前編<レオニード> 4
一旦家に戻って二人とも軽く服装を整えて、花束を携えて行く。
午後になって、父と一緒に向かった先は都内のコンサートホールだった。
「初恋の彼に会いに行くんじゃなかったのか?」
「だから、その彼が演奏するの。エンジェルにもチケット取ってあげたからね」
はい、と渡されたチケットを見て、私は軽く目を見開く。
「と、父さん」
「うん?」
「ユキって……YUKIさんのことだったの?」
父と同期の音楽家だから、可能性を考えなかったわけじゃない。
だけど本気では考えなかった。私の幼い頃から日本のピアニストの最高峰で世界的にも日本人で名の知れた人を百人挙げたらその中に入るような……つまり超一流の音楽家が、父と若い頃に接触していたなんて。
「なるほど、確かに新聞にもテレビにも出たことある」
「そーでしょ。ユキはミューズに愛されてるんだ」
自分のことを褒められたように誇らしげに、父は胸を張る。
身内びいきと言われるかもしれないが、父も実は世界各国で公演をしている名の売れたバイオリニストだ。その彼が何のためらいもなく音楽の女神に愛されていると口にするのだから、父がどれほど彼を崇拝しているかわかるというものだ。
「……会えるのか?」
思わず不安を口にしたら、彼は悪戯っ子のような笑顔で言った。
「普通にしてたらムリ。でも終わった後の面会に予約入れて、取れたから」
「父さんすごいっ」
私もピアノを習っている身だから、ぜひお会いしたいところだった。珍しく父に尊敬の眼差しを送る。
「ふふ。でもエンジェル、パパと約束してね」
「なに?」
「絶対ユキに惚れちゃ駄目だよ」
彼は私の顔の前に指を一本立てて子供に言い聞かせるような口調で言う。私はそれにぷっと笑った。
「ユキさんが美形なのは知ってるよ。でも私、別にそういう興味はないから」
「だーめ。ユキはただの美形じゃないんだから。僕はエンジェルを敵に回したくはないの」
「敵も何も、ユキさんもう結婚してるんだろ」
すると父は途端に肩をがっくりと落とした。
「そうなんだよね……ユキはこっち側には来てくれなかったんだ」
本当に残念そうに呟くので、私は父の肩をぽんぽんと叩いて宥める。
「父さんの恋はいつもイバラ道なんだろ。それくらいで落ち込まないで」
「うん、うん……僕はユキが幸せならそれでいいんだ」
「よし、えらいえらい」
さすがにミハルにするみたいに頭を撫でるわけにはいかないので手を握ることにとどめておくと、父は私をぎゅっと抱きしめた。
「公衆の面前だよ。さ、入ろ」
よくあることなのでほどほどのところで引きはがして、まだ目をうるうるさせている父と手をつないだままホールに足を踏み入れる。
この調子だとユキさんに会った時も感極まって泣きそうだな。ほんと泣き虫なんだからと思いながら、私と父は受付でチケットを切ってもらって会場内に入る。
まもなく上演が開始される。席はそれほど前の方ではなかったのでユキさんの顔まではよく見えなかった。ただ心地よい声で曲の合間に紹介をしたり、雑談をしたりする様子を見ていると、とても穏やかな感じのいい人に思えた。
けれど、彼の紡ぎだすピアノの音にはただ驚かされるばかりだった。私は父に連れられて海外を周り、有名なピアニストの公演も何度も聞いたことがあったけど、今までのどの音楽とも音の質が違っていた。
圧倒される。天使の紡ぐような甘さはなく、悪魔が紡ぐような汚さがない、選ばれた人だけが紡げるような力強くて美しい音楽だった。
「変わったな」
途中、曲の合間に父がぽつりと言ったのを聞き咎めて、私は顔をそちらに向ける。
「昔は違ったのか?」
「僕の知ってる頃のユキの音楽は、まさに天上の音楽だった。彼も人生を歩んでいく内に綺麗なだけの音でなく、人間の持つ強さを手に入れたんだろうね」
父は穏やかな微笑みを浮かべていた。顎に手をやって、軽く頬杖をつく。
「時の流れだ。まあ二十年も経てば仕方ない」
「父さんには全然時の流れを感じないけど」
つい本音を零すと、父は一瞬見せた大人の顔をくるりと変えて愛嬌たっぷりに笑う。
「だって汚く年食ったらモテないじゃない」
「違いないね」
くすりと笑い返して、私たちはまた舞台を仰ぎ見た。
バイオリンが一番好きだけど、ピアノの音にじっくり聞きいるのも心地よかった。父と時々他愛ないやり取りをしながら過ごした。
終わった後、私たちはご馳走を食べたような満足感たっぷりの顔で控室へ向かう。
順番は最後だったから、まだ面会まで三十分近くあった。父と壁にもたれながら適当な話をしていると、ふいに声をかけてきた男の子がいた。
「あの、レオニード・カルナコフさんですか? バイオリニストの」
たぶん大学生くらいで、ちょっと幼い感じの小柄な子だった。それに、父はにっこりと笑って返す。
「そうだよ。君みたいなかわいい子に顔を知っててもらえるなんて嬉しいな」
多少アクセントに偏りはあるけど昔よりはだいぶうまくなった日本語で軽口を叩いて、父は手を差し出す。
少年はそれを握り返して嬉しそうに言った。
「すごい。ロシアで公演された時に見に行ったことがあるんですけど、その時から憧れてて。日本では公演されないんですか?」
「僕はちょっとしたディナーショーとかで弾くのが好きでね。日本はそういう機会が少ないから」
父は大舞台で弾くことがほとんどない。それは父の知名度が足りないという問題ではなく、ひとえに父の趣味による。だから父の出演するコンサートはチケットの入手がかなり困難で、それを根元で支える熱狂的なファンがいるということだった。
「そういえばYUKIさんと同じ大学だったという話を聞いたのですけど、お友達なんですか?」
父はめったにメディアに露出しない。けれどこういった個人情報が出回っているのは、父と同期の人に有名な人が多いからだそうだ。
たぶん一番有名なのはYUKIさんその人だろうけど、オペラ歌手のジュリオ・羽島さんも同期だったことが知られている。
私はちらりと父を窺った。初恋の人をお友達かと問われたら父は少し困惑した様子を見せるだろうか。それとも笑って頷くだろうか。
「ううん。違うよ」
だけど、父は私が想像したような反応をしなかった。
「YUKIは僕が一方的に憧れてただけ。話したこともないよ」
さらりと返して、父は横目で前の順番の面会者が通り過ぎるのを確認しただけだった。
「君と話せて楽しかった。バイバイ、ボーイ」
父は屈みこんで軽く彼の頬にキスすると、硬直している少年の頭をぽんぽんと叩いて私に振り向く。
「さ、行こっか。エンジェル」
先に歩き出す父に遅れないようについていきながら、私はそっと尋ねる。
「嘘ついたのはあの子が好みじゃなかったからか? あ、でも父さん嫌いな人にキスしないよな」
「んー? 嘘ってほどじゃないよ」
父は私にウインクしてみせる。
「片思いなのはほんとだもん」
「まあ、そうだろうけど」
「あー、緊張するなぁ。ユキ、僕のこと覚えてないかも」
父は肩を震わせていた。私はその肩を安心させるように叩く。
「大丈夫。父さんみたいな人が同期にいたら、私だったら絶対忘れない」
「同期っていうか、本当はユキが一つ先輩なんだけどね」
「でも話したのは初めて会った時一回じゃないんだろ?」
私の問いに、父はこくんと子供っぽく頷く。
「じゃあ大丈夫だよ。ほら、背筋伸ばして」
係員に面会証を見せて通路を通してもらい、奥の面会室の前に辿り着く。
コンコン、とノックをしたら、どうぞ、という涼しげな声。
扉を開くと、テーブルの前に座っている人の姿が見えた。細い輪郭でタキシードを着ている男性だ。
「こんにち……」
軽く挨拶をしようとしたのだろう。けれど彼は振り返って不自然に言葉を途切れさせると、目をぱちくりとする。
ゆっくりと表情が変わる。花開くように鮮やかに。
「レオじゃないか。久しぶりだね」
その微笑みには確かに後光が差していた。
睫毛が長く黒々とした瞳が鮮やかで、整った目鼻立ちに均整のとれた体つき。指先一つまで上品な動作で立ちあがって歩み寄ってくる。
「あ……覚えてて、くれたの」
そして近くで見て改めて思う。この人は本当に美人だ。性別を超えた洗練された美を感じる。
硬直している父の後ろから覗き見ていると、ユキさんは頷いて微笑んだ。
「もちろんだとも。友達を忘れるわけないよ」
「ユキ……っ」
父は感動の声を上げてユキさんをハグした。ユキさんは日本人にしては背が高い方だけど、父はもっと高い。体格からいって、たぶん力も父の方が強いのではないだろうか。
「君はレオの娘さんかな?」
「あ、はい」
「後で君ともいろいろ話したいけど、少し待ってね」
抱きつかれたままでも手を上げて私にも気を使ってくれるユキさんは、さすが大人の余裕を漂わせている。
……って、ちょっと待て。父さん、ハグの時間長いよ。下心がばれるって。
「ところで、レオ」
だけどユキさんは不自然なハグの時間をあまり気に留めなかったようで、ほどほどのところで父と体を離した。まあ外国にも行き慣れている人だし、その辺のあしらい方もわかっているんだろう。
「いっ」
なんと、ユキさんは父の頬を軽く指先で引っ張っていた。
「君、私を避けていたね?」
顔は笑顔だけど低い声には押し殺した怒りを感じる。
「卒業パーティにも来なかったし、その後も住所は教えておいたのに一回も訪ねてこなかった。こっちから出向こうとしても、君のコンサートは面会時間すら取らないから全く捕まらない」
「だ、だってさ」
「友達だと思ってたのはこっちだけ?」
いや、父が会いに行けなかったのはひとえに恥ずかしかったからだろう、と娘の私には簡単にわかる。
今だって、ユキさんにタイを掴まれて視線をさまよわせている父は、好きな女の子に詰め寄られてどうしていいかわからない中学生のように顔を赤くしてもじもじしているのだ。
「二十年以上だよ。その間一度も連絡取らないなんて、何かあったのかと心配したじゃないか」
軽く顔をしかめるのも、美人がやると絵になる。ただにこにこしているだけの美人より迫力がある分魅力的かもしれない。
「いや、ユキは忙しそうだったし……」
「レオ。言い訳はいい」
にこにこしたまま父のタイをぐいっと引っ張って、何かを待つような目を向けながら軽く首を傾ける。
「……ごめんなさい」
「よろしい」
さすが日本のトップに君臨する名ピアニストは、女王様並みの気迫を持ち、なおかつそれが許されるほど周りに崇拝されているらしかった。
「まあ、元気そうで何よりだよ。かわいらしいお嬢さんもできたみたいだし」
「かっ」
思わず私は変な声を出して慌てて口を覆う。
「どうしたの?」
「そ、そんなことはないと思いますよ」
「それがかわいらしい、の部分を指してるなら、私は至極本気で言ってるよ」
ユキさんは優しげに私の顔を覗き込んで頷く。
「レオにもだけど、きっとお母様によく似てるんだろうね。お会いしたことはないけど、綺麗な方なのは君を見ればわかるよ」
外国の方はこういう褒め方をする人もいるが、日本の人では初めてだ。しかもこんな美人さんに褒められたのは完全に意表を突かれた。
「アンジュっていうんだ」
「なるほど。フランス語で天使、だね。レオは確か母上がフランスの方だったっけ」
初耳だった。もう祖母は亡くなっているし、祖父はロシアにいたがあまりその辺りのことを話してくれなかったからだ。確かに言われてみると、父は外国語の中ではフランス語が流暢だったと気づく。
「年はいくつ?」
「十九です。大学生です」
「十九……私の息子と同い年だね。うん、男の子なんだけどなんともね、子供って……かわいい」
実はそのことはよく知っている。ユキさんの子煩悩ぶりは業界では相当有名だからだ。そして一般には一切出さない。そのため様々な憶測が飛び交っているが、余計な詮索をした者は人知れず消えていくのでユキさんはけっこうやり手かもしれない。
「でもレオが私と同い年の子供を持ってるっていうのは驚いたな。君、結婚はしないって強がってたのに」
くすくすと笑うユキさんは知っているのだろうか。父がゲイだということに。
「ユキ。その辺のことはなかったことにして」
「はいはい。君、変わったね」
ちょっとだけ怒ったような声を出した父に、子供をあやすように返したユキさんだった。
「友達なのは変わらないけどね」
ユキさんの言葉に父が軽く肩をすくめた。半分は残念、半分は照れだろう。完全に友達宣言をされてしまった父としては惜しい気持ちもあるだろうけど、その目は笑っていた。
それから椅子にかけて三人で他愛ない話をした。ユキさんは落ち着いた柔らかい音調の声で私にもいろいろ話しかけてくれたし、何より二人が旧来の友達だということが横から見てもよくわかったから、父を密かに応援している私としては嬉しかった。
ふいに、コンコンとノックの音がして、ユキさんが不思議そうに首を傾げる。
「面会はレオと安樹ちゃんが最後だったはずだけど」
「係員の人じゃないかな?」
「そうだね。どうぞ」
ユキさんが扉の向こうに声をかけると、静かに扉が開く。
「失礼します」
あ、と私は声を上げそうになった。入って来たのは、先ほど父に声をかけてきたあのかわいい男の子だったからだ。
ただ先ほどと目つきが違うように感じたのは、気のせいだろうか。
「あの、何か御用ですか?」
ユキさんが迷惑そうな素振りも見せずに声をかけると、少年は後ろ手に扉を閉めるとゆっくりと何かを取り出す。
その瞬間、私は心臓をわしづかみにされたように息を飲む。
「好きですユキさん。一緒に死んでください」
なんてことだ。
彼がユキさんに突き付けていたもの。それは黒く細長い……拳銃だった。




