クセ強さん
その人は、突然現れた。
---
「この課、線形代数の扱いが雑すぎません?」
---
(初手それ!?)
---
午前10時12分。
週次ミーティング開始から、まだ7分。
発言者は見慣れない顔だった。
---
「えっと……今日から配属の、三浦です」
---
遅い。
自己紹介が、遅い。
---
(順番逆なんだ……)
---
資料をめくる音が止まる。
課長が一瞬だけ固まって、すぐに立て直した。
「……ああ、三浦くんね。よろしく。で、線形代数がどうしたって?」
---
三浦さんは、ためらいなくホワイトボードに向かった。
そして——
---
キュッ、キュッ、キュッ。
---
書き始めたのは、行列だった。
---
(始まった……)
---
「このモデル、暗に可換性を仮定してますよね」
「いや、そこは近似で——」
「近似で済ませるなら、なぜこの基底を選んだんですか?」
---
(強い)
---
「この基底だと、固有値の解釈が歪みます」
「歪むっていうか、物理的には問題ない範囲で——」
「“問題ない”の定義を先にください」
---
(出た、定義要求型)
---
この人は、分類するなら明らかにこれだ。
定義原理主義 × 数学先行型インテリ
---
しかも厄介なことに、
---
(全部、正しそう……)
---
空気がじわじわ張り詰めていく。
---
「……じゃあ三浦くんの言う通りにやると、どうなるの?」
---
課長がボールを投げる。
三浦さんは、少しだけ首を傾げた。
---
「きれいになります」
---
(きれいになります!?)
---
「少なくとも、解釈の曖昧さは消えます」
---
その言い方はずるい。
“正しい”ではなく、“きれい”。
インテリにとって、それはほぼ同義である。
---
議論が始まる。
---
「でもそれだと計算量が爆発しない?」
「しません。分解の順番を変えれば抑えられます」
「その分解、数値的に安定なの?」
「安定です。証明できます」
---
(証明できます、出た……)
---
私はそっとメモを取る。
---
> ・“きれいになります” → 美学ワード
> ・証明できます → 攻撃開始の合図
> ・計算量 vs 美しさの対立
---
議論は30分続いた。
誰も引かない。
でも、誰も完全には否定できない。
---
(この人、ずっとこのテンションでいくの……?)
---
そして、会議の終盤。
---
「……で、三浦くんは最終的に何がしたいの?」
---
課長の一言。
それまでの議論が、すっと収束する。
---
三浦さんは、少しだけ考えてから答えた。
---
「正しい形にしたいです」
---
(ああ……)
---
私はその瞬間、理解した。
---
(この人、“勝ちたい”んじゃない)
(“整えたい”んだ)
---
議論を制することでも、実用に寄せることでもない。
ただ、世界の記述を美しくしたい。
---
昼休み。
私は食堂でうどんをすすりながら、さっきのことを思い返す。
---
(ああいうタイプ、初めて見た……)
---
隣の席の先輩が笑った。
「三浦くんね、前の部署でもあんな感じだったらしいよ」
「やっぱりですか」
「“全部ちゃんと定義しないと気が済まない病”」
---
(病なんだ……)
---
午後。
三浦さんは、一人でホワイトボードの前に立っていた。
午前中の式を、消しては書き直している。
---
(まだやってる……)
---
近くを通ると、小さくつぶやく声が聞こえた。
---
「……この項、やっぱり要らないな」
---
(削ってる!?)
---
増やすんじゃない。
削っている。
---
(完成に向かってるんじゃなくて、“純化”してる……)
---
私は思わず立ち止まった。
---
「……あの、さっきの式、変えるんですか?」
---
三浦さんは少し驚いた顔をした。
---
「……はい。さっきのだと、まだ余計な自由度があるので」
---
「余計な自由度……」
---
「本質じゃない部分は、なるべく消したいんです」
---
(わかる気がする……)
---
その瞬間、ほんの少しだけ、理解できた気がした。
---
この人にとっての“研究”は、
何かを足すことじゃない。
---
削って、削って、最後に残る形を見つけること。
---
夕方。
ホワイトボードには、午前中よりずっとシンプルな式が残っていた。
---
(ほんとに、きれいになってる……)
---
私は日報を書く。
---
業務内容:
・会議室調整
・備品管理
・クセ強インテリ観察(高純度)
所感:
・新種のインテリ(三浦さん)を観測
・「きれいになります」は強い
・定義と美しさに対する執着を確認
・このタイプは議論を“勝敗”で見ていない
・世界を整えようとしている
---
ペンを置く。
---
この職場には、いろんなインテリがいる。
勝ちたい人。
証明したい人。
実用に落としたい人。
---
そして今日、新しく知った。
---
ただ、きれいにしたい人もいる。
---
ご飯も好きだけど。
やっぱり私は、
クセ強インテリ観察が一番好き。




