悪魔
その瞬間、ドーム内は静まり返っていた。だってあり得るはずもなかった。常識的に考えれば、あり得ていいはずもない光景だったからだ。
多くの人間たちは、今、自分たちが何を目撃したのかすら、本当は理解していないのだろう。
勝利者が決まった瞬間に高らかに鳴り響くはずのナレーターの声も、今はない。
静まり返る静寂だけがあたりを支配していた。
「なあ、セレナ……」
しかしそんな静寂の中、最初に口を開いたのは、最前列に座る少年だった。鷹目燿一。異国、いや異界から来た少年。
「おれは、悪魔なんだろうか」
そうして燿一は握りしめる紙切れに視線を落とす。試合が終わった後、勝ち金の換金を行うための明細表。いくら賭けたのかと、記載されるそれ。
「命の恩人を、自らの金儲けに利用する、なんて」
そこに書かれている、モノ。
「……どう、したのかね?」
そんな様子に隣で見ていたトリディマイト卿も、同じく燿一の手の中に視線を落とす。
「な……」
それっ!
「まさか、そんな……」
異国の言葉だったので、燿一には何と書いてあるかこそはわからなかったが、そこにはこう記載されているのだ。『西方、300万シェル』と……。
そして同時、トリディマイト卿は観客席の迎えに掲げられているオッズ表を見つめる。
そしてそれはいつもと同じ。最終試合がいつも同じオッズ、と言うことはもうすでに燿一にはトリディマイト卿から告げられていたことだったのだ。
しかし、あるいは、と思ったが、今日もそうだった。西方東方にいくら賭けられていようが、オッズは変わらずその額だったのである。だって西方が勝つはずがないと、もとより決められている試合だからだ。惰性のように、ただ、名目のようにオッズを掲げていただけだから。だから、人々がいくら賭けたかなんて集計すら行われなかったのだ。
そう。いつもと同じ、オッズ……。東方、0.6倍。西方……。
「きみは、なんてことを」
西方、オッズ……300倍。
西方オッズ、300倍っ!
「うぅ……」
燿一の頬には涙が伝っていた。それが何によるものなのかは、燿一にすらわからぬこと、だったが。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおっ! きみは、やはり天才だったっ!」
トリディマイト卿は立ち上がり、叫び声を上げていた。
「違います。ぼくはただ、非情な、だけです。なにが、鷹の目だ……。ただ、人のウィークポイント見逃さず、無慈悲にそこを突くってだけの、汚い人間なんだ」
掛け金、300万シェル……オッズ、300倍。
「もう一度見せてくれたまえ、一体、いくら賭けたというのだ、西方にっ!」
その言葉で、ようやく周囲の観客たちも、燿一がしでかしたことに気がつき、視線を向けてくる。
「300万シェル! 300万シェルだぞっ! オッズは300倍なんだっ! つまり!」
九億シェル……っ!
「お、お客様……」
驚愕した様子の係員たちが燿一の元へとやってくる。
「た、たしか、西方に300万シェルかけ、賭けて……」
「ああ……。換金してくれ」
係員の方を見ることなく、それを告げる。
「それと、セレナを、……西方の選手を早く治療するんだっ! すでに売買契約は結ばれているっ! 勝利したらおれに300万で売ると! 契約書だってあるんだぜ!」
「な……」
それで係員は驚愕したように表情を変える。
「た、担当を連れてこい。そんな、たった、300?」
そうだった。勝利した後に売買契約を結んでは、こんな額では買えるはずもなかったからだ。
「きみは……九億と言う莫大を手にし、さらにはその立役者となった戦士まで、ほんの300万シェルで手中に収めようというのか」
「……はい」
「グフハハハハハッ! さすがは我の見込んだ男と言うことだ。しかし、こんな奇跡がほかにあろうかっ! この国にきてたった一週間で、富豪層の仲間入りだぞ。グフハハハハハッ!」




