人称と視点を決めよう+
今回は人称と視点についてのお話ふたたび、です。
(かなり長文なうえ、後半は持論が交じってるので閲覧にご注意ください)
このあたりは基礎編『人称と視点を決めよう』でもふれていますので、「視点ってなんだっけ?」と思った方は、そちらもあわせて読んでみてください。
グーグル先生やヤフーおばあちゃんで検索するのもオススメです。
まずは人称・視点についてのおさらいから。
基本的に小説を書く際は、「その物語を一人称で書くか、三人称で書くか」という選択を最初にすることになります。
その際、「人称」とは別に「視点」の問題も生じます。この2つは切っても切り離せない関係です。
なので、実際には
①一人称
②三人称(一元視点型)
③三人称(完全客観型)
④三人称(多元視点型)
上記4パターンから選択することになります。
これは「どれを選べば書きやすいか」と、「どれを選べば面白さを演出できるか」の2点を基準に選ぶとナイスです。
書きやすさで選ぶ場合、一番の決め手になるのが「ストーリー上、どうしても主人公以外の視点から書く必要のあるシーンがあるかどうか」でしょう。
たとえば戦争モノを書く際、敵国側のドラマを描きたければ、語り部=主人公の視点からでは限界があります。その場合は敵国側にも主人公格のキャラを置き、ダブル主人公ということにして視点変更を多用するでもない限り、③か④を選ぶしかないということになります。(①と②は視点が原則主人公に固定されているからです)
もっとも、前述のように視点変更を使えば一人称でも書けないことはありませんので、そこは工夫次第ということになります。しかしわざわざ茨の道を選ぶということは、それ相応のリスクを負うもの。リスクを負うのであれば、それ相応のメリットが必要です。でなければ、選ぶ価値はありません。素直に③か④を選べばいんじゃね?という話になってしまいます。
そこで考えるのが、「どれを選べば面白さを演出できるのか」という基準です。
もし、このお話が「敵国のドラマなんて必要ない。主人公は正義の味方。自国でヒロインに囲まれる日常を描き、戦闘時のみ、やられ役として敵国が出てくればOKなんだ!」というコンセプトであれば、一人称でもまったく問題ありません。むしろ、一人称の方が都合が良いとさえ思えます。この場合はいかに主人公に感情移入させるかが重要なので、主人公に殺される戦闘機パイロットの祖国で待っている家族の笑顔、みたいな無駄にリアルな情報は、心地良い感情移入の阻害にしかならないためです。
他にも、「主人公の敵国にヒロインがいる」というお話であれば、それはそれで一人称の方がいいと思います。これは書き手の判断によって変わってきますが、「敵国で何を想い、どう行動しているかははっきりわからない方が面白いだろう」という個人的な判断からくるものです。
なので、この場合は敵国のドラマは直接描く必要もないし、演出上の意味でも描かない方がいい。よって①の一人称。あるいは②の三人称一元視点、ということになります。「面白さを演出できるか」で選ぶ場合は、こういった感じの流れです。
話を戻しますが、もし、「敵国視点のドラマは絶対に必要」としたうえで、「でもそれはストーリー終盤のほんの一部分。あとの部分は主人公視点でも充分」ということになれば、一人称はきっとメリットよりもデメリットの方が大きくなります。
「視点移動はできる限り使わない方が感情移入の妨げにならない」という原則があり、ダブル主人公の視点移動はその原則破りな飛び道具です。読者さんは2人のうちどちらにも感情移入してよくなるかわりに、どちらにも深く感情移入できなくなります。
ダブル主人公ならまだ諦めもつきますが……途中までずっと主人公視点の一人称で進めていたものが、終盤で急に敵国の人間に視点移動したらどうでしょうか。
おそらく、終盤にポッと出した敵国側の人間感情に、そこまで深く感情移入できる人はいないでしょう。逆に自国側主人公に深く深く感情移入していた読者さんは、急に幽体離脱させられて、敵国側の一人称を読まされることになります。
そしたら基本的に、ぶち壊しです。許されるのは、敵国側に隠されたドラマがよっぽど素晴らしいものだった場合くらいでしょう。
というわけでこのケースでは、一人称は避けるべき、ということに。
では、③か④にするべきか――というと、どっこいそんなことはなかったりします。
今度は②の、三人称一元視点が採用される可能性について考えてみましょう。
三人称一元視点でも、一人称と同じく、視点移動による感情移入の阻害の問題が残ります。そういう意味で、三人称一元視点と一人称は、実質的に同じものだと言えます。
ですが、やっぱり別のもの。変化するのは、その「感情移入の程度と相手」です。
多くの作品が、わざわざ一人称ではなく三人称一元視点にする理由は、実はここにあります。一定の感情移入は確保したうえで、便利なんです。三人称一元視点。
三人称一元視点について小難しい持論話をすると、三人称一元視点とは実質的に、「一人称の文章を、外側から眺めている上位存在が語る一人称」ではないかと、最近になって私は考えています。
「上位存在の語る一人称」という聞き慣れない言葉は、上位存在が自分の存在をにおわす描写を文中に一切入れていないので存在感はゼロだけど、語り部としてクッションの役割を果たす誰かがたしかにそこにいるはず。だから、本質的にこれも誰かの一人称!……といった発想からきたものです。
視点こそ「視点主に固定されたカメラ」という決まり事に原則沿っているものの、三人称一元視点の文章は、一人称のそれよりも客観的で冷静です。言葉遣いも視点主の普段使いそうな語彙に限定されることなく、語り口調も自由に表現することができます。
つまり三人称一元視点の語り部は「視点主にもっとも近い立場でありながら、視点主とは一歩引いた位置から物語を眺めている上位存在」であると言えるでしょう。
ここでいう上位存在とは「視点主に同調しているものの、カメラを通して物語を眺めているだけで、決して視点主本人ではない。そして、物語中に現在の自分が出てこない。ゆえに、小説本文で、『自分』を語ることの一切ないキャラクター」と定義された存在です。登場キャラではないが、単なるカメラでもない。完全なる語り部キャラ、という表現がしっくりきます。
そこへたまに、カメラから入ってくる視点主の思想……つまり、「視点主の語る一人称の文章」がそのまま上位存在の一人称かのように語られることにより、読む人は上位存在の語る一人称を聞きながら、ときどき素通りしてきた視点主の思想・感情を、まるで語り部たる上位存在の思想・感情のように錯覚します。
そのおかげで、視点主とは別人の語る一人称、つまりは「三人称」でありながら、三人称一元視点は例外的に、視点主に強く感情移入する(かのように錯覚する)ことができるんだ、という考えです。本当は上位存在に感情移入しているのに、まるで視点主に感情移入しているように思わされている、ということで。
ですが根本的には「視点主と、上位存在である語り部は別人」というズレが残ります。ここが三人称一元視点の弱点であり、利点です。
弱点は、ズレているだけ感情移入の程度が低いこと。
利点は、ズレているだけ視点主の視点から外れても、違和感がないことです。
めちゃめちゃ遠回りしましたが、三人称一元視点は、実は常に視点主にカメラを合わせている必要はありません。視点主は上位存在の眺めているキャラに過ぎず、読者の感情移入先である上位存在そのものではないからです。よって、上位存在がヨソ見をしていても、一瞬であれば、視点主への感情移入錯覚を続投させる効果がまだ残っています。
例の戦争モノのケースだと、そこを利用します。
「主人公が敵国のボスを倒した→敵国のボスは死の直前に逃走し、祖国で待っている家族の写真を一人で眺めて、息絶える→主人公がヒロインを助け出す」……この流れをパパっときりかえてやれば、読み手は戸惑ったりしません。なぜかというと、それは実質的な感情移入先である上位存在の視点から外れていないから。(ただしあんまりヨソ見をしすぎると、上位存在と視点主との同調錯覚効果が薄れます)
なので、実は②の三人称一元視点は、このお話を演出するのにデメリットがないことになります。勝因は、敵国のドラマが「ストーリー終盤のほんの一部分」に限られていたからでしょう。
敵国のドラマがあんまり長いと「もう全部視点変更でやったら?」ということになりますが、主人公の視点から外れるのがほんの一部分さえであれば、その部分はヨソ見の範疇に抑えることができます。そうすれば他の部分で一人称に近い感情移入を誘導できるので、他の三人称よりも「面白さを演出できる」最も適した選択肢というなる、ということですね。
ちなみに……原則「完全なる語り部キャラ」である上位存在が、もし視点主である主人公自身だった場合。めちゃめちゃややこしいのですが、特殊な一人称が成立します。
自分の経験を客観的に、その時点では自分に見えているはずの無いことまで語ったかと思えば、地の文でリアルタイムに驚いたりもする感じです。
イメージとしては、上位存在の主人公が、カメラの向こうでリアルタイムで動いている主人公にシンクロしている一人称ですね。物語中に自分が出てきているので、傍観者でありながら実行者です。 M