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【3】 第三皇子殿下の、

四角い箱に入れられて、生きたまま土の中に埋められているような感覚だった。もがいて、もがいて。けれど、ほんの少しも体を動かせない。それどころか、助けを求めるための叫び声すら誰にも届かない。

足掻いてもどうにもならない状況というのは、これほどまでに絶望を思い起こさせるものなのか。


「もう、ここまでかもしれないな」


その声は一切震えることなく、ほんの少しの動揺すら感じさせなかった。反論する気さえ奪うような落ち着きのある態度。追い詰められた末の妄言などではないと分かる。

きっと至極冷静に結論を出したのだろう。


僕自身、目を閉じていてもなお、この状況については恐ろしいほどにはっきりと理解できた。もはや逃げ場はなく、それどころか移動するための体力すら残されていない。

側近も、ビアンカも、疲弊していた。


「……悪いが、殿下を連れて先に逃げてくれないか」


側近の声がくっきりと影を打つように、文字としてはっきり「見えた」

途端に、背中を強く殴られたような衝撃に襲われる。身体が浮き上がるほどの痛みだったけれど、物理的な攻撃を受けたのではないと分かっている。あくまでも、激しく脈打った心臓のせいだ。


何で。


真っ白になった頭の中に浮かんだ疑問。でも、当然声は出ない。代わりに「どういうことですか?」と口にしたのはビアンカだった。

その語尾が掠れたことに、果たして側近は気づいただろうか。

いや、きっと気づいていたはずだ。

だからこそ、普段のぶっきらぼうな口調からは考えられないほどに柔らかな声で告げたに違いない。

「分かっているだろう」と。


「……後から、必ず行くと約束しよう」


あまりに穏やかで優し気な雰囲気に息を呑んだのは誰だったのか。瞼の裏に浮かんだのは側近の微笑だ。そんな顔、ほとんど見たことがないのに、どうしてか想像してしまったのは。

やむを得ない事情で一時、離れ離れになってしまう恋人同士が、再会の約束を交わしているように聞こえたからだ。


だが。

ここは、戦場で。


金槌で土を叩くような鈍い音が、胸の奥を叩く。間隔を狭めていく律動に追いつめられるようだった。

これは多分、悪い予感というやつで。

背中に走った怖気を強めるように、遠くで、鳥たちが一斉に羽ばたく。呼応して木々がざわめき、それが合図だとでも言うように、砂礫を巻き込んだ強い風に頬を打たれた。

いよいよその時が迫っていると、誰かが、何かが、教えている。


「今はもう、歩けそうにない。お前はもう魔力が残っていないようだから、俺がお前に魔法をかけよう。体力を少しだけ回復することができる。殿下一人くらいなら、何とか担いで歩けるだろう」


ビアンカが、僕を、背負う?

何を馬鹿なことを言っているのか。


声を出すことができたなら、間違いなく怒鳴っていた。大声で喚き立てるなんて皇族にあるまじき行為ではあるが、僕なんかに品格を求める人間はいない。

結局、第三皇子などその程度のもので、第一、第二皇子さえ平穏無事であればどうでもいい存在なのだ。第三皇子なんて、いてもいなくても同じ。


僕はたったそれだけの存在なのである。

このまま死んだとしても大した問題にはならない。嘆いてくれる人間はもしかしたらいるかもしれないが、それだけのことだ。

だから僕は、このまま戦場で息絶えたほうがいい。さすれば、皇位は詮無く第一皇子に受け継がれる。第二皇子はあくまでも皇帝に何かあったときの予備でしかないが、恐らく将軍の地位が与えられ、生かされるだろう。

彼らは仲が良いと聞いたことがあるので、きっと国内が揺れることはなく、案ずることもないはずだ。


その一方で僕は、死して名ばかりの英雄となる。


例えここで戦果を挙げることができなくても、最前線で戦ったという事実があるだけで僕には最高の栄誉が与えられる。敵将の首一つ持ち帰れない愚鈍な皇子でも、だ。

皇族というのはそういうものであり、僕がここまで生かされてきた理由は、まさにそれだ。


生まれながらに死を請われ、いないほうが良かったと言われてきたけれど。

只、死ぬことは許されなかった。

いずれ与えられるだろう、名誉の死。そんなものを目当てに、生きるしかなかった。


「私に魔法をかけて……、それで君はどうするんですか」


湿った土に錆びた金属を混ぜ込んだような不快な臭いが鼻を掠める。戦場に来てから、どこにいてもその臭いがした。腐臭のようなそれが、いわゆる死臭と呼ばれるものだというのに気づいたのは、そんなに前のことではない。

長く戦場に居れば、五感が鈍っていく。兵士としては研ぎ澄まされていくのに、人間としての感覚は失われていくようだった。

死体が傍になくても、纏わりつく死の臭い。


これはもしかしたら、死体が傍にあるから臭うのではなく己が発しているのではないか。


意識がほんの少し削がれた瞬間、どさりと、何か重いものが地面に落ちる音がした。「俺は、しばらく動けそうもない」という声に、側近が倒れ込んだのだと分かる。

「……そんな状態で、どうやって私たちの後を追うというのですか? 私に魔法をかけて……それで君はどうするんですか」

普段は、あまり感情の起伏を見せないビアンカだけれど、さすがに動揺を隠しきることはできなかったようだ。それも不思議ではない。

すっかり闘志を失った様子の側近を前にすれば、僕だってそうなる。


「しばらくすれば魔力は回復する」

だから大丈夫だと言わんばかりに「俺だけなら何とかなる。だから、……ともかく今は、殿下を守ることを優先したい。その為に、最善の選択をする」と続けるその言葉を、どの程度信用すればいいのか。

相変わらず、とても静かな口調だけれど、不安を誘う。

側近は今、どんな心境で、一体何を考えているのだろうか。真っ暗な視界では、その表情を読み取ることもできない。


「早く、行け」

低い声が地面を這うように、命じる。そして、魔法が発動する気配がした。


馬鹿なことをするなと、言えたなら。

その場から動けずにいるはずのビアンカも、僕と同じだったはずだ。心なしか早くなった彼女の呼吸が、沈黙を支配する。


「……何をしている。早く行かないか」


「おい、」

非難めいた声で呼びかける側近に、ビアンカが何らかの抵抗を示すことを期待していると、

「―――――なぁ、……俺は」


「殿下が大切なんだ」という、こういう状況でなければ笑い飛ばしていただろう言葉が続く。

『殿下』というのは当然、僕のことであり、それ以外にはない。

だというのに、己の耳を疑った。

「ずっと殿下だけを見てきた」とか「殿下がお前を見るとき、俺はなぜか息苦しくなることがあった」とか。

あまりにも真摯な声で続ける側近の言葉が、礫のように降り注ぐ。それでも僕の心に響かないのは、熱烈な愛の告白だというのは理解できても、信じられる要素が何もなかったからだ。

これはいわば、迫真の演技である。

事実、素人とは思えないほどの真に迫った言葉は少し、揺れていた。


いつの日か、僕とビアンカと側近の三人で見に行った芝居が頭に過る。食い入るようにして舞台を見つめていた側近の横顔に、天井から降りた光が降り注ぎ、目元が暗く陰った。握りしめた拳に、随分入れ込んでいると思ったけれど……。

あれは、物語に夢中になっていたのではない。


学んでいたのだ。演じるということを。


「好きなんだ」


胃の底をぐるぐるとかき回されるような吐き気に、頭の中はもはや沸騰しそうだった。

もしも今、己にかけられた魔術が解けたなら。立ち上がって側近を殴り飛ばしていただろう。


相手は何せ護衛であり、僕よりも体格がいい。年の差もあるから、単純に、鍛錬を積んできた年数で勝ち目はないと知っている。運よく、その固い腹に拳が入ったところで大した打撃にはならない。

それでも、だ。一度だけでなく、二度、三度と続けて拳を振るったに違いない。


それほどのことだった。

これほどまでに堂々と嘘をつく男に、どうやって誠実さを教えればいいのか。


あまりにも弱々しく、あまりにも情感たっぷりに、まるで本当に僕のことを大切に想っているみたいに語るから。ビアンカにはこの男が嘘をついているようには見えなかったはずだ。

恋愛というものを理解しているかどうかも分からない少女は、側近の真摯な想いに心を打たれたのか、一つだけ喘ぐように息を漏らした。


その刹那。まるでこのときを待っていたかのように側近は叫んだ。これが最期と言わんばかりの「行け!!!!!」という絶叫が空気を震わせて、ビアンカの背中を押す。

側近が、大声を出すことによって囮を買って出たのだということは考えるまでもなく。だとすれば、ビアンカがこの場に残るという選択肢はなかった。


側近は、あまりにもうまくビアンカを誘導したのだ。


『……馬鹿だ』


あの無骨で実直な男が抱いていた感情の名を、正確には知らない。ただ勝手に推測するだけだ。

あくまでも皇族の護衛として振る舞う男の、思慮深く鋭い眼差しが、彼女を見つめるときにだけほんの少しだけ緩む。その事実に気づいていた人間が、僕以外にいただろうか。

冷徹な雰囲気を絶妙に和らげて、護衛の武器である「威圧感」さえ与えないように気遣って。

長年の付き合いの僕からすればいっそ滑稽なほど、でも、呆れるほどひたむきな想いだった。

いい年をした大人が、年若い少女に抱いていただろう感情は、普通ではなかったかもしれない。側近だってそう思っていただろう。

だけれども。


むやみやたらに接近することもなく、話しかけること少なく、触れることもなければ、笑顔を振りまくこともなく。魔術師として未熟な彼女が、一人前になっていく様をただ見守っていた男は、どこまでも分別のある大人であった。

指先ですら触れ合わない、絶妙な距離感で親愛というものを示してみせた。


―――――側近が、この場において一世一代の大嘘を吐いたのは、その延長線の出来事だったと言えるかもしれない。

もしもこの場で、「お前が大切だから、どうか生きて逃げ延びてほしい」そう言ったところで、ビアンカは梃子でも動かなかったはずだ。

彼女は、戦闘魔術師の端くれとして、最後のその瞬間まで戦い抜くことを選んだだろう。


では、「お前が好きだから、生きてほしい」そう告げたならどうだろう。

真摯な言葉で、この場から去ることを説得する。―――――そう。それは悪くない考えだ。

けれど、彼女が納得できるほどに幾つも言葉を並べて、いかにも正論だという風に理路整然と語るには、あまに時間がなかった。

限られた選択肢の中で、側近は最善と思える手を打ったのだと分かる。


動けない自分の代わりに、どうか大切な人を救ってほしい。


血を吐くような告白と共になされた、最期の願いを叶えてやりたいと思うのは、いわゆる人道というやつで。誰もが持っているはずの善意を、最大限利用するやり方だった。

人間の真理を上手く利用して、側近はビアンカを思う通りに操った。


だってまさか、こんなときに嘘を吐くなど。誰が思うだろうか。

その嘘を、この場で唯一見抜けたはずの僕は、ただの一つも言葉を発することができずに目を閉じている。文字通り、何も見えず、何もできない。

ビアンカが小さな体で、自分よりも何倍も体格のいい男をかついで走り続ける間も、だ。何をするわけでもなく、ただ、為すがままに流されているしかなかった。


やがて、地面に足がつき、ずるりと体が崩れ落ちる。耳元で確かに、嗚咽を聞いた。

ビアンカが、あの、どれほどに厳しい訓練にも弱音を吐かずに耐え抜いた彼女が、泣いていた。

焦燥感に、体温が上昇して全身が燃え上がる。

熱い、苦しい。どうにかなりそうだ。

頭の中に響くのは、自身の叫び声である。


戻ってくれ。どうか、戻って。一刻も早く僕を殺してくれ。

そして、二人で逃げてくれ。

僕を生かすような、そんな馬鹿な選択をしないでくれ。


どうか、お願いだ。




あの男を、あんなところで、あんな風に、死なせないでくれ。



****



「あれは最期に何と言っていた?」


命からがら戦場から逃げ延びて、何とか国に帰ることができたけれど、妙な魔術から解放された僕の身代わりであるかのように、今度はビアンカが眠り続けた。

あまりに静かな寝顔に、もしかして息をしていないのではないかと、一日に何度も生きていることを確認して。その一方で、溺れるように公務に打ち込み、ただ彼女が目覚めるのを待った。

医師は、いつ目覚めるか分からないと言ったし、これが魔術によるものであればもう目覚めないかもしれないとも言った。


戦地を後にした僕が目覚めることができたのは、あらかじめ、そういう風に術が組まれていたからだろうと補足されて。

もしかして、初めから何もかもが仕組まれていたのではないかという考えに至る。

強い猜疑心が頭の中を支配して、足元から這い上がるような悪寒を、振り払うこともできない。

僕が生きているのは、奇跡ではないのだと突き付けられた事実に、どうしようもない戸惑いが生まれた。


誰かに、生かされたのだ。


そんな考えに至ったときにビアンカが意識を取り戻したという報告が入ったのには、何か意味があるのだろうか。

すぐにでも顔を見に行こうと思ったのだが、片付けなければいけない書類が山積みで、結局、見舞いに行けたのは深夜になってからだった。

人払いをして、二人きりになった室内で。

沈黙が重くのしかかる。


側近はもう死んだのだということを告げ、遺体だけが国に戻ったのだと続ければ、また深い静寂が訪れた。


「……約束を、守ったのですね」


「必ず、私たちの後を追うと、そう約束したのです」


明かりを落とした暗い部屋に、ビアンカの透き通るような声が転がる。優しい声が、宝石のように散らばって、その美しさが僕の胸を突く。

見えないものが、見える。今は、全部が、見えた。

そしたら。

なぜか、どうしようもなく泣きたくなった。

許されるはずもないのに、縋り付いて、生き延びてしまったことを嘆き、詫びたくなったのだ。

だから、顔を見られないように、あえて彼女に背を向ける格好でベッドに腰かけた。


唇を一度、強く閉じる。口の端が震えて、顔の筋肉を緩めれば恐らく、瞼が落ちて涙が零れると思った。だから、じっと耐える。その間、ビアンカといくつか意味のない言葉を交わし時間を稼いだ。

そうしてやっと、本題に入る。


「―――――何か、言い残したことはないのか」


僕はもう、側近の死を乗り越えた、はずだ。そうでなければならない。寄る辺のない第三皇子は、もういない。どんなことを言われても驚くことなどない。そう覚悟していたのに。

「いいえ」と、あまりにもあっさりと否定されて言葉を失った。


ビアンカは、側近の名誉を護る為に、一生口を噤むことを選んだのだと心得る。

だから、その意を汲んで、いつかあの男の為に花を手向けてくれと、いかにも側近思いであるかのように鷹揚に振る舞った。

もし、本当にそんな機会が訪れるようであるなら、僕も一緒に行きたい。


けれど。そんな日は来ないと、よく分かっている。

あの男が本当は、第一か第二皇子の手のもので、出自や経歴、その名前すらも偽物だったことを既に知っていた。

何なら、訓練校に入るよりも前には気づいていたし、本当は最初から分かっていたのかもしれない。

あの男が、誰かのめいで僕を見張っていることなんて。


それでも、真実を暴くことをしなかったのは。


裏切られていると知っていれば、もうこれ以上、裏切られることはないからだ。


僕は、自分の心を守る為に、側近の嘘を笑って呑み込み続けた。

「殿下がどこかで命を落とすまで、護って差し上げます」という、男の言葉を有難く受け取って。「護られてあげるよ」と答えた。じゃなきゃ、君は仕事を失うでしょうと。

側近は、側近であることを演じ、僕は彼の主人として在り続けた。何年も。

いつの日か、あの男が己の秘密を打ち明けるようなことがあれば何と答えようかと一人、ほくそ笑んだりして。もしも、この首を取られるようなことがあっても、絶対に後悔しないと決めてもいた。

むしろ、側近になら、この命をくれてやってもいいとすら思っていた。


だからこれは、僕が自ら招いたことなのだ。

あの男を間者として捕らえることも、なぜ嘘を吐くのかと問いただすことも、いつだってできたのに。

僕は一度だって、そうしなかった。


もし、僕が選択を誤らなければ、今とは違う未来があったのだろうか。

あの男が死なない現実が、存在していたのだろうか。


でももう、遅い。側近は死んだ。僕を、残して。


独りで、死んだ。


本音を胸の奥で、圧し潰して。














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