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偏愛イデオロギー  作者: 真木
第四編 極悪プリンセス
33/68

<遥花>1

「悪いことってどんなことかしら」


 私が宙に向かって放った言葉に、彼はそっと目を上げる。


「法に反すること? 倫理に反すること? そのどちらかだったら、私たちは何も悪いことはしてないわよね」


 彼がぽろぽろと流す真珠のような涙を手で拭いながら、私は告げる。


「でも私たちがしたことは確実に悪いことよね」


 私の手を彼が掴む。その優しさに、私は微笑む。


「だから私が今こんなに幸せなのは、きっと……」


 そうして、私は二つの小さな温もりに触れた。



***



 十九歳の春ほど、私の身の回りがめまぐるしく変わった時はなかった。


「おはようございますっ、お嬢様」


「おはようございます。いい朝ですね」


 その日、私は朝から非常に機嫌が悪かった。表面上は普段通りにこやかにふるまってはいたけど、内側に燃える炎のような怒りを抱えていた。


 家の人たちは、私の顔を見るなりかしこまって近付いてくる。


「何か御用ですか?」


「いえ……ちょっと覗いただけなので。すぐ戻りますから」


 母屋の方に出てきただけで五人以上と似たようなやり取りをした。


 この家はやたらと人が多い。それも私の身の回りの世話をする使用人以外は、ほとんど眼光の鋭い男性ばかりだ。


「今日はおでかけの予定と伺いましたが、支度をいたしましょうか?」


「まだ結構です。ありがとうございます」


 その苛立ちも、外出の予定を考えると少し気が晴れた。


 いつまでも子どもみたいに不機嫌にしていてはいけない。気持ちを切り替えようと、踵を返した時だった。


「遥花、ここにいたか」


 廊下の向こうから歩いてくる長身の姿をみとめた瞬間、鎮まりかけていた私の怒りが一気に沸点まで達した。


「お話があるのですが、私の部屋までお越し願えますか」


「うん? 何だ?」


 彼はとろけるように笑って、先に離れの方に歩き出した。


 私は決して背が低い方ではないのに、彼は私よりゆうに頭二つ分は大きい。それも鍛え上げられたがっしりした体格をしているものだから、後ろから見るとまるで壁のようだ。


「はるか?」


 私の居室に通してすぐ、屈みこんで優しく尋ねる気配を後ろに感じた。


 障子をぱたんと閉じて、沈黙が一瞬。


「……にいさまの馬鹿っ」


 振り向き様に顔面めがけて肘鉄を繰り出す。


 直撃したら鼻が折れる一撃を、兄はやんわりと片手で受け止めた。


「遥花が元気なことは嬉しいが、兄は何か遥花の気に触ることをしただろうか」


「私のチューリップ、勝手に植え替えたでしょう」


 毎日絵日記をつけているチューリップが、朝起きたら別のチューリップにすり替わっていたのだ。


 朝真っ先に見に行ったら、昨日まで葉だけだったチューリップが華々しく咲き誇っているのを見て呆然とした。


「遥花……言いにくいが、あのチューリップはもう枯れていたんだよ。兄は綺麗な花にしてやった方が喜ぶかと思って」


「葉っぱだけでもよかったのっ。楽しみにしてたのにひどいっ」


 どっと涙が溢れて来て、私はぐすぐすと泣きだす。


「ああ、すまない。兄が悪かった。泣かないでくれ」


 兄はうろたえて私の頭を撫でる。


「すぐに葉の状態のチューリップを植えさせる。他にも遥花の好きな花を何でも取り寄せるから」


「そういう意味じゃないのっ。にいさまは何にもわかってないっ」


「悪かった……兄が馬鹿だった。すまない」


 兄はひたすら低姿勢で頭を下げて謝り続ける。


 こんなしおらしい姿を家の者や会社の者が見たら目を疑うに違いない。面子が物を言う世界で、上の立場にある兄が頭など下げたりしない。ましてや自分が馬鹿などと口が裂けても言わない。


「もういいっ」


 ぷりぷりと怒りながら兄の手を振り払って、私は涙を拭うために何か探す。


 ちょうど庭いじり用のタオルをみつけてそれを顔に当てようとしたら、ひょいと手が伸びて来て奪われた。


「駄目だ、遥花。こんな安物」


 兄はぱっと私からタオルを取って顔をしかめる。


「どうしてこんなものがここにある」


「庭いじり用に借りてきたの。汗をふくためなんだから安物でいいの」


「使うな。遥花はいつも一級品に囲まれていないといけない」


 彼はポケットからハンカチを取り出して私の目元を拭う。


「一回使ったら捨てる。遥花はそれでいい」


 丁寧にアイロンがかけられたそれは、肌触りで絹だとわかった。


「今日は街に出かけるんだってな」


「ええ」


 まだぶすっとしながら頷くと、兄は柔らかく微笑む。


「気に入った店があったら言うんだぞ。店ごと差し押さえる」


 彼は何も冗談を言っているわけではない。


 兄である龍二は半年ほど前に、二十七の若さで関東においてもっとも勢力のある暴力団の組長という地位を父から受け継いだ。


 そして二週間後にはその次点を取り仕切る組の婚約者と祝言を挙げる。


「……にいさまは馬鹿だわ」


 私はそう言い捨ててから、ぷいと顔を背けて支度に向かった。

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