第9章・3:その後
アテネの街は、今日も活気に満ちていた。
数日前、劇場を襲った大混乱が嘘のように。
人々は、いつも通りの笑顔を浮かべている。
通りには笑い声が響き。
露店には客が集まり。
海から吹く暖かな風が、街全体を優しく包み込んでいた。
海辺の陽光に照らされる店々。
石畳の道を行き交う人々。
平和な日常が、そこにはあった。
小さなカフェの扉が開く。
大量のコーヒーカップを抱えたアフロディーテが、慎重に外へ出てきた。
あまりにも数が多く、視界すらほとんど塞がれている。
その瞬間。
「手伝おう」
すっと差し出された手。
アレスだった。
「……助かるわ」
わずかに微笑む。
二人は並んで歩き出す。
向かった先には、すでに数人のGODS関係者が席についていた。
賑やかな会話が交わされている。
「お疲れ様!」
ヘラクレスが大きく手を振る。
全身に巻かれた包帯とは対照的な、明るい笑顔。
「お疲れ様!」
他の者たちもカップを掲げた。
軽い祝杯のようだった。
「本当に……長い一週間だったわ」
アフロディーテが椅子に腰を下ろす。
カップを机に並べながら、小さくため息をつく。
「まったくだ」
ヘルメスがコーヒーを一口飲む。
「試験後にここまで忙しくなるのは初めてだ」
肩を回しながら続ける。
「少なくとも、神々の会議までは少し休めそうだが」
「あなたはいいわよね」
アフロディーテがぼやく。
「もうすぐ授業が始まるのよ?」
頭を押さえる仕草。
「またあんな子供たちに囲まれると思うと、それだけで頭痛がしてくるわ」
「よく教師の役職を引き受けたな」
アレスが感心したように言う。
アフロディーテは、少しだけ視線を落とした。
「……ナズとユキの件があってから」
静かな声。
「もう、誰かを直接鍛える気にはなれなかったの」
一瞬の沈黙。
「だから、ゼウスから話をもらった時」
「断る理由がなかった」
小さく笑う。
「とはいえ……」
遠くを見るような目。
「これからは、毎日のようにあの子を見ることになるのよね」
小さく眉をひそめる。
「まるで呪いね」
「一生ついて回る刻印みたいなものだわ」
アレスがカップを揺らす。
「過去の重みを背負っているのは、お前だけじゃない」
静かな声。
「五年以上、口をきいていない息子も」
「今回、合格したらしい」
アフロディーテの目がわずかに動く。
「……イサック・ヨイ、だったか?」
ヘルメスが記憶を辿る。
「そうだ」
アレスが短く答える。
「顔を合わせれば」
「何か言われるだろうな」
わずかな苦笑。
「……あの契約」
アスクレピオスがカップを回しながら呟く。
「本当に正しかったのか?」
「どうかしらね」
アフロディーテが静かに答える。
「でも」
「ゼウスと交わした約束よ」
指先でカップをなぞる。
「少なくとも」
「今回の世代は、間違いなく過去最高レベル」
ヘラクレスが腕を組む。
「結果を見るまでは分からん」
真剣な声。
「十年前の決断が正しかったかどうかは」
「これから明らかになる」
一瞬の沈黙。
そして。
アスクレピオスがふと思い出したように口を開く。
「ところで」
好奇心の混じった視線。
「アフロディーテ」
「例の少年は何者だ?」
場の空気がわずかに変わる。
「死闘の末とはいえ」
「ヘラクレスをあれほど容易く退けた」
「尋常ではない」
「おい」
ヘラクレスが眉をひそめる。
「不意を突かれただけだ」
「ノーカウントだ」
「好きに言えばいい」
アスクレピオスが肩をすくめる。
「だが」
「その傷がすべてを物語っている」
冷静な分析。
「本気で戦っていれば」
「命を落としていた可能性もある」
「……チッ」
ヘラクレスが舌打ちする。
だが否定はしない。
それが答えだった。
静かに。
「まあ……それは私たちも知りたいところね」
アフロディーテは肩をすくめながら言った。
「シュン本人から聞いた情報以外、エデンについては何も分かっていないの。
家族のことも、本当の力の範囲も……すべてが謎よ。」
「もしあの日に感じたものが、彼の本気ではなかったのだとしたら……」
アレスは拳を握りしめながら続けた。
「間違いなく、怪物だ。
シュンほどかどうかは分からないが……決して遠くはない。
あの瞬間、俺は過去の悪魔たちが再び地獄へ引きずり込もうとしているのを感じた。」
「ええ……」
アフロディーテはわずかに表情を曇らせた。
「二度と向き合いたくない力ね。」
「ならば、なぜ処刑に反対した?」
アレスは低く問いかけた。
「信じたからよ。」
「信じる?
神がそんなものに頼る時間などない。」
苛立ちを隠さず、彼は言った。
「我々こそが人々に信仰を与える存在だ。
だが奴を生かしたことで、人々の信仰は揺らいだ。」
「アレス、そこまでにしなさい。」
アスクレピオスが静かに制止する。
「言ったでしょう?」
アフロディーテは穏やかな声で続けた。
「ただの気まぐれよ。
過去の過ちを、少しでも償いたいだけ。」
「理屈じゃないの。
あの子の目に宿っていた炎を……信じたいのよ。
自分の信じるものを守るために、神にすら立ち向かったあの炎を。」
「自信に満ちた人間は数えきれないほど見てきたわ。
でも、その多くは傲慢か無謀に変わって死んでいった。」
「弱さを認められる者だけが、本当に強くなれる。」
「感情など無駄だと思うかもしれない。
それでも――いつかあの子が、あなたの目を開かせてくれると信じているわ。」
「戦場において感情は邪魔だ。」
アレスは短く言った。
「戦神が恐れていて、どうして兵たちを導ける?」
二柱の神の視線がぶつかり、空気が張り詰める。
「そこまでだ。」
アスクレピオスがきっぱりと言い放つ。
「言い争うか、キスするかは別の場所でやってくれ。
ここはただの集まりだ。くだらない争いは許さない。」
「……悪かった。」
二人は同時に答えた。
……
「口出しするつもりはなかったけど、二人の言い分はどちらも理解できるよ。」
ヘルメスが柔らかく微笑んだ。
「私も民を恐れている。
あの惨事の日、意識を保つのがやっとだった。
死を感じたよ。」
「だが、彼の中に後悔があるのも見えた。」
「我々は長く生きすぎたせいで、驚くことが少なくなった。
だからこそ、驚くものを恐れる。」
「エデンも同じだった。
あの日、彼自身も混乱していた。」
「彼が直接手を下したわけではないとしても……
彼はその罪を背負うと決めた。」
「これから待つ未来が死だとしても、私は彼を信じる。
彼が背負う罪の重さを、少しだけ共に持とうと思う。」
「歴史とは、同じ過ちを繰り返さないためにあるものだろう?」
「……さあな。」
アレスは静かに答えた。
「正しいかどうかは、時が決める。」
「負けず嫌いだね。」
アスクレピオスが笑った。
「黙れ。」
張り詰めていた空気は、やがて温かな笑いへと変わった。
考えは違えど――
あの少年についての決断は、すでに下されている。
そしてその結果は、もはや覆らない。
一通の手紙を前に、エデンは言葉を失っていた。
信じられないという表情。
今にも目が飛び出しそうなほど見開かれている。
だが次の瞬間――
満面の笑みが浮かんだ。
「やったああああああ!!」
死の烙印を刻まれた少年は、喜びを抑えきれず跳びはねる。
「やった……!やった!!」
拳を握りしめながら叫んだ。
「できたよ、じいちゃん……できた!」
「もう少し待ってて。
きっとまた会える。必ず。」
その少年は、ついに未知の世界へ踏み出した。
神々と異形が存在する、残酷で過酷な世界。
やがて巨大な影が覆うその世界へ――
彼は、思ったよりも早く立ち向かうことになる。




