後編<アレクセイ> 8
「ねえ、あれく。あすね、わかったの」
五歳の時に誘拐されて戻って来た後、安樹はアレクの前に立って言った。
「おかあさん、もうかえってこないんだ。しんじゃったんだ」
俺は父の側でそれを聞いて思わず反対の声を上げそうになった。
まだ幼くて母の死を受け入れていなかった安樹に、俺は母が「旅行」であると言い聞かせておいたはずだった。それなのに、安樹はそれが嘘だと言うのだ。
「それでね、あれくがきたわけもわかったの」
だけど安樹はあまりに静かに淡々と話すから、俺は言葉を挟むきっかけを失った。
「おかあさんがかえってこないから、あれくがおかあさんになってくれたんだね」
アレクは黙って安樹の言葉に耳を傾けている。肯定することも否定することもなく、ただ彼女を見つめ続けていた。
「でね、あれく」
ぎゅ、とアレクの服を掴んで、安樹は大きな目でアレクの青い目を覗き込んだ。
「あすね、あれくすき。あれくがいるとほっとするの。あれくがね、あすとみはるにおうちをつくってくれたもん」
アレクの瞳に動揺が映った。それは初めて会った時から仮面を被っているように冷静な彼しか知らない俺にとっては、ただ驚くことしかできなかった如実な変化だった。
「……ボスの命令ですから」
「おとうさんのおねがいをきいてくれるなら、あすのおねがいもきいて」
幼く、少し強引で、けれど純粋な「お願い」を安樹は口にする。
「あすとみはるのおかあさんになって。あれく」
思いがけないことを言われて、アレクの細い目が丸くなる。
「あれくのぼるしち、おいしいの。あれくおそうじじょうずなの。ねるまえのおはなし、もっとききたいの」
指を立てて一生懸命、安樹はアレクのいいところを挙げる。
「んと……あれくはあすとみはる、きらい?」
「そういうわけでは」
「いっしょにいるの、いや?」
「いいえ……」
答えるアレクの声は掠れていた。動揺を通り越して、彼は少し呆然としているようだった。
「だったらあすね、あれくがあすとみはるのことすきになるようにがんばる。あれくのおうちもここだって、おもうようにする」
まだだめかもしれないけど、と言葉に詰まりながら、安樹はアレクをぐいぐいと引っ張った。
「きっと、すきになるから。おかあさんになって」
アレクは一度目を伏せて、そしてゆっくりと父を見た。
「……機会を、与えてもらえませんか」
「お前が命令に食い下がったのは初めてだな」
父が呟くように言うと、アレクははい、と頷く。
「ええ、初めてなんです。母になってほしいと言われたのは」
たぶん一生言われないだろう言葉に、アレクは一つの答えを返す。
「そして、自分自身、この子の母親になってみたいと思ったのは……」
安樹がぱっと顔を明るくしてアレクの胸に飛び込む。
それを受け止めて小さく微笑んだアレクは、確かに今までとは全く違った、人間らしい、少し照れたような男の顔だった。
***
帰宅する頃には十二時を回っていた。
もう眠っている頃だろうと安樹の部屋を覗いたらそこに彼女の姿はなく、俺は少し嫌な予感がしながらリビングに戻る。
「ミハイル。こっちこっち」
そうしたら父がしー、と口元に指をやりながら俺を手招きして、アレクの部屋に連れて行った。
部屋に入ったら、アレクがベッドの上に腰掛けて本を読んでいた。俺と目が合うと、彼も静かに、と手で合図を送る。
「やっぱりねー。エンジェル、今日はここで寝ると思ってたんだよね」
そんなアレクの横には、ブランケットに包まってアレクの膝に頬を押し当てながら眠っている安樹の姿があった。
ひそひそ声で話す父に、アレクはゆったりと応じる。
「昼間は緊張してたんでしょうが、やはり怖かったんでしょう」
銃を持った男が押し入ってきたことは、安樹にとって心に傷を与えたらしい。それは俺もなんとなく感じていた。
けれど現在の問題は、安樹がここにいることだ。
「……俺のところで寝ればいいのに」
ぼそりと俺は呟いた。それに、父はくすりと意地悪く笑う。
「アレクに甘えたいんだよ。エンジェルは昔からそうだった」
そう。安樹は俺が寂しがるふりをすれば必ず一緒に寝てくれたが、自分が寂しい時はアレクの所にいくのだ。……俺は守らなければならない対象であって、守ってもらえる者だとは認識していないから。
俺は安樹の髪をそっと梳いているアレクを見やりながら思う。
俺にとっての最大の敵は伯父でも父でも、もちろん竜之介などではなく……この髪の薄くなってきた、頼りなさげで血のつながりすらない男なのだ。
「運ぶよ。このまま寝かせとくわけにもいかないだろ」
「いいじゃありませんか。私はソファーで寝ますから」
「お前がよくても安樹がよくないんだよ」
むっとして俺が言うと、アレクは優雅に微笑んだ。
「別に何もしませんよ。私は『お母さん』ですからね」
五歳の時から十余年。アレクは安樹と共に過ごす内に、目に見えて安樹への愛おしさを募らせていった。ちょうど、父が母を繰り返し想っているように、アレクも安樹のことを好きになっていったのを俺は感じ取っていた。
「とにかく、安樹は俺のところで寝るんだよ」
だから、負けられないのだ。
俺が全部ひっくるめて一番になってみせるのだから。いつか、俺になら絶対に守ってもらえると思って安樹が甘えてくるように。
「負けないよ。俺に恋するようにさせてみせるから。安樹」
眠る安樹に囁いて、俺は起こさないようにそっと安樹を抱き上げた。
俺は明日の朝安樹が驚く顔を想像して、少し笑った。




