第22章・5:勝利
空を覆っていた雲が、初めて切れ間を見せた。
皆の目の前に、美しい星空が広がった。
観客たちは、この戦いの結末を見届けようと、一斉に立ち上がった。
神々。獣。人間。
あらゆる種族が、この決闘の行方を見守っていた。
シュウは破れた服を力任せに引き剥がし、胸を露わにした。
同じく胸をさらしていたナイも、変身を解いた。
特別な力は、もうない。
ただ、この決闘に決着をつけようとする二人の戦士がいるだけだった。
一瞬、二人は互いの顔を見つめた。
そして、交わした笑みが、始まりの合図となった。
ヒュンッ!
揺るぎない決意と、一国の重みを背負い、二人は前へと飛び出した。
ドゴッ!
互いの拳が、同時に相手の顔面を捉えた。
だが、どちらにも無駄にできる時間はない。
歯を食いしばり、二人はなおも前へ出た。
ナイがシュウの顔面へジャブを放つ。
だがシュウはそれを読み、相手の頬へストレートを叩き込んだ。
その一撃を足がかりに、シュウは連続攻撃でさらに押し込んでいく。
ジャブ、ジャブ、ストレート。
ナイはアッパーで反撃を試みた。
だがシュウはフットワークを生かして再び距離を取り、その一撃を完全にかわした。
「悪くない……」
ナイは顔の血を拭いながら呟いた。
「相変わらず、逃げるのはうまいな。だが、まだ始まったばかりだ」
シュウは無言で腕を動かし、近づいてこいと促した。
それを見て、ナイが笑みを浮かべる。
ナイが再び先手を取り、凄まじい速さで連打を繰り出した。
シュウはガードを保ちながら、その一つ一つをかわしていく。
顔面を狙う拳が、雨のように降り注いだ。
足を動かし、ガードの位置を変えながら、シュウはその猛攻をかわし続けた。
そして、ナイのガードに絶好の隙を見つけた瞬間、迷わなかった。
肋骨を狙って、ストレートを放つ。
だがナイは素早く跳び上がり、空中で体を回転させた。
そして、その踵をシュウの折れた腕へと叩き込んだ。
凄まじい痛みが走った。
ドゴッ!
蹴りの威力に、シュウの体が数メートルも吹き飛ばされた。
「足にも気をつけろよ、天才」
ナイは笑みを浮かべた。
「このクソ野郎……」
シュウは低く毒づきながら、ゆっくりと身を起こした。
ヒュンッ!
二人は互いを目がけて駆け出し、凄まじい速さで激突した。
拳には、拳を。
蹴りを受け止めれば、すかさず胴へ反撃を叩き込む。
攻撃と防御。
その応酬に、歯止めはなかった。
攻撃が行き交うたび、闘技場の地面が鮮血に染まっていく。
傷を負いながらも、二人の顔には楽しさと闘志に満ちた笑みが浮かんでいた。
その姿に、見守る観客たちまで思わず笑みをこぼす。
顎を捉えるフック。
返すのは、顔面への頭突き。
どちらも、一歩も引かなかった。
駆け引きにも、体裁を取り繕うことにも、もううんざりだった。
ただ、自分の意志を相手に示したい。
誇りを懸け、国を背負って始まった戦いは、いつしか互いを認め合う好敵手同士のぶつかり合いへと変わっていた。
ドゴッ!
ドゴッ!
ドゴッ!
ドゴッ!
一撃ごとに、二人の魂が響き合う。
何度倒れても、そのたびに、前にも増して強い意志を胸に立ち上がった。
二人の叫びは、太陽のように熱く燃え盛っていた。
観客たちも、負けじと声を張り上げる。
「ナイ! ナイ! ナイ!」
「シュウ! シュウ! シュウ!」
凄まじい熱を帯びた声援が、闘技場に響き渡った。
もはや、国同士の対立など関係なかった。
そこにいるのは、誰もが応援せずにはいられない二人の戦士だけ。
観客の叫びの一つ一つが、二人をさらに前へと押し出す力になっていた。
(ようやくだな、シュウ)
エデンは思った。
(責任や苛立ちじゃなく、幸せに満ちた目をしてる。そんなお前を見るのは、初めてだ)
(そんな心からの笑顔、久しぶりに見たよ。お前ならやれる、シュウ……)
「お前ならやれるぞ、シュウ!」
エデンが、熱のこもった声で叫んだ。
「戦え、シュウ!」
アイザックが力強く吠える。
「進め、シュウ!」
ヘルメスが声を張り上げた。
「吼えなさい、シュウ!」
アフロディーテも叫ぶ。
(聞こえる……)
シュウは攻撃の手を止めなかった。
(やっと、はっきり聞こえる)
その口元に、小さな笑みが浮かぶ。
(もう、あの未来を知る必要はない。僕には、この今だけで十分だ)
(何をそんなに怖がっていたんだろう。あの未来が見えなかったのは、その先でも僕が独りのままだったからなんだ……)
(でも、もう違う。もう二度と、独りでは進まない)
(たとえ未来が暗く、何も分からなくても、迷わず前へ進む。みんながそこにいると、分かっているから)
シュウには、再びあの真っ暗な道が見えた。
目の前に続く、足を踏み入れることがあれほど怖かった道。
だが今度は、自分を導いてくれる声が聞こえた。
エデンの叫び。
アイザックの咆哮。
ヘルメスとアフロディーテの声援。
そして、母の温かな声。
(恐怖は消えていない……。迷いも、まだある……)
(でも、今度は大丈夫だと分かる。あの道の向こうには、みんながいるから)
シュウ・サジェスが隣に目を向けると、そこには金色の瞳のシュウがいた。
小さく微笑み、その彼へ手を差し伸べる。
(今度は違う。今度は、みんなが僕を支えてくれる)
そして初めて、二人のシュウは共に、その道へと踏み出した。
何が待ち受けているかも分からない、未知の道へ。
自分たちを導いてくれる、あの声を頼りに。
…………。
「うおおおおおおおっ!」
シュウが咆哮し、攻撃の速度をさらに上げた。
二人の攻防は加速し、その拳は人の目ではほとんど捉えられなくなっていく。
激しい打ち合いに、閃電岩の間を濃い砂煙が覆った。
「ナイ! ナイ! ナイ!」
「シュウ! シュウ! シュウ!」
声援の響きが、王国全土へと広がっていった。
世界各地で戦いを見守る観客たちも、それぞれが応援する戦士の名を叫び始める。
ノルクで。
アテネで。
テノチティトランで。
アトランティスで。
その広大な世界の隅々で、人々が二人に声援を送っていた。
打ち合いは互角だった。
どちらにも、諦める気などない。
だが、どちらかが力尽きるのは時間の問題だった。
ドゴッ! ドゴッ! ドゴッ! ドゴッ!
胴へと叩き込まれる拳。
ドゴッ! ドゴッ! ドゴッ! ドゴッ!
顔面を打ち抜く拳。
ドゴッ! ドゴッ! ドゴッ! ドゴッ!
「うおおおおおおおおおっ!!」
二人は同時に叫び、拳に全身の力を込めた。
その瞬間、二人の目に映る世界が、止まったかのように見えた……。
積み重ねた努力。
流した涙。
こぼれ落ちた血の、一滴一滴。
そのすべてが、一瞬にして脳裏を駆け巡った。
何年にもわたって払ってきたすべての犠牲が、ようやく意味を持とうとしていた。
だが、栄光を手にできるのは、ただ一人。
光子と電子が宙を舞い、息を呑むほど美しくぶつかり合った。
二人を取り巻くゼンカの粒子が、拳に触れるたび、それぞれ異なる属性の力へと変わっていく。
持てるすべてのエネルギーも、過去も、現在も、未来も。
そのすべてが、それぞれの拳に絡み合った。
そして、ついに――。
バキィッ――ドゴォンッ!
ナイの拳が、シュウの顔面を捉えた。
まったく同時に、シュウの拳もナイの顔面に叩き込まれる。
凄まじい衝撃が、その瞬間、二人の顔面の骨をいくつも砕いた。
それでも、どちらの体も吹き飛ばなかった。
互いの力は、完全に拮抗していた。
二人は打撃を受けたその場所で、微動だにせず立ち続けていた。
叫び声はない。
血飛沫もない。
わずかな動きさえ、なかった。
世界中が静まり返り、決着を待っていた。
世界は、勝者を求めていた。
…………。
シュウの体から、ほとんどの力が抜け落ちた。
ゆっくりと、地面へ崩れていく。
だが――。
ザッ!
残されたわずかな力を振り絞り、前へと力強く一歩を踏み出した。
焦点の合わない目で、それでもシュウは立っていた。
ドサッ!
まさにその瞬間、ナイの体が崩れ落ちた。
全身の力を失い、地面に倒れ伏す。
観客たちは、静まり返ったままだった。
オーディンが目を見開いた。
トールがため息をついた。
アカイアの面々が、互いの顔を見合わせる。
そして、ついに――。
「うおおおおおおおおおっ!!」
シュウの咆哮が、四方へと響き渡った。
「やったあああああああっ!!」
アカイア勢が歓声で応える。
「試合終了おおおおおおおっ!!」
ヘルモーズが声を張り上げた。
仲間たちは、一瞬のためらいもなく闘技場へと飛び出した。
真っ先に、エデンが消耗しきったシュウに抱きつく。
「やったな! やったんだな、この天才野郎!」
ほかの仲間たちも笑顔で加わり、シュウを抱き締めた。
「もう少し……優しくして。死にそうなんだけど……」
シュウが小さく呟く。
「やったんだな、シュウ!」
エデンは涙をこらえながら繰り返した。
「みんなで、だよ」
シュウは微笑み、言い直した。
「僕たち全員で、やり遂げたんだ」
一方、まだ意識を保っていたナイは、アスガルドの星空を見上げていた。
「美しい……」
だが、堪えきれずに溢れた涙が、その顔を濡らした。
(終わった……何もかも、終わった)
(結局、何も変わらない。俺は、あの日の弱虫のままだ……)
(俺みたいなクズには、お似合いの結末か……)
しかし、そのとき。
目の前で自分に手を差し伸べる人物を見て、ナイの眼差しが変わった。
「父上……?」
ナイは、表情のないトールの顔を見上げ、たどたどしく声を漏らした。
「なぜ、そんな顔をしている。まるで、何もかも終わったような顔だな」
「終わったんだ」
ナイが答える。
「シュウに勝つことさえできなかった俺に、戦士として何の価値がある?」
「それに……負けた俺に祖父が何をするか、父上だって分かっているだろ」
「誰であろうと、俺の息子に指一本触れることを、俺が許すとでも思うか?」
「でも……」
トールはナイへ手を差し伸べ、告げた。
「何も終わってはいない。お前の歩む道は、まだまだ長いんだ、ナイ」
「信じられないかもしれんが、お前はずっと俺の誇りだった。戦士であろうとなかろうと、それは変わらない」
「父上……」
「さあ、立て。お前の民に、顔を上げて応えるんだ」
「え……?」
トールが息子の手を取った。
そのとき、ナイはようやく耳にした。
戦いの間、ずっと耳に入ってこなかった声を。
「見事な戦いだったぞ、王子!」
観客の一人が、称賛の声を上げた。
「気にするな、ナイ! これからも応援するぞ!」
「次こそ勝てるぞ、ナイ! 諦めるな!」
闘技場全体が、二人の戦士に送る歓声と拍手で満たされていった。
その声援を受けて、ナイはただ顔を背けた。
涙に濡れたその顔に、小さな笑みを浮かべながら。
観客席では、サラが悲しみと同情の入り交じった眼差しで、その光景を見つめていた。
一方、オーディンはただ背を向け、会場を後にした。
「ゴホン、ゴホン!」
ヘルモーズが咳払いをした。
「皆様、どうか少々お耳をお貸しください!」
「まずは、観客全員を総立ちにさせるほどの素晴らしい戦いを見せてくれた両選手に、心からの称賛を!」
「残念ながら、我々は大会二回戦へ進むことができませんでした。ですが、我々の意志は、頼もしい者たちへと受け継がれたと感じています!」
ヘルモーズはGODSの三人の戦士へ目を向け、小さく微笑んだ。
「ナイ、シュウ。この美しい戦いを、ありがとう」
そう告げ、一礼する。
「それでは、結果を発表いたします……! 対戦成績は一対二、GODS学院の勝利です!」
「GODS学院、トーナメント・オブ・ゴッズ一回戦を突破! 二か月後に行われる次のラウンドへの進出が、正式に決定しました!」
観客たちの拍手が、闘技場を包み込んだ。
「最後は盛大な締めくくりといきましょう!」
ヘルモーズが、空へ向かって拳を突き上げた。
ヒュルルル――ドォンッ!
突如、夜空を埋め尽くすように花火が打ち上がった。
その場にいた誰もが、その光景に目を奪われる。
ノルクとGODSの対決は、こうして華やかに幕を下ろした。
だが、この凍てつく地での冒険は、まだ始まったばかりだった……。
エデンは、ヘラの助けを借りて、あの奇妙な力を制御する術を学ばなければならない。
アイザックとレイは、もう二度と敗れまいと、さらなる強さを求めていた。
ナイとサラは、互いの心へ歩み寄るための言葉を、見つけなければならなかった。
コウとシュウは、今の成果に満足することなく、さらに高みを目指していた。
だが、王国の隅々が祝祭に彩られる間にも、世界は進み続けていた。
そして、影もまた……。
◇◇◇
鉄の臭いが、白い雪の冷たさと混じり合っていた。
ばらばらにされた数十の遺体が、アスガルドの城壁一帯に散乱している。
「助け……て……」
負傷した兵士の一人が、か細い声で囁いた。
バキッ――グシャッ!
だが、その懇願は、無慈悲な一踏みで断ち切られた。
「気持ち悪い……ゴキブリを踏んでしまったわ……」
フードをかぶった、青白い顔の女が呟く。
冷たく、鋭い声だった。
そのとき、苦悶の吐息が聞こえた。
叫びたくても、もうその力さえ残っていないかのような声。
その男はただ、恐怖に目を見開き、自分の首が引き裂かれ、喰われていくのを見つめることしかできなかった。
男を喰らうその存在は、逆さの十字架を身につけ、真っ黒な笑みを浮かべていた。
「気持ち悪い……」
仲間が兵士を喰らう姿を見て、女は蔑むように吐き捨てた。
「獣は、どこまでいっても獣だ。名前を与えたところで、変わらない……」
刀を携えたフードの男が呟く。
そこへ、別の女の声が割って入った。
「遊びはそこまでにしておきなさい」
イスが警告した。
「何のためにここへ来たのか、忘れないで。目的はただ一つ。エデン・ヨミを捕らえることよ」
全員の視線が、一斉にイスへ向けられた。
「誰を殺すことになろうと構わない。標的は、あの少年ただ一人。どんな代償を払ってでも、必ず捕らえるわ」
(待っていて、エデン。もうすぐ、また会えるわ)
イスは、歪んだ笑みを浮かべた。
…………。
【続く】




