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少年が家を出て行ってから約五分後、両親が浮ついた様子で家に帰ってきた。その頃、マックスはリビングで気持を落ち着かせる為に水を飲んでいた。
「マックス、レイはどこだ?」
ケーキの入った白い箱を片手に、上機嫌でリビングに駆け込んできたランバートは、マックスを認めるなり、早速レイの居場所を訊ねた。
両親は少年がいなくなるとは微塵も考えていないのだろう。二人は子どものようなキラキラした視線で部屋を見回している。少年は戻ってこないと伝えられる雰囲気ではなかった。
マックスは水の入ったコップをテーブルの上に置くと、寂しそうに両親から目を逸らし、呟くように言った。
「レイは……レイは、友達の家に遊びに行ったよ」
どうせ嘘を吐くならもっとマシな嘘を吐いたらどうなんだ?
心の中で自分を責める声がしていたが、両親はマックスの嘘に疑問を抱かなかったようだ。
「そうかそうか。遊びに行ってしまったのなら仕様がないな。ケーキはレイが帰って来るまでお預けにしよう」
ランバートはケーキの入った白い箱をテーブルの中央に置き、満面の笑みで二人を見やる。夫の判断にレイチェルは一瞬顔を曇らせたが、『レイがいないのなら』と諦めたように頷いた。
マックスには両親の反応が不思議に思えてならなかった。レイは友達が多かった。とはいえ、彼がこの世からいなくなって既に五年が経過している。つまりは彼の周りが十三歳になっている中、彼だけは八歳のままなのだ。かつて親しかったからといって、五歳も歳の離れた子どもと遊ぶ思春期の少年などいるだろうか。そもそも、彼の容姿をはっきりと覚えている友達がいるかどうかも怪しいものだ。また、少年はこの三日間、一度として自主的に外出することはなかった。
何故両親は少年がいなくなったにもかかわらず、少しも慌てないのだろう。必ず帰ってくる確信でもあるのだろうか。
マックスが訝し気に両親を見ていると、不意にランバートが言った。
「マックス、庭のテーブルとイスを、地下に運んでおいてくれないか?」
屈託のない笑みを浮かべるランバートの脳裏には、既に家族四人でケーキを食べる明るい未来が浮かんでいるようだ。
マックスは幸せそうな両親に水を差すことができず、汚れた皿が積まれてある台所を一瞥してから、一人になれるチャンスだと自分に言い聞かせてランバートの頼みを聞き入れた。
人気のない庭は静寂が支配していた。つい先程まで親戚一同と両親、そして少年と宴を開いていたのが信じられないくらい静かだった。
芝生の上には人の姿はなく、あるのは無機質な白いテーブルとイスのみ。子どもたちが大地を駆けてはしゃぐ声はもう聞こえない。
宴の終わった庭に侘しさを抱きながら、マックスは導かれるように空を見上げた。外はいつの間にか現れた灰色の雲によって、太陽は遮断され、まだ午後四時であるにもかかわらず、薄暗くなっていた。
雨が降る。あの日のように。
不穏な色に染まった雲を見て、少年と初めて会った日のことを思い出した。
あの日は夕方から雨が降り出していた。なぜか今日も日が暮れ始める頃合いに、雨が降るような予感がした。
急がないと。
はやる気持に急きたてられ、小走りで芝生の中心へと向かう。向かうも、途中ですぐに速度を緩めた。
マックスには急ぐ理由が見当たらなかった。今更雨に濡れることなど、どうでもよく思えた。
マックスは自嘲気味に笑うと、白いイスを両腕に抱えて、ゆっくり家の地下へと歩を進めた。
ランバート家の地下は、レイが事故にあってからろくに手入れがされていなかった。天井には蜘蛛の巣が張られてある上に、至る所にほこりが積もっている。一応、キャンプ用のイスとテーブルを地下から取り出す際、室内の掃除を軽く済ませてはあったが、それでも地下室からほこりっぽさが消失することまでは叶わなかった。
石壁から伝わるひんやりとした空気を肌で感じながら、マックスは薄暗い地下へと続く階段を一段一段慎重に降りて行く。慎重に降りるのは転ばない為でもあるが、苦手な蜘蛛にうっかり近付かないようにする為でもある。
マックスは子どもの頃、十センチ近い大蜘蛛に飛びかかられて以来、蜘蛛が苦手だった。
天井に大きな巣が点在している以上、彼らが物陰で息を潜めている可能性は排除できない。主に足元に注意を向けながら、お化けに怯える幼子のようにゆっくりとイスを運ぶ。が、寝床を荒らされた蜘蛛の急襲を受けるのではないかという不安は杞憂に終わった。
マックスは難なく部屋の奥まで辿り着くと、静かにイスを床の上に安置した。
朝、地下室をレイチェルが掃除した際、不運にも地下を住処にしていた蜘蛛たちはみな、彼女に追い立てられてしまったようだ。マックスの苦手な蜘蛛の姿は見渡してもどこにもなかった。
無駄にびくびくして損したな。
拍子抜けして暫し、呆けたようにぼうっと突っ立っていると、唐突に携帯電話の着信音が地下室に鳴り響いた。
こんな時間に誰だろう。
マックスは大して期待もせずに、ズボンのポケットに忍ばせてある携帯電話を取り出し、ディスプレーに目を向ける。画面は高校の同級生、ピーターからの電話を知らせていた。
一体何事だ?
無視してもよかったのだが、夏休み中にわざわざ電話をかけてきた理由が気になり、マックスは通話ボタンを押した。
「やあ、マックス」
ボタンを押してすぐに、ピーターの快活な声が聞こえてきた。
「やあ、ピーター」
「今時間あるか?」
「あぁ、大丈夫だ」
天井を一瞥してからマックスは答える。
「ならよかった。実は今レベッカの家にいるんだ。三十分くらい前に、急にパーティするからって、あいつに呼び出されてな」
レベッカ。その名前を聞いてすぐに思い出す人物がいた。
「レベッカって、俺たちと同じクラスの、レベッカ・バーネットのことか?」
マックスの知るレベッカは、教室では一人で読書していることの多い、寡黙で内気な少女だ。そんな彼女が、誰からも好かれるクラスの人気者、ピーターを呼び出すとは考えにくかった。しかし、半信半疑で訊ねると、ピーターはあっさり肯定した。
「あぁ、そうだ。隣のクラスのレベッカではなく、俺たちと同じクラスのレベッカだ。あいつと俺は幼馴染なんだ。古くからの付き合いがあってさ、突然呼び出されたのだって、一度や二度の話じゃない。ま、ここ数年はずっとそういうのはなかったんだけどな」
ピーターの『ここ数年』という表現が引っ掛かったが、それに関してマックスは問い質そうとまでは思わなかった。
「そうだったのか。それで、どうしてわざわざ俺に電話なんかかけてきたんだ?」
彼なら他にも相談相手がいる筈だ。
「あぁ、それなんだがマックス、お前に見てもらいたいものがあるんだよ」
「見てもらいたいもの?それは今日じゃないと駄目なのか?」
「あぁ、できることなら今すぐにでも見て、意見をもらいたい」
「今すぐにでも……?」
マックスは携帯電話を片手に、一瞬身構えた。ピーターが自分を陥れようとしているのではないかと思ったからだ。しかし、その考えはすぐに霧散した。
ピーターは学校では誰からも好かれる人気者だ。その理由は学校の成績が優秀だからというのもあるのだろうが、何よりも彼が気さくで優しい性格の持ち主だからに違いない。
レイの事故があってから、マックスは学校で一人でいることが多くなった。誰かと話そうという気が起きなかった。同級生と自分で話が合う訳がないとも思っていた。そんな彼を、クラスの中で不良というレッテルを張られた生徒たちが見逃す訳がなかった。その手の同級生に、マックスが学校でからかわれるのは日常的だ。しかし、ピーターは彼らのように人を陥れる為に他者に近付く汚れた人間ではないとマックスは解っていた。故に、不審に思える彼の話を受け入れるのに微塵の抵抗もなかった。とはいえ、なぜ彼が急を要しているのかはマックスには解らなかった。
見せたいものがあるにしても、今でなくとも良いのではないか?
マックスは脳裏に浮かんだ疑問の答えをピーターに求めた。
「どうして今なんだ?」
マックスの問にピーターは落ち着いた声で答えた。
「俺が見せたいものは今、レベッカの傍にいる。だが、そいつがレベッカの傍にいつまでもいる保証はない。今すぐに見てもらいたいのはその為だ」
ピーターの返事にマックスは首を傾げた。ピーターは『見せたいものがある』と口にしたが、その『見せたいもの』は『レベッカの傍にいる』と表現した。『見せたいもの』が『物』であるならば、『傍にいる』ではなく『傍にある』と形容するのが正しいのだが……。単純に言い間違えたのか。意図した発言なのか。答えが分からずマックスは再びピーターへの不信感を募らせた。
「なぁ、ピーター。お前が見せたいのは人なのか?それとも物なのか?どっちなんだ?」
ピーターはすぐには答えなかった。
「なんとも言えない。話したところで信じてくれないだろう。実際に見てもらうのが一番早い」
不明瞭な言葉とは裏腹に、ピーターの口調は真剣だった。マックスはそのギャップがおかしく思えて吹き出した。
「おいおい、ピーター。まさか宇宙人や生ける屍を見たなんて言うんじゃないだろうな」
冗談半分で口にしたのだが、ピーターは否定しなかった。
「宇宙人か生ける屍か。あぁ、そうかもしれない。俺が見たのは死んだと思われていたレベッカの妹なんだからな」
ピーターの口調は変わらず真剣で、嘘を吐いているようには聞こえなかった。
ここに来て、ようやくマックスはピーターが見たものの見当がついた。
彼だ。ピーターが見たのは一時間前まで家にいた、レイと瓜二つの姿をしていた、あの少年だ。死人の姿をしている点からして、彼に違いない。
引っ掛かっていたものが全て取れた気がした。だからといって、マックスの気分が高揚することはなかったが。
ピーターが彼を見たからといってなんだ?それが分かったからといってなんだ?彼はもう家を出て行った。俺たち家族には関係のない話じゃないか。
地下室で一人、虚ろな視線を中空に向けていると、ピーターの不安そうな声が聞こえた。
「おい、マックス?聞こえてるのか?」
マックスはピーターの声で我に返り、慌てて携帯電話を耳に当てる。
「すまない。ちょっと考え事をしていた」
「なんだか、疲れているみたいだな」
「俺に言わせれば、お前も疲れているように聞こえるぞ」
マックスが軽口を叩くと、二人は控えめに笑った。
「それで、今日は来てくれるのか?レベッカの家はリロート駅の傍なんだが……」
遠慮勝ちに訊ねるピーター。マックスはできることなら彼の頼みを聞き入れたいと思う。マックスにとっては同級生の中で唯一信頼しているのがピーターなのだから。しかし、マックスはまだ両親に少年を追い出したことを打ち明けてはいなかった。決して避けられない大事な仕事がこの後控えていた。
「悪いが、今日は行けそうにない」
できるだけ感情を込めてマックスは謝った。
「そうか。残念だ。是非ともマックスの意見が聞きたかったんだがな。まぁ、仕方ないな……」
ピーターは困り果てたようなため息を吐く。
「時間とらせてしまって悪かったな。また今度何かあったら連絡するよ」
「あぁ、また今度」
「じゃあな」
ピーターに気の利いた言葉を投げかける前に通話は切れた。
マックスは携帯電話をポケットにしまうと、少年のことを頭から追い出し、イスの片付けを再会する為に、小走りで庭へと向かう。
外はまだ雨が降っていないが、上空はどす黒い雨雲で覆われている。今にも雨が降り出しそうな雰囲気だった。マックスは迷惑そうにため息を吐いてから作業を再開した。
蜘蛛を恐れていた最初の運搬時とは違い、マックスの頭の中は少年のことを両親にどう説明するかで一杯だった。ストレートに少年がレイではないと伝えても、両親はマックスの話を真に受けないだろう。少年がレイに化けていたと伝えたところで、結果は見えている。そんなことを言えば、最悪頭がおかしくなったと思われるかもしれない。かといって、少年の失踪に知らんぷりを通すことも難儀だ。両親は少年が家に帰ってこないと分かれば、街中を捜し回るに違いない。
マックスは妙案が浮かばないまま、庭から地下へ。地下から庭へを三往復した。ちょうど三往復目を終えた頃から、外で小雨が降り始めた。自身が濡れるのは一向に構わなかったが、家の中を水浸しにするのは躊躇われた。
マックスは急いでイスを片すと、最後に残ったテーブルを家まで運び、ほっと息を吐きながら玄関の戸を閉めた。
仕事も終焉が近付いていた。
両親に少年の正体を告げる時はもう間近だ。しかし、その時から逃れようとするかのように、マックスはタオルを取りにバスルームに足を運ぶ。その際、リビングから両親の幸せそうな笑い声が聞こえてきた。
レイを失ってから少年がこの家に来るまで、両親は全くと言っていいほど笑わなくなっていた。毎日毎日顔を合わせればレイのことで喧嘩ばかりしていた。その両親が今、笑っていられるのは、少年がレイとしてこの家に来てくれたからに他ならない。しかし、マックスは両親に現実を見てほしかった。その結果、例え両親が喧嘩の絶えないどん底な日々に逆戻りすることになったとしても。
マックスはタオルで髪に付いた水気を取り終えると、壁に立てかけておいたテーブルを抱え、重い足取りで地下室へと歩を進めた。
もはや、蜘蛛を恐れる気持はなくなっていた。堂々と地下への階段を下りて行き、横向きのテーブルを入口とは正反対の、右奥の壁に立てかける。と、背後で物音がしてさっと振り返る。
どうやらテーブルを持ったまま進行方向を変えた際、テーブルの端が近くの棚の上に置いてあった薄緑色のケースにぶつかり、その拍子にケースを床に落としてしまったようだ。
薄緑色のケースは厚く埃が被っていて、床に落下した際に多量の埃が舞い上がった。
マックスは埃を吸わないよう口元で右手を振り、床に落ちた薄緑色のケースを左手で拾う。見覚えのあるケースで、開く前から何が収められているのか分かっていた。
写真だ。
マックスはアルバムを手にした途端、過去の記憶が脳裏に浮かんだ。甦ったのはレイが事故にあう前日、彼と地下室でアルバムを見ていた時のことだった。
『マックスはいいよね』
平日の夕暮れ時、暇を持て余したマックスが一人、地下でアルバムを眺めて吹き出していると、不意に彼の元へ歩み寄ってきたレイはつまらなさそうに言った。
『マックスはいいよね。僕よりも長く父さんと母さんの傍にいられて』
いつもは明るく家族を和ませるレイが、この時は珍しく塞ぎこんでいた。マックスはそんな弟の変化をすぐに感じ取った。
『どうしたんだ、レイ。学校で嫌なことでもあったのか?』
マックスの問にレイはぶっきらぼうに答える。
『別に何もないよ』
『なら、どうしてあんなこと言ったんだ?』
『……』
再度マックスが訊ねると、レイは黙ってアルバムから目を放し、壁に背を預ける。しばらく沈黙が続いた。
『レイ……』
マックスが焦れて話しかけようとした時、レイが重い口を開いた。
『マックスは僕よりも三年も早く生まれてる。だから、父さんと母さんが死んでしまうまでに二人と一緒にいられる時間は、僕よりも三年長いってことになる。その差はどんなに足掻いたって縮めることはできない。だから、マックスが羨ましいんだ』
レイの返答にマックスは一瞬面食らった。弟の悩みはせいぜい好きな子に振られたか、学校で同級生に無視されたくらいの些細なものだと思ったのだ。まさか、家族の生死について深く思い悩んでいるとは考えなかった。
弟からの不意打ちに、マックスの体は無意識の内に固まった。話の内容が内容なので、下手なことを言えないというプレッシャーがあった。しかし、マックスは焦っていなかった。急速に冴え渡った彼の頭脳は、弟に返すべき言葉を即座に自身に提示した。
マックスは手にしたアルバムを閉じると、レイと目を合わせ、微笑を浮かべた。
『俺は大人になったらお前より先に家を出ていく。そうしたら、三年なんて差はすぐに埋まっちまうよ。レイ、それでもお前が不満だって言うのなら、俺はこれからできる限り父さんと母さんから距離をとるようにするよ。それでお前が満足するなら』
笑みを浮かべるマックスの言葉を聞き、はっとして俯くレイ。
『ごめん、マックス。僕は……』
『何を謝っているんだよ。俺がお前の為に気を遣ってやったんだから、そこは、ありがとうだろ』
『うん.ありがとう。マックス、僕がわがままだったよ』
『気にするなよ。俺だってそういう時はある』
マックスはにやりとして右手を上げる。すると、レイはやや躊躇ってからマックスのほうへと歩み寄り、兄の右手を叩いた。ハイタッチは兄弟で何かを成し遂げた時にいつも行っていた。
『ほら、もっとこっちに来い』
マックスが自身の膝の上に乗せてやると、レイは恥ずかしそうに笑いながら、アルバムを覗き込んだ。彼が家族の生死について思い悩んでいるようにはもう見えなかった。それでも心の奥底ではまだレイが悩みを消化しきれていないことにマックスは気付いていた。翌日に、両親と三人で映画館へ行くようレイに提案したのはその為だった。
『今日は父さんと母さんと映画館に行ってこいよ』
土曜の昼間、自室でレイと二人でテレビゲームをしている時、徐に話を切り出すと、レイは眉間に皺を寄せた。
『マックスは行かないの?』
『俺はいいから.三人で行ってこい』
『なんでマックスだけ行かないんだよ』
その質問を待っていたと、マックスは笑みを浮かべて右手でレイの髪の毛をくしゃくしゃにする。
『お前昨日言ってたじゃないか。自分よりパパとママの傍にいられて俺が羨ましいって』
『それは……あの時たまたま落ち込んでただけだよ』
『お前の顔はそうは言ってないけどな』
したり顔のマックスから、罰が悪そうに目を放すレイ。
『とにかく、今日は三人で楽しんでこいよ。俺は俺で攻略中のゲームを進めたいからさ』
『でも……』
『父さんと母さんがいると、一時間以上ゲームできないだろ?お前が引きつけておいてくれよ。頼む』
それらしい理由を付けると、レイは疑うことなくマックスの提案を受け入れた。
『わかった。父さんと母さんに話してくるよ』
レイは手にしているコントローラーを床の上に置き、目を輝かせて部屋を飛び出していった。マックスは一人部屋に残り、寂しそうにSNESの電源をオフにした。
満足のため息を吐き、SNESに差さっているカセットを抜こうとした時、遠ざかっていたレイの足音が近付いてくるのが聞こえた。何事かと部屋の入口に目を向けるマックスに、Uターンしてきたレイが言った。
『ありがとう』
その後、日の暮れた午後六時に両親と家を出る時も、レイはマックスに礼を言った。
『ありがとう、マックス。行ってくるよ』
『あぁ。すぐに帰ってくるなよ』
それがレイと交わした最後の会話だった。マックスは勿論冗談のつもりで、笑いながら『帰ってくるな』と言ったのだが、レイは本当に帰ってこなかった。
あの時、映画館に行くよう言わなければ、レイは死ななかった。
レイはマックスに促されて映画館に足を運んだ後、事故にあった。レイは映画を見た後、マックスへのおみやげを探し求めている時に事故にあった。
父親のランバートは一度だけではあるが、レイが事故にあったのはマックスの所為だと彼を責めた。マックスはその時初めてレイが映画館の帰り、自分の為におみやげを探して寄り道していたことを知った。それ以来、マックスはずっとレイが死んだのは自分の所為だと自責の念に駆られていた。だからこそ、両親とは違い、少年ではなくレイに執着した。だからこそ、少年にレイの死を侮辱された気がした。しかし……。
少年なくして自分は現在までレイの姿、声、仕種を鮮明に覚えていられただろうか?アルバムを見ながらマックスは自問し、すぐに結論を出した。答えはノーだ。日に日に弟の記憶は薄れていた。少年なくして記憶の復元は成し得なかった。そう気付いた時、マックスは少年を追い出したことを悔いた。そればかりか、彼を愛おしく思った。しかし、時は既に遅かった。
おそらく彼はもうこの家には戻ってこない。残された道に、真実を告げる以外の選択肢はなかった。
マックスはアルバムを棚の上に戻すと、いよいよ覚悟を決めて、リビングへと向かった。
両親はテーブルの上にケーキの入った白い箱と皿を並べ、イスに座って少年の帰りを待っていた。マックスを認めるや否や、ランバートは彼に『レイを見なかったか』と訊ねた。マックスは寂しそうに『見てないよ』と答えてランバートの対面に座った。宴の片付けを手伝っても、父親から感謝の言葉はなかった。母親のほうはどうかと見てみるも、こちらはケーキの入った白い箱に熱い視線を送ってそわそわしているだけだ。
レイがいなくなってから、両親の関心は彼のことで一杯になった。世を去ったレイの話はしても、生きているマックスのことはそっちのけにすることが多かった。少年が来てからも、状況は大して変わらなかった。
もしかしたら、俺は彼に嫉妬していたのかもしれない。
少年を追い出した時のやりとりを思い返していると、不意にレイチェルが言った。
「さすがに遅すぎるんじゃないの?」
壁にかかったアナログ時計を不安そうに見つめるレイチェルにつられて、マックスも時計に視線を移す。
時刻は午後五時七分。レイは外出した時は必ず午後五時五分までには帰宅していた。少年が定時までに帰ってこない為、レイチェルは痺れを切らしたようだ。『ちょっと外を見てくる』と言って席を立ち、玄関へと向かおうとする。それをランバートは落ち着いて制止した。
「まぁ、待て。今はどこかで雨宿りしているだけだろう。レイはもうじき帰ってくるさ」
子どもを諭すようにランバートはレイチェルの肩に手を置き、ゆっくりと彼女を座らせる。レイチェルは席に着くと、双眸から不安の色は薄くなり、多少落ち着きを取り戻した。マックスの目には、二人の精神状態が少なくとも悪いようには見えなかった。
少年のことを切り出すなら、ちょうどレイの話が出た今かもしれない。そう考えてマックスは、思い切って両親に話を切り出した。
「父さん、母さん、大事な話があるんだ。落ち着いて聞いてほしい」
決意を秘めたマックスの真剣な双眸を見て、両親は不思議そうに彼を見つめる。
「どうしたんだ、急に……」
「何かあったの?」
きょとんとしている両親からマックスは目を逸らして俯いた。これから二人の笑顔を奪うことになると考えると、目を合わせてはいられなかった。
真実を話す必要はないのではないか。
心の中には迷いがあった。しかし、いつまでも黙っている訳にはいかなかった。どの道いつかは話さなければならないことだ。マックスはゆっくりと深呼吸すると、できる限り堂々と言葉を紡いでいった。
「話はレイ……いや、彼のことだ。彼は三日前に家の前に現れた。雨に濡れて体を震わせながら、玄関口にうずくまっていた。彼はレイと瓜二つだった。レイのように笑い、レイのように怒り、レイのように泣いた。信じられないことに、彼はレイそのものだった。でも父さん、母さん。死人は決して生き返ったりなんかしないんだよ。彼はレイじゃない。レイは死んだんだ。現実から目を背けていたら、いつまでも前に進めない。だから、彼は俺が追い出した。彼はもうこの家には戻ってこない。でも、悲しむことなんてない。彼はレイじゃないんだから。レイがまたいなくなった訳じゃないんだから」
話し終えてマックスは両親の顔を盗み見た。
レイチェルはマックスの話を聞いて、言葉を失っていた。彼女の双眸は中空を見つめ、口はだらしなく開いている。一方、ランバートは腕を組んだまま顔を顰めていた。レイチェルとは違い、彼の双眸はしっかりとマックスを捉えていて、口は固く閉じている。
話したところで真に受けてはくれない。そんなマックスの予想に反して、二人は彼の話に聴き入っていた。
話し終えた今、二人が何を思っているのか、マックスにはわからない。
厭な静寂が場を支配していた。
ここは二人だけにするべきだろうか。マックスが悩んでいると、唐突にランバートが怒りの形相で勢いよく立ち上がった。
「不謹慎だぞ、マックス!なんてことを言うんだ!」
まるでレイの仇を前にしたかのように、素早くランバートはマックスのほうへと腕を伸ばし、テーブル越しに彼の胸倉を掴もうとする。が、寸前のところでレイチェルがランバートにしがみつき、鈍った彼の手はマックスの目の前で宙を掴んだ。
ここにいたら殺される……。
マックスはイスに座ったまま一歩後じさり、レイチェルへと目を向ける。彼女は双眸に涙を浮かべながら必死にランバートを抑えようとしていた。
「お願いだから落ち着いて!マックスだって悪気があって言った訳じゃないわ」
「邪魔するなレイチェル!こいつはレイを……私たちのレイを死んだと言ったんだぞ!」
マックスは戦慄した。父親からは殺意が感じられた。彼の双眸は憎しみに溢れ、息子を見る目ではなくなっていた。
マックスは自分を無力だと思った。レイを失った後、両親を支えることもできず、少年への依存から二人を解放することもできそうにないと思った。
両親が怖かった。ここから逃げ出したかった。しかし、体が動かなかった。マックスの心の中で、固い決意が恐怖心に押し潰されまいと必死に抵抗していた。マックスは目を閉じて、恐怖に打ち勝とうとする自身の勇気を鼓舞した。
ここで圧される訳にはいかない。両親は必ず説得する。レイの為に……。
恐怖心は次第に薄れていった。マックスは冷静さを取り戻すと、改めてランバートに鋭い視線を返した。
「父さん、彼はレイじゃないんだ。どういう訳かレイにそっくりだったけど、彼はレイじゃない。レイはもうこの世にはいないんだよ」
マックスが繰り返しレイの死を告げるのを、レイチェルは黙って聞いていた。ランバートは初めこそ怒り狂い、マックスを捕らえるべく暴れていたが、やがて彼は力なくその場で崩れ落ち、子どものようにわんわん泣き始めた。
「レイは生きている……。死んでなんかいない。レイは必ず帰ってくる。私の家に。私の息子なのだから」
マックスはゆっくりと立ち上がり、泣きじゃくる父親に優しく諭すように言った。
「いや、レイは帰ってこないよ。死人は生き返ったりなんかしないんだから。現実から目を背けてはいけないよ。俺たちはまだ、生きているんだから」
ランバートはマックスの言葉には応えず、『レイは帰ってくる』と呪文のようにひたすら呟きながら泣き続けた。レイチェルも彼に抱きついたまま泣いていた。
マックスも悲しかった。目には涙が浮かんでいた。しかし、それを流すことは躊躇われた。
自分だけは気をしっかり持たなくては。自分が両親を支えなくては。
強い覚悟とは別に、不安や恐れもあった。
自分だけで本当に両親を支えられるのだろうか。彼を追い出したのは正解だったのだろうか。
不意に少年のことが頭に浮かび、マックスは考えるのを止めた。今は立ち止まっている時ではない。
マックスは迷いを断ち切ると、静かに両親の元へと歩み寄り、膝をついてそっと二人を抱きしめた。
二人は体を小さくして泣いていた。マックスはつられて泣きそうになった。レイを失って悲しいのは彼も同じだった。
レイが生きていれば。レイがここにいれば。二人を笑わせることができるのに……。
負の感情から逃れる為に、抱きしめる力を強めた時、遠慮勝ちに玄関を叩く音が聞こえてきた。
トントントン……。
こんな時に一体誰だ。
マックスは無視を決め込もうとした。両親も招かれざる来客など無視すると思った。が、世間体を気にしてか、レイチェルがゆっくりと顔を上げて彼に言った。
「マックス、悪いけど出てくれる?」
目が赤く腫れた母親に頼まれ、仕方なく両親から手を放し、玄関へと向かう。リビングを出る際、ランバートが『レイが帰ってきたんだ!』と掠れた声で叫ぶのが聞こえた。
マックスは少年が帰ってくる訳がないと思いながらも、奥底では彼の帰りを期待していた。
不思議なことに.レイは家で喧嘩が起こると、例えその時自分が家にいなくとも、いつもどこからか駆けつけてきて家族の仲裁に入った。
彼がレイであるならば、玄関口にいるのは彼だろう。
マックスは淡い期待を胸に玄関を開いた。
玄関口には雨に濡れて体を震わせる、一人の子どもが佇んでいた。ピンクのワンピース姿のびしょ濡れの子どもは、親に叱られたかのように肩を落として俯いているので、顔は確認できない。が、格好からして少女だろうとマックスは判断した。
「何かあったの?」
がっかりしたことを悟られないよう.努めて優しく声をかける。すると、子どもはゆっくりと顔を上げて、罰が悪そうに言った。
「また追い出すの?」
子どもの声と顔はレイそのものだった。
マックスは子どもが彼だと気付いた瞬間、力一杯彼を抱きしめた。
「レイ、俺が悪かった!もうどこにも行かないでくれ」
堪え切れなくなり、マックスの双眸からは大粒の涙が零れた。外で降りしきる雨にも負けない勢いで彼は涙を流し続けた。
「ごめんなレイ。ごめんな……」
少し前に泣き崩れたランバートよりも騒がしく泣きじゃくるマックスを見て、少年は邪気のない笑みを浮かべた。
「マックス、僕はマックスに気を遣って戻って来たんだよ。だからそこは『ごめん』じゃなくて『ありがとう』だろ」
少年の指摘にはっとして、マックスは彼から手を放し、手の甲で涙を拭ってから礼を言った。
「ありがとう、レイ……」
少年は得意気に笑いながら手を掲げる。マックスは泣きながら笑い、力強く彼とハイタッチを交わした。それから再び少年を抱きしめて咽び泣いた。少年はマックスに抱きしめられて恥ずかしそうに笑った。
気が鎮まるまで少年を抱きしめてから、マックスは抱擁を解いた。
少年は長々と泣いていたマックスを冷やかしたが、彼がそれを不快に感じることはなかった。マックスの心は少年からの冷やかしにすら飢えていた。
「そろそろ行くか」
落ち着きを取り戻すと、マックスは少年の手を取り、敷居を跨いだ。
「お腹ぺこぺこだよ。マックスが待たせるから」
二人は仲良く並んで両親が待つリビングへと歩を進める。今となってはマックスの中に少年を追い出そうとする気は微塵もなかった。
少年はいつの間にか、マックスにとってもかけがえのない存在となっていた。




