10秒の会話
深夜二時の新宿駅東口
薄暗い裏路地の静寂を破り、激しい足音と荒い息遣いが路地に飛び込んできた。
「 た、助けて……くれ……!」
倒れ込んできたのは、血まみれの若い男だった。腹部を切られ、アスファルトに赤黒い血の海が広がっていく。
「おいおい…血生臭な。 ここは救急病院じゃないんだぞ」
クロが、毛を逆立てる。
男は震える手で榊の服の裾を掴んだ。その瞳は恐怖と、激しい未練に揺れている。
「看板を見た……! 買い取ってくれ……俺の……俺の寿命を……!」
榊は静かに男を見下ろした。その眼孔に映る男の命の灯火は、今にも消えそうだ。
「あなたの寿命は……事故か事件か知りませんが、あと『3分』もありませんよ。そんな僅かな寿命、買い取ったところで……」
「金なんていらない……!」
男が叫んだ。血を吐きながら、榊の袖を握りしめる。
「この残りの寿命を全部買い取って……その対価として……! 電話を一本かける時間だけ……数秒でいい……俺を繋ぎ止めてくれ……!」
男の視線の先には、血に濡れたスマホが転がっていた。
クロは爪を研ぐ手を止め、ソッポを向く。
「その残り僅かな命で今すぐに電話かけりゃいいだろ。今こうしている時間がもったいない」
「ち…ちがうんだ。あいつの仕事が終わるのは深夜二時。スマホの電源を入れるのは15分後なんだ…」
「留守電にでも入れとけ」クロの言葉に男の顔に絶望の色が降り注ぐ。
だが、榊は静かに膝をついた。男の血に汚れた手を取り、冷たい指を重ねる。
「……3分の命の対価が、一本の電話ですか。10秒です。あなたの体力ならおそらくそれが限界でしょう」
榊の指先から、鋭い爪が伸びる。
男の頭上に輝くの寿命の数字を猫の爪で軽く擦ると、パラパラと消えかけのロウソクの火花のような、儚く光る小さな砂が数粒だけ零れ落ちた。
「ひっ……ぐっ……!」
男の身体から最後の生気が引き抜かれる。だが同時に、榊のあやかしの力が男の途切れかけた意識を強引に繋ぎ止めた。
「約束です。最後の『対価』ですよ」
榊が拾い上げたスマホを男の耳元に当てる。コール音が二回鳴り、カチャリと繋がった。
『もしもし? 隼人? 今どこに……』
受話器から届いたのは、愛しい恋人の声だった。
男は溢れ出る血を必死に抑え、途切れ途切れの声で囁いた。
「……ごめんな。……今日の約束……行けなくなった。……愛してるよ……ずっと……」
『え? 隼人? どうしたの? 隼人――』
電話を切ると、男の手から力が抜け、スマホがアスファルトに落ちた。
男の顔には、もう苦痛はなかった。ただ小さく満足そうな笑みを浮かべたまま、動かなくなった。
クロはそっと男の体に近づき、鼻先を寄せた。
「……たった一言言いたいために、最後の最後で命を売り払うのか」
榊は手のひらに残った数粒の発光する砂を、優しく夜空へ放した。
砂は蛍のように淡い光を放ちながら、新宿の闇の中へ溶けて消えていく。
「たった数秒の会話のために、残りのすべてを差し出す。……だからこそ、人間の想いは重いのです」
街灯の青い光が、静かに横たわる男と、二度と繋がらないスマホを照らし続けていた。




