5
少年がマックスたちの前に現れてから約一ヶ月。夏休みも終盤に差し掛かったある日の昼間。リビングで紅茶を飲んでいたレイチェルが唐突に『祭に行きましょう』と言い出した。毎年八月になると、アウルの街のフィスメル大広場で花火大会が行われていた。思い出したかのように、レイチェルは今年の花火大会の開催日が今日であることをみなに告げた。
「折角の休日なんだから、家族で出かけましょうよ」
「そうだな。もう何年も見に行ってなかったから、今年は行ってみるか」
「花火か。実際に見るのは久しぶりだ。楽しみだな、レイ」
ランバートとマックスは嬉々として四人でアウルに行くことに合意を示したが、少年だけは乗り気ではなかった。
「僕、行きたくない」
生前、レイは花火が大好きだった。本来なら花火が見られると知り、誰よりも喜ぶのは彼の筈だ。少年のレイらしからぬ反応にマックスは首を傾げる。
「どうしたんだよ、レイ。お前花火好きだったじゃないか」
「花火は好きだけど、人混みが苦手なんだ」
「お前、いつから人混みが苦手になったんだ?そんなこと言ってると、一生外に出られなくなるぞ」
マックスが冷やかすと、少年は不安気な様子で合意した。
「わかったよ。そのかわり、絶対離れないでね」
平生、少年の振る舞いは生前のレイと大差ない。しかし、時折少年はレイがしないような行動を取ることがあった。人混みを恐れるのもそれに該当する。レイは一度も人混みを嫌ったことはなかった。マックスは少年の振る舞いに違和感を覚えたものの、そこから目を背けて笑みを浮かべた。
「あぁ、傍にいてやるよ。離れたりなんかしない」
少年の振る舞いに時折違和感を覚えるのはマックスだけではない。しかし、ランバートもレイチェルも、冷たい現実から目を背け、少年をレイとして扱っていた。最近ではマックスも両親の影響からか、意識せずとも少年をレイとして見られるようになっていた。
「約束だからね」
マックスに裏のない笑みを向けられて、少年は嬉しそうに俯いた。
それから二人はアウルに行く準備を整える為、二階の自室へと向かった。
マックスは机の上に置いてある腕時計を身につけて、家の鍵と財布、携帯電話をズボンのポケットにしまう。他に何か持って行くものはないかと、机の引き出しを開け、おじのグレンがくれた折り畳みナイフを発見する。
必要になるだろうか。
やや躊躇った後、マックスはナイフを取らずに引き出しを閉じた。
「レイ、もう準備できたか?」
自室を後にして、廊下からレイの部屋を覗き込む。少年はベッドの上に数種類のジャンパーを並べ、それらに睨みをきかせていた。
「マックス、上着はどれが良いと思う?」
歳の割に身だしなみを気にする少年を見て、マックスは苦笑いを浮かべる。
「今日は雨も降ってないから、上着は必要ないだろ」
少年は窓の外に目をやり、『それもそうだね』と言って、ジャンパーをクローゼットにしまった。
「じゃあ、行こうか」
少年が赤いリュックを背負うのを認めると、マックスは彼より一足先に一階へと降りた。
「とにかく、絶対に街には行かないからな!」
マックスと少年がリビングに戻ってきた時、ちょうどランバートがレイチェルを怒鳴り散らしているところだった。眉間に皺を寄せて食器を片付けているレイチェルに、何事かと訊ねると、彼女は囁き声で不平を洩らした。
「お気に入りの帽子が見つからないから街には行かないって言ってるの。あの帽子捨てたの自分なのに、私が捨てたって言い張って聴かないのよ」
うんざりしたような態で、マックスも声を落として訊ねる。
「父さんが自分で捨てたっていうのは、間違いないの?」
「えぇ、間違いないわ。あれはレイが……」
そこまで言い掛け、はっとしてレイチェルは口をつぐんだ。マックスは飲み込まれた言葉を察して、傍で背伸びしている少年の背中を押し、彼を廊下へと押しやる。二人の傍で聞き耳を立てていた少年は、マックスに背中を押されると、不満気な顔をしてみせたが、黙って彼に従った。
「それで、どうするの?祭には行かないの?」
「そうね。ああなったら人の話聞かないから。悪いけど、二人で先に行っててくれる?急いで替わりの帽子買ってくるから」
「それで大丈夫なの?」
自宅から一番近い衣料品店までは歩いて三十分はかかる。そうこうしている間に祭は始まってしまうだろう。それでもレイチェルは自信満々に頷いた。
「大丈夫よ。それよりレイをお願いね」
「うん、わかってる」
力強く頷くと、マックスはしかめっ面でバラエティー番組を見ているランバートを一瞥してから、廊下の壁に両手を付いて俯いている少年に歩み寄った。
「レイ、行くぞ。父さんと母さんは後から来る」
「どうして一緒に行かないの?」
少年はなぜか顔を強張らせる。
「二人は父さんの帽子を買ってから来る。一緒には行けない」
「なら、買って戻って来るのを待てばいいだけでしょ?」
「そうしたら、祭の開催時間に間に合わなくなるんだよ。ほら、ぐだぐだ言ってないで行くぞ」
マックスが急かすと少年は渋々了承した。
午後五時三十分。花火大会の開催時刻まであと三十分。マックスはアウル駅に着いた電車から降りると、少年を連れて西側の出口から外に出た。大会の会場は東方面にあったが、人気を避ける為にあえて反対へと進んだ。
マックスの予想通り、花火目当てと思しき人々でごった返す東口と違い、西口はそれほど人気はなかった。
これならレイも安心だろう……。
ほっとして隣を歩く少年を見やる。少年はルピオス駅から依然として見えない何かに怯えるかのように震える手でマックスの左手を握り締めているが、表情は車内にいた時より大分柔らかくなっていた。
二人は更に人気を避けようと、そのまま街の西へと進み、先にある海岸へと向かった。
歩くこと約十五分。目当ての海岸が見えてきた。堤防付近にはカップルや親子連れの姿が疎らに窺えた。少年は人気のない場所を求めているようだったが、子ども二人でそのような場所をうろつくのは自殺行為だ。この国は決して犯罪のない国ではない。痛い目に遭いたくないのであれば、できるだけ良識のある大人の傍にいるべきだろう。
マックスは海岸沿いに空いているスペースを見つけて、少年を誘う。
「ほら、あの場所なら文句ないだろ?」
少年は黙って頷いた。やはりと言うべきか、表情は優れていない。マックスは堤防に背を凭れると、少年の扱いに困り果てて、携帯電話を取り出した。既にアウルの街に向かっているであろう両親からの着信通知はまだなかった。
もしかして何かあったのか?
不安を覚えてマックスはレイチェルの携帯電話に電話をかけた。厭な予想に反して、レイチェルはすぐに電話に出た。
「もしもし?マックス?もうアウルには着いたの?」
マックスはため息を吐いてから言葉を返した。
「もうとっくに着いてるよ。それより、母さんたちはどうしたの?まだ着いてないの?」
「うん。まだ家にいるのよ」
「え?どうして?花火見に行こうって言ったのは母さんじゃないか」
ついつい大きな声を出して、少年の注意を引いてしまう。マックスは怯えるような顔色の少年と目が合い、慌てて彼に背を向け、声を潜める。
「なぜだかレイが強張ってるんだよ。今からでも来られないの?」
「ごめんね。行きたいのは山々なんだけど、お父さんが折角買ってきた帽子が気に入らないって言うのよ。何度も行こうって誘ったけど『俺は行かない』の一点張りで。お父さん一人だけ残して行く訳にもいかないからね……」
レイチェルは心底残念そうだった。故にこれ以上責める気にはならなかった。
「そっか。じゃあ、街には来ないんだね?」
「うん。申し訳ないけど……」
「わかった。帰る時にまた連絡するよ」
「レイのこと、お願いね」
「わかってるよ」
マックスは通話を切ると、少年に両親が街に来られない旨を説明した。泣き出されたらどうしようかと思ったが、以外なことに少年は諦めたように小さく頷いただけだった。
お前は一体何に怯えているんだ?
暗い影のある視線を地に這わせる少年を見つめながら、マックスは彼の心境を推察する。
少年は時折レイらしからぬ行動をとることがあった。その都度マックスたちは少年の振る舞いに誤りがあるかのように彼の行動を指摘した。昔のレイならこうだったと。
少なくともマックスは少年がレイでないことには気付いていた。少年はレイではないのだから、レイと少年の振る舞いにずれが生じるのも必然だと理解していた。それでもマックスは両親と同じように少年にレイを演じることを求めた。そして少年はこの一ヶ月、マックスたちの期待に応え続けてきた。レイで在ろうとした。しかし、今日だけは違った。
今日の彼はレイが好きだった花火に無関心で、レイが恐れなかった人混みを極度に忌避している。
いつもと違う彼の振る舞いを見ていると、厭な予感がした。
よくないことが……不幸なことが身の周りで起きると、マックスの研ぎ澄まされた感性が警告していた。
家に帰るべきだろうか。
マックスが逡巡し始めた時、ちょうど辺りに『ヒュゥン』と乾いた音が響いた。
何事かとマックスは音につられて顔を上げた。
上空では打ち上げ花火が綺麗な黄色の花を咲かせていた。いつの間にか時刻は午後六時を回っていたようだ。空には次から次へと、儚い一瞬の輝きを見せて散る花が打ち上げられていく。五年ぶりに間近で見る花火にマックスの心は高揚した。
綺麗だ……。
空に輝く花火に魅せられ、マックスの中の不安は無意識の内に和らいでいく。
「なぁ、レイ。どうして花火が赤や黄色、緑なんかに光るか知ってるか?」
少年は興味ないといった態で肩をすくめる。
「さぁ、知らない」
マックスは花火に目を向けたまま苦笑いを浮かべる。
「炎色反応だよ。花火に混ぜる金属の種類によって、色が変わるんだ。赤ならリチウム。黄色ならナトリウムといった具合にな」
「ふぅん、そうなんだ」
不安そうな少年の気を紛らわそうと話を振ったが、彼の態度は素っ気なかった。
こんな時、兄としてどうすることがベストなのだろう。
マックスは暫し、煙が漂う暗い空を見上げて黙考し、徐に少年の左手を優しく握った。
「レイ、お前が何に怯えているのかは俺にはわからない。でも俺とお前は家族だ。何か悩んでいることがあるなら俺に話せ。力になってやるから」
マックスの嘘偽りのない真っ直ぐな言葉を受けて、少年は一瞬目に輝きを宿し、幼子のように無邪気な笑みを浮かべた。
「ありがとう、マックス」
ようやく少年が笑みを浮かべたのを見て、マックスは安堵した。
両親がいない時に、少年に何かあればどうしようかと、彼もまた不安がない訳ではなかった。
結局、厭な予感も気の所為だったのかもしれない。
満足気に頷いていると、少年が遠慮勝ちに言った。
「ねぇ、もう手は放しても大丈夫だよ」
はっとしてマックスは手元に目を向け、『悪い悪い』と笑いながら手を放した。
再びレイがいた頃の日常に戻りつつあるのを感じ、幸福な気持に包まれた。
次々と打ち上げられる色鮮やかな花火を見ながらマックスは思った。
家族というのは花火に似ている。花火は火薬だけではただの火花にしかならない。けれど、そこに金属が加わることで鮮やかな輝きを生み出す。家族も同じだろう。一人だけでは小さな光でも、夫婦や子どもが集まれば、それは美しく大きな輝きになる。
マックスは自分たちのもとに少年が現れたことを神に感謝した。同刻、花火大会はフィナーレに入り、夜空には大量の花火が咲き乱れた。祭はいよいよ終焉が近付いていたが、寂しいとは思わなかった。むしろマックスは嬉しかった。これからまた、家族と思い出を作っていけるのだと思うと……。
盛大に大量の花火が撃ちあがった後、最後の花火がぽつんと宙に咲いた。
終わりだ。
マックスはため息を吐くと、煙が漂う空を見上げたまま言った。
「帰るか」
返事をする者はいなかった。
不思議に思って辺りを見回し、初めて傍にいた筈の少年がいなくなっていることに気付く。瞬間、暗闇の中に一人放り込まれたかのような錯覚に襲われる。
レイがいない……。
前後左右、どこを見渡しても少年の姿は見つからない。
「レイ、帰るぞ!」
動揺を抑えようと叫んでも、声は闇に呑まれる一方。弟の声は返って来ない。
さっきまでここにいた筈なのに!
パニックになりそうな頭を必死に静めて、マックスは片っ端から近くの通行人に声をかけていく。
「すみません。八歳の男の子を見ませんでしたか?茶髪で、赤いリュックを背負っている子です」
花火を見に来た親子連れやカップルなど、とにかく目に入った人全てに訊ねて回った。しかし、誰もが少年を『見なかった』と答えた。
マックスは少年を失うかもしれない恐怖に耐えられなくなり、道路の上に膝をついた。
少年が自主的に離れたにしろ、攫われたにしろ、マックスには彼の行方が想像もつかなかった。
レイ、どこに行ったんだよ。
少年はマックスとは違い、携帯電話を持っていない。故に、彼を見つけ出す手段は狭く限定されている。
やみくもに探しただけで見つけられるだろうか。
マックスは両親に助言を求めようと、ズボンのポケットから携帯電話を取りだす。と、同時に携帯電話は小刻みに震え、レイチェルからのメールの受信を知らせた。
母さんからだ……。
マックスは悪事が発覚した子どものように、恐る恐るメールを開いた。
そろそろ終わった頃かしら?
気を付けて帰ってきてね。
二人とも愛してるわ。
メールを読み終える頃には両親に現状を説明する気はなくなっていた。両親にだけは少年がいなくなったことを絶対に知られてはいけないと思った。マックスはメールを閉じると、すかさず両親ではなくおじのグレンに電話をかけた。グレンは三回目のコールで電話に出た。おじの声は全てを見透かしているかのように穏やかで落ち着いていた。
「マックスか。どうしたんだ?」
尊敬するグレンの声を聞いた途端、マックスは高ぶる感情を抑えきれなくなった。
「おじさん、レイが突然いなくなったんだ。さっきまで一緒にいたのに……」
泣きそうになりながらマックスは事情を説明した。少年と二人でアウルまで花火を見に来たこと。花火を見ている間に少年がいなくなっていたこと。近くにいた人は誰も少年の姿を見ていないこと。説明し終えると、マックスはおじにこれからどうするべきか助言を求めた。
話している内に、頼れるのはおじだけのような気がした。しかし、マックスの期待に反して、おじからの言葉は冷たいものだった。
「マックス、その時が来たんだ。彼のことは諦めろ」
おじの言葉の意味はすぐに理解できた。本心はおじの考えと同じだった。それでもマックスは少年のいない世界には戻りたくなかった。少年の存在を否定するグレンを許せなかった。
「何言ってんだよ!レイは俺の弟だ。諦められる訳ないじゃないか」
勢いに任せておじを黙らせようとしたが、マックスの言葉でグレンが怯むことはなかった。
「気付いていた筈だろ。マックス、現実を受け入れるんだ。彼はレイじゃない」
目を背けてきた事実をおじに突き付けられ、マックスはナイフで心臓を抉られたような気分だった。苦痛に耐えられなくなり、両膝と左手は地につき、呼吸は激しく乱れる。今にも倒れそうになりながら、マックスは携帯電話を耳に当てたまま放さず、必死に堪えてグレンに言葉を返す。
「あいつは紛れもないレイだ。おじさんにはわからなくても、俺には分かる」
精一杯強がってから通話を切った。
心の中は悔しさで一杯だった。
どうしてわかってくれないんだ……。
苦悶の表情で、歯を食いしばりながら、震える両足で何とか立ち上がると、マックスは街の中心部に向かって走り出した。もう一度少年に会う為に。