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はじまり

この作品には、すごい発明も、世界を救う英雄も出てきません。


出てくるのは、研究所で延々と口論しているインテリたちと、

それを眺めている課内総務の新人だけです。


でもたぶん、

ちょっとだけ面白いです。


 配属初日、私は確信した。


 ここは夢の国だ、と。


 ただし、キャストは、お姫様でも王子様でもない。

 インテリである。


---


 私の配属先は、某大手メーカーの中央研究所・第一開発部・機能材料課・課内総務。


 研究者でも技術者でもない。

 コピー機のトナーを替え、出張精算を通し、会議室を予約する。

 いわば“観察者”としては、最高のポジションだった。


 なにせ、彼らは放っておくと勝手に議論を始める。


---


「だからその前提がナイーブすぎるって言ってるんですよ」


「ナイーブなのはそっちでしょ。実験事実を軽視して理論に逃げてる」


「逃げてるのはあなたの解釈です」


「いや論文読んでます?」


「読んでますよ。あなたよりは」


---


 午前9時47分。

 まだコーヒーも飲みきっていない時間帯である。


 私はそっとExcelを閉じ、観察モードに入る。


(来た……今日の第一ラウンド)


---


 この課には、大きく分けて三種類のインテリがいる。


1. 理論原理主義者(数式がすべて)

2. 実験至上主義者(データが神)

3. 調停者を装う火付け役(議論を“整理”しながら燃やす)


 そして重要なのは、誰も自分が論争していると思っていないことだ。


---


「いや、だからその近似は有効範囲が狭いんですって」


「その“狭い”の定義をまず出してくださいよ」


「一般的には十分広いでしょう」


「一般的って何ですか?」


「あなたの言う“厳密”のほうが現実離れしてる」


「現実に合わせて理論を歪めるのは本末転倒では?」


---


(ああ〜〜いい……)


 思わずメモ帳に書き留める。


> ・“一般的って何ですか?” → 本日の名言候補

> ・定義を巡る攻防、発生


---


 隣の席の先輩(総務歴10年)は、小声で言った。


「ね、気にしないでいいからね。いつものことだから」


「はい、大丈夫です」


 むしろ逆である。

 私は気にしたくて仕方がない。


---


 昼休み。


 私は食堂でカレーを食べながら、さっきの議論を思い返す。


(あの人、途中で“エントロピー”って言いかけたよね……飲み込んだけど……)


 こういう“言いかけてやめた専門用語”がたまらない。

 インテリは、常に語彙の刃を抜くかどうかの瀬戸際にいる。


---


 午後。


 会議室の予約をしに行くと、すでに別の戦場が形成されていた。


---


「そのモデル、パラメータ多すぎません?」


「少なすぎて説明できないよりマシでしょう」


「説明できてる“気になってる”だけでは?」


「それ言い出したら全部そうですよ」


「じゃあなおさら単純なモデルでいいじゃないですか」


「単純すぎて間違うくらいなら複雑で近い方がいい」


---


(タイプ違いの衝突だ……!)


 これは

単純性 vs 再現性

のクラシック対決である。


 私は会議室の鍵を渡しながら、内心で拍手していた。


---


 夕方、議論はなぜか和やかに終わる。


「まあ、一回データ取り直しましょうか」


「そうですね、その方が早いかもしれない」


「コーヒー飲みます?」


「いただきます」


---


(なんで仲いいの……?)


 ここに来て一番の謎はそれだった。


 あれだけ刺し合っていたのに、普通に並んで自販機に向かっていく。


---


 先輩がぽつりと教えてくれた。


「研究者ってね、“人”じゃなくて“仮説”に怒ってるのよ」


---


 その瞬間、すべてが腑に落ちた。


 彼らは戦っているのではない。

 より正しい世界像を奪い合っているだけなのだ。


---


 その日の日報に、私はこう書いた。


---


業務内容:

・会議室予約

・出張精算処理

・コピー用紙補充

・インテリ観察(高頻度)


所感:

・本日もインテリは元気に口論していた

・定義の重要性を学んだ

・“一般的とは何か”について引き続き考察したい


---


 帰り道、私は思う。


 ご飯も好きだけど。


 やっぱり私は、


 三度の飯よりインテリが好き。


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― 新着の感想 ―
テンポが良くて読みやすい。 面白い。
2026/04/15 20:52 美田靖之進
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