました」
ルークは一礼した。
最凶公爵令嬢は、女の警戒を軽く見ない。
男の敵意より、
形を変えて空気に混ざる不快の方が、
ときに長く残ることを知っている。
だからこそ、慌てない。
だが、見逃しもしない。
その夜、セレスティアは父への返書と並べるように、小さな覚え書きを一枚作った。
女子寮側。
上級生。
不快の言い回し。
誰が拾い、誰が整えるか。
それはまだ、ただのメモだ。
けれど、こういう小さな整理の積み重ねが、後で盤面を読む力になる。
そして翌朝。
セレスティアが教室へ入ると、
イザベラ・フォン・クロイツはすでに立っていた。
笑顔はいつも通り。
けれどその瞳の奥には、
珍しく少しだけ“先に答えを知りたい”色があった。




