第1話 家庭教師、来る
「真昼ぅ、購買行ってこいよ。焼きそばパンな」
「あ……うん」
断れなかった。今日もまた、断れなかった。
僕、真昼ケイの一日は、だいたい誰かの「ついで」でできている。ノートを貸すついで。掃除当番を代わるついで。昼休みに購買へ走るついで。
クラスの連中は僕のことを「便利なやつ」と呼ぶ。本人に聞こえる声で言うのだから、たぶん悪口ですらないんだと思う。空気とか、備品とか、そういう扱いだ。
購買の列に並びながら、僕は窓の外を見た。
グラウンドでは体育の授業。サッカーボールを追いかける同級生たちは、当たり前みたいに笑っている。ああいうふうに、誰かの輪の真ん中で笑える人間と、僕みたいな人間は、生まれた時から別の生き物なんだろう。
――別に、いいけど。
いいわけがないことを「いい」と思い込むのは、僕の一番の得意技だった。
焼きそばパンは最後の一個だった。僕の後ろに並んでいた一年生が、あからさまにがっかりした顔をする。
「……これ、どうぞ」
「え、いいんすか!?」
いいんですか、じゃないんだよなあ、と自分でも思う。これで僕は、購買にもう一度並び直して、鈴木くんには「遅い」と文句を言われて、自分の昼飯を食べる時間はほとんど残らない。
わかってるのに、譲ってしまう。
断れない。見捨てられない。頼まれると、相手の顔が先に見えてしまう。
母さんはそれを「ケイの優しさ」と呼ぶけれど、僕は知っている。これはただの弱さだ。優しさっていうのは、強い人が選んでやるものだ。僕のは選んでない。ただ流されているだけ。
――僕の人生は、たぶんこのまま、誰かの「ついで」で終わっていく。
この日の放課後までは、本気でそう思っていた。
◇
「ただいまー……」
家に帰り着いたのは夕方の六時過ぎだった。鈴木くんの塾のカバンを駅まで運ぶ「ついで」があったからだ。
玄関のドアを開けて、僕は固まった。
……誰かいる。
うちの玄関の上がり框に、知らない男が座っていた。
黒いパーカーのフードを半分かぶって、長い足を投げ出して、壁に背中を預けている。年は二十代半ばくらいだろうか。ひどく整った顔をしているのに、目つきだけが猛烈にだるそうだった。
そして男は、プリンを食べていた。
うちの冷蔵庫に入っていた、僕が楽しみに取っておいた、三個パックの最後の一個のプリンを。
「…………え、あの」
「ん」
男はスプーンをくわえたまま、視線だけをこちらに寄越した。
「遅かったな、坊ちゃん」
「ぼ、坊ちゃん……?」
「六時十二分。予定より四十分の遅刻だ。初日からいい度胸してんな」
何を言われているのか、まるでわからなかった。
わからないなりに、僕の口から出たのは我ながら情けない一言だった。
「あの……それ、僕のプリン……」
「うまかった」
「食べ終わってる!?」
男は空になった容器を無造作に置くと、ゆらりと立ち上がった。
――大きい。
玄関の照明を背にして、その男は僕を見下ろした。だるそうな目の奥に、一瞬だけ、氷みたいに冷たい光が走る。
背筋が、勝手に震えた。
理屈じゃなかった。校庭の隅で野良犬に吠えられた時とも、鈴木くんに凄まれた時とも、まるで違う。この人は――この人の前では、「断る」とか「断らない」とか、そういう次元の話が一切通用しない。本能がそう告げていた。
「か、母さん! 知らない人が家に――」
「あら、おかえりケイ」
台所からひょっこり顔を出した母さんは、エプロンで手を拭きながら、信じられないことを言った。
「その方、今日から来てくださる家庭教師の先生よ。聞いてなかった?」
「聞いてないよ!? うち、家庭教師なんて頼んでな――」
「はい、これ先生の分のお茶ね。ケイ、ちゃんとご挨拶なさい」
母さんはにこにこと湯呑みを男に手渡すと、鼻歌まじりに台所へ戻っていった。まるで、ずっと前からこの日が来るとわかっていたみたいに。
……なんだ? なんなんだ、これは。
取り残された僕の前で、男は湯呑みを片手に、面倒くさそうに頭を掻いた。
「ヴィムだ。好きに呼べ」
「ヴィム、さん……えっと、その、何の教科の先生ですか。数学? 英語?」
「あー……そうだな」
男――ヴィムは、少し考えるように天井を仰いでから、こともなげに言った。
「殺されない方法と、殺す方法。あとは全部おまけだ」
「…………はい?」
「言っとくが冗談じゃねえぞ。ああそれと、報酬はこの家のプリンで手を打ってやってる。破格だぞ、感謝しろ」
「……プリン、ですか」
「向こうには、これがないんでな」
ヴィムは空になった容器へちらりと目をやって、ほんの一瞬だけ、遠い目をした。むこう、ってどこだ。
ころされないほうほう。ころすほうほう。ぷりん。
単語のひとつひとつは知っているのに、文章になると意味がわからない。頭のいかれた人だろうか。でも母さんは普通に通してるし、というか母さんも大概おかしいし、あれ、僕の常識のほうがおかしいのか?
混乱の極みにいる僕に向かって、ヴィムは湯呑みの茶を一息で干すと、初めてまともにこちらを見た。
だるそうな目が、すっと細められる。
「真昼ケイ。十五歳。断れない、逆らえない、いじめられっ子」
「うっ……」
「――魔界十三家が一つ、真昼家の、唯一の跡継ぎ」
「……………………は?」
「今日からお前を、一人前の当主にする。俺が、命懸けでな」
ヴィムはにやりと笑って、空のプリン容器を指で弾いた。
「歓迎するぜ、坊ちゃん。地獄の家庭教師の時間だ」




