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「白と黒が出せるようになれば長老様から一人前って認めて貰えるんですよ~。私、白は得意なんですが黒がどうも駄目で。色が変化しきる一瞬が見極められないと、くすんだ灰色になっちゃうんです」
灰色の糸は、特有の艶が嘘のように消えうせてしまうので商品価値も無くなるそうだ。話しながらも少女が生糸が煮られている釜の傍まで連れて行ってくれた。グレッグ先生もかくやの巨大な釜がぼこぼこと泡立っている。水の色は透明なのに、糸の色は鮮やかな黄色であった。
「これは今山吹色を作っているところです~。今シーズンの社交界では黄色系のドレスが人気みたいですね。ずば抜けて注文が多いんですよ」
不思議現象を目の当たりにしながら、不意に引き上げられていく糸達を見送った。釜から引き上げたら、即座に川に沈めてさらすそうだ。
「鮮やかにしたいのなら熱がとれるまでで充分なんですよねえ。最後に乾かしたら、失せない彩りの素敵な糸が完成するわけです」
釜の水が排水溝にぶちまけられているのを尻目に、私達は工房を出た。機織り工房へ移動する。
「そういえば、紫色はないんですね」
さっきの染色手順をメモにまとめながらふと気が付いた事を口にする。少女は笑顔のままだ。
「紫色は濃淡問わず王室の貴色なので、決まった工房以外に染色法は知らされていませんし研究することも禁じられています~。冒険者さん達が纏う紫色は、染色じゃなくて魔物の素材の色なので、蟲紫と言う別の色って事で罪に問われたりはしないんですけど~」
紫色の体を持つ魔物は例外なく虫である為付いた名前らしい。まさかそんな色の区分があるとは知らなかった。
「……私は菫が好きだから、菫の色が布になったら素敵なのにって小さなころ思っていました。だからショックだったんですよ~。紫の事は考えることすら禁じられたので。まあ、今は諦めてますけどね~」
軽く笑う少女ではあるが、足取りが乱れている。8本もあると、心情がもろに足に出てくるのかもしれないな。
「あー、では、透けるほど薄い布で赤と青を作って重ねてみたらどうですか?それなら、 紫色には染めてないですよ……なんて、すみません。事情もよく知らないのに」
寂しげな彼女が見ていられず、気休めを探して思い出したのは子供の頃のセロファンを日に透かした時のことである。光を透かすような布なんてあるかどうか知らないがとりあえず提案して、やっぱり無謀だった気がして謝った。
「透ける、布を、重ねる……糸を、織る時に……細く……」
少女は目を見開いて茫然としたままだ。青空を見たまま、瞬きもせずにじっと立ちつくしている。それから、ゆっくりと私を振りかえった。
「ごめんなさい。ご案内はここまでで失礼します。やりたい事が出来たので」
急な申し出だったが、あんまり真剣な面持ちに、ただ頷きを返す。少女がふわっと微笑んでくれて、お辞儀をされた。
「私の夢を思い出させてくれてありがとうございます。あなたはきっと私の女神です。きっとあなたの目みたいな綺麗な菫色を作ってあなたに捧げます、天から舞い降りた女神様」
「いえ、いいですよ。あのそれより何かしらのヒントになったならよかったです、そろそろ帰ろうかなあ」
おかしい。さっきまで普通の人だった気がしたのに、何で私は女神とか言われているのだろう。妙なことになる前にさっさと逃げ出そう。ここでの絹糸の入手は諦めた方がよさそうだと、じりじりと距離を取った。
「そうですか? ああ、案内は出来ませんけれど、購入の事でしたらさっきのスパイダー小屋の方へお戻りください。ユユンと言うものが契約などの一括管理をしていますから。私はディヨルです、私の女神! 覚えておいてくださいませ~」
あ、一応最初に言った言葉は覚えていたのか。聞き捨てならない呼称を残してディヨルさんは駆け去って行った。次に会う機会が無い事を祈るしかできなさそうだ。
「辰砂ってほんとに変な奴に好かれ、ますよね」
「狙ってるわけじゃないんだけどな」
「少なくとも狙われてはいますよね」
イルが呆れた風に言った。仕方ないじゃないか。あっちから来るものをどう避けろと言うのだ。
製糸場に戻って近くにいた従業員さんにユユンさんを呼びだして貰った。居並ぶ美女たちの中でも一際セクシーな感じの方である。蜘蛛部分も女郎蜘蛛に似たカラーリングで格好良かった。
「染めた糸だけ欲しいとお聞きしましたわ。何にお使いなのかしら?」
「組紐細工にして装飾品かお守りかに使えないかと考えています」
ふうん、とつり目気味の黒い瞳がこちらを値踏みした気がした。
「高いお守りになりますわね? 一綛で10000エーンですもの」
一綛がどれほどの長さかと聞けば小屋から一番近い木くらいまでの距離だと言う。10m無いな。確かに高い。
「値段はともかく、購入許可はどのようにしたら取れるものなんでしょうか、死刑にはなりたくないのですが」
値段の問題はまた考えることにして、それよりも買える様になるかの方が気になった。ユユンさんは口元に指先を当ててくすっと笑った。
「ディヨルから聞きましたのね? あの子ったら中途半端に説明したようですわね、大丈夫ですわ。あれは布と、大口の販売の話ですの。年間取引額200000エーン以下の糸のみの小口取引はギルドカードの提示と契約書を交わすだけで出来ますわ」
なんでも、刺繍糸としても優秀なこの糸を欲しがる人は結構多いそうで。年頃の娘さん達が想い人に渡すハンカチに刺繍する風習も後押しして、結構買いに来る人は多いのだとか。
「まあ、刺繍糸ではなく細工に使うと仰られたのは初めてですけれど。ついでに申し上げると来訪者の方がここに購入に見えるのも、初めてですわ」
早速契約書に名前を書き込みつつ談笑した。最初に用途を確認されたのも、私が来訪者だったからだそうだ。冒険とは全く縁のない農場に何をしに来たのか不審がられていたのだった。謝られてしまったので気にしないで欲しいと返す。
一綛で10000エーンと言う事もあり、ひとまず朱色、紺、黄色を選んだ。理由は特にない、お守りらしい色を選んだだけである。
「お気に召したらまたいらっしゃってくださいな。素敵なお守りになる事をお祈りしてますわ」
ユユンさんに見送られてニーの街へ戻った。ディヨルさんも頑張ってほしい。心の中で応援しておこう。