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 死人が生き返ることなんてない。そのことは子どもでなければ誰でも知っているとマックスは考えていた。

 彼の弟は五年前、交通事故にあった。映画館からの帰り道だった。両親から少し離れて歩いていたレイだけが、歩道に突っ込んできた自動車と衝突した。弟の魂はその時、薬物乱用者による無慈悲な運転の犠牲となり、この世から失われた。

 マックスは事故が起きた時、家族の中では唯一レイの傍にはいなかった。とはいえ、レイの死は認知していた。時には弟の墓の前で、時には教会で、認めたくなくとも、マックスは弟の訃報を嫌というほど聞かされてきた。

 レイにはもう会えない。

 あまりにも唐突に訪れた弟との別れ。マックスはずっとレイの最期に立ち会えなかったことを後悔していた。しかし、傍にいなかったからこそ、弟との別れを受け入れることができたのかもしれない。傍にいなかったからこそ.少年がレイではないことに勘付くことができたのかもしれない。

 グレンと別れた後、マックスは心の中に粘つく黒い塊を残したまま、自宅へと戻った。家には両親の姿はなかった。庭に屋外用の折り畳みテーブルとイスが放置されているのを見るに、二人はまだ祖父母の見送りから帰ってきていないようだ。

 マックスはチャンスだと思った。

 両親の前で少年の正体を訊ねるのは、二人からレイを奪うような心持がして気が退けたが、二人がいなければ遠慮なく少年に正体を訊ねることができる。

 マックスは改めて両親が帰宅していないことを確認してから、平生を装って、少年がいるであろうレイの自室へと向かう。グレンと別れた時とは違い、気分は高揚していた。

 彼は一体何者なのか。レイと姿が似た少年なのか。悪魔が化けているのか。それとも……。

 階段を上りきり、二階にあるレイの自室に近付くにつれて、心臓の鼓動が高鳴っていく。

 今ある平穏な幸せを壊してでも、少年に正体を訊ねる必要があるのか。マックスの中に迷いがない訳ではなかった。しかし、少年がレイでないと気付いた以上、マックスにはその事実に目を背けることはできなかった。目を背けることはレイに対する侮辱のように思われた。だからこそ、マックスは少年に正体を訊ねる決意を固めたのだ。自分たちの幸せを手放す覚悟を持って。レイを大事に思うが故に。

 マックスは寝込みを襲いに来た犯罪者のように静かに音を殺して廊下を歩き、レイの自室の前で立ち止まる。

 部屋の扉は開いたままだった。首を伸ばして室内を覗き込むと、ベッドの上で仰向けに寝ている少年の姿が目に入った。

 少年の寝顔は子ども特有の、見るだけで癒される安らかな顔をしていた。

 彼の顔はレイと重なるものがあった。いつ見ても、どこから見ても、彼の容姿はレイそのものだった。

 レイ……。

 少年に弟の面影を見出すと、マックスは罪悪感に襲われた。彼を責めることは弟を責めるのと同じように思われた。

 レイは俺に責められたら悲しむだろう。弟の姿をした彼にしてもきっと同じだ。どこで生まれたのか。どこから来たのか。知る由もないが、雨の中、たった一人でここまで来たのだ。そんな彼を、俺は責めることができるのか?追い出すことができるのか?

 どうすることが正しいのか分からなくなり、マックスは歩き疲れた迷子のように力なく少年の横に腰掛けた。

 少年の横顔を見ていると、普段思い起こさないようにしている記憶が不思議と脳裏に浮かんだ。

 レイが事故にあった日、ランバート一家はマックスを除く三人で、隣町の映画館へと足を運んでいた。当時、その映画館では午後七時から閉館までの上映に限り、チケット代が二割引きになるキャンペーンを行っていた。三人は選んで午後七時からの上映を見に行っていたので、映画を観終わり、帰る頃には午後九時を回っていた。ランバートとレイチェルは、日頃から九時には寝るようマックスとレイを躾けていたこともあり、映画館を出た後は真っ直ぐ家に帰ろうとした。しかし、そこでレイが抗議の声を上げた。一人だけ映画を見られなかったマックスがかわいそうだよ、と。チケット代が安くなった分で、おみやげを買っていこうと言い出したのだ。ランバートとレイチェルは兄を気遣うレイの姿を見て、『なんて心の優しい子なのだろう』と感銘を受けた。二人がレイの提案を断る理由はどこにもなかった。

 その後、三人はマックスへのおみやげを求めて、街の雑貨屋を渡り歩いた。レイは忙しなく、視界に入ってくる店を品定めしながら。ランバートとレイチェルはレイの成長を感じながら、頬を緩ませゆっくりと。

 次第にレイと両親の距離は広くなっていた。しかし、幸せな気持に包まれたランバートとレイチェルには、そのことに注意を払っていなかった。そして、前方で店内から一際明るい白光が漏れる家電量販店へとレイが走り出した時、彼との別れは唐突に訪れた。

 レイが事故にあったのはお前の所為だ。自宅付近の教会で、レイの葬儀を行った際、彼の遺体が納められた棺桶を前に、ランバートはマックスにそう言った。レイの事故直後、ランバートとレイチェルは互いに息子の死の責任を相手に擦り付けていた。そんな父親に、突然責を押し付けられ、マックスはきょとんとしてランバートを見つめた。すると、ランバートは激しい怒りを抑えるかのように両の拳を握り、体を震わせながら事故に遭う直前のレイの行動を語った。

 マックスはその時初めてレイが事故に遭った日、自分の為におみやげを探し求めていたことを知った。

 それから彼は自分の所為で弟が死んだのだと自らの行動を責めるようになった。ランバートがレイの事故に関して、マックスを責めたのは一度限りのことだ。それでもマックスは自分を責め続けた。責める理由が彼にはあった。

「やめて……」

 唐突に、助けを求めるかのような少年の悲痛な声が聞こえてきて、マックスの意識は現実世界へと戻った。

 レイ?

 弟の幻を求めて、声がした横を見ると、いつの間にか少年の寝顔に苦悶の表情が浮かんでいることに気付いた。

「やめて。お願いだからかけないで……」

 少年は着ているシャツを汗でびっしょり濡らし、寝言を口にしていた。

 かけないでかけないで。少年は懇願するように何度も、そう繰り返していた。

 かけないでとは何を指しているのか。ただならぬ表情からして単に暑いから蒲団を『かけないで』と頼んでいる訳ではなさそうだった。

 彼は何に怯えているのだろう。

 やがてマックスはいつまでも続く少年の悲痛な叫びに堪えられなくなり、彼を勇気付けるつもりで彼の小さな右手を優しく握った。握ると言うにはあまりにも弱々しかったが、少年はそれで目が覚めた。

「マックス?どうしたの?」

 一瞬体をびくっと震わせて、少年はつと上体を起こす。眠そうに手で目を擦る彼の姿は、記憶の中のレイと合致する。少年を見ていると、レイではないと解っていても、彼に対しても情が湧きそうな気がした。

 どうやら他人の家庭に入り込むのは彼の特技のようだ。このままでは相手に呑まれかねない。

 マックスは急に恐ろしくなって、少年から手を放し、目を逸らした。

「いや……お前がうなされていたから、手を握ってやったんだ。悪かったな、起こしてしまって」

 マックスは大して悪びれる様子もなく謝ったが、少年の表情に目立った変化はない。

「ううん、別に気にしてないよ。ただ……」

 そう言って少年は神妙な顔つきで首を傾げる。

「何にうなされていたのか覚えてない。思い出せない」

 つい先程まで『かけないで』と呻いていたにもかかわらず、少年は見ていた夢の内容を覚えていないようだった。

 マックスは無理に少年の寝言の意味を訊き出そうとは思わなかった。彼の振る舞いが気にかからなかった訳ではないが、弟の姿をした少年を尋問するような真似はできなかった。

「嫌なことなんて、思い出さなくていいんだよ。そんなこと、早く忘れてしまえ」

 マックスは―自分に言い聞かせるかのように―微笑を浮かべて少年に言った。

 少年はマックスの笑みを目にすると、安心したのか、彼に微笑み返して横になった。

「僕、変なこと言ってなかった?」

 少年の問にマックスは思い当たる節があった。しかし、彼に余計な不安を与えない為に、咄嗟に嘘をついた。

「いや、何も。お前はただ苦しそうにしていただけだよ」

 マックスの言葉に、少年の顔は僅かにほころんだ。

「そっか」

 しばらく沈黙が続いた。二人が喋らないと、室内は壁にかかったアナログ時計の秒針が動く音で満たされた。家の外は珍しく静寂が支配していた。いつもなら屋内にいても聞こえてくる、国道を往来する車のエンジン音も、今日はここまで届いてこない。

 この静けさは、神からレイへの贈り物なのだろうか。そう考えて、マックスはすぐに心の中で否定した。

 いや、そんな筈はない。そもそも彼はレイではない。

 マックスは少年へと虚ろな視線を向けた。天井を見つめていた彼の目は、いつの間にか閉じていた。

 屋内は相変わらず秒針の音だけが響いている。両親が帰ってきた様子はまだない。二人はレイの一件があってから、車の利用を一切避けていた。その習慣は少年が家に来てからも同じで、祖父母の見送りは歩きで行っていた。祖父母宅はここから駅までの道のりの倍近くある。故に、二人が家に戻って来るのはまだ先のことだ。しかし、いつまでもぐずぐずしている訳にはいかない。誰にも邪魔されずに少年の正体を訊ねるチャンスは今しかなかった。今を逃したら、二度と訊けないような気がした。それでもマックスは再び躊躇していた。

 彼がこの家からいなくなったら、両親はまた喧嘩ばかりするようになるのだろう。泣いてばかりで、笑うこともなく、ただただ悲しみに暮れて過ごすことになるのだろう。そうまでして、彼の正体を暴く必要があるのか?彼のことを追い出す必要があるのか?

 マックスは中々答えが出せなかった。しかし、不意に外から自動車のエンジン音が聞こえてくると、彼の中で迷いは霧散した。

 駄目だ。このままでは絶対に駄目だ。彼に頼っていてはいつまでも両親は前に進めない。

 いよいよ、マックスは固い決意を胸に、弟の名前を呼んだ。

「レイ、起きてるか?」

 少年は名前で呼ばれると、ゆっくりと双眸を開き、マックスの背中を眠そうに見つめた。

「どうしたの、マックス」

 こちらを信用しきっている少年と目が合いそうになり、マックスは彼から慌てて目を逸らした。レイが傷付く姿は見たくなかった。

「お前に訊きたいことがあるんだ。レイ、お前は本当は、レイではないんだろ?」

 マックスが訊ねたと同時に、少年は拳を握り、顔に警戒心を露呈させた。

「何を言ってるの?」

 少年が発するのは存在を消される恐怖に怯えるレイの声。思わず怯みそうになるマックス。しかし、もう後には退けないという思いが彼を突き動かした。

「気付いていたんだ。初めって会った日から、お前がレイではないんだって。死人は決して生き返ったりなんかしないからな。お前が俺の作り出した幻ではないと気付いた時点で、お前がレイではないってことにも気付いた」

 マックスの言葉に少年は明らかに狼狽した。少年の振る舞いは、マックスの考えが正しいことを認めているようなものだった。それでも彼はレイで在り続けた。レイで在ろうとした。

「僕はレイだよ!マックスは弟の顔も忘れてしまったの?」

 マックスは改めて少年の顔へと視線を移した。

「忘れてなんかない。ちゃんと覚えてる。覚えてるからこそ、お前が困った時の仕種が、微妙にレイのものとは違うってことがわかる」

 少年は諦めたかのように頭を垂れると、体を小刻みに震わせ始めた。

「それなら僕だって気付いていたよ。マックスが僕の正体に勘付いていることに。でも僕はマックスの弟で在り続けた。君の両親を励まし続けた。それなのに……それなのに、どうして僕を受け入れてくれないの?」

「それは……」

 マックスは凛として少年に言葉を返した。

「お前が弟ではないからだ」

 マックスの答えを聞いた少年は、両手に力を込めて、悔しそうに歯を食いしばると、風のように素早くレイの自室を飛び出していった。

 それから少しして、玄関の扉が開き、閉まる音がした。少年はマックスの思惑通り、家を出て行ったようだ。

 マックスは大きなため息をついた。企みの成功を確信したにもかかわらず、気分が晴れなかった。

 これでよかったんだよな?

 疑問を抱えたまま、マックスは目を閉じた。

 少年のいないレイの部屋は、いつもより広く感じられた。

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