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見えない糸と蒼穹のスカイ・ダイビング

 スマートフォンの画面に浮かぶ、母親からのメッセージ。

『明日の面接、お父さんも期待しているからね。あなたのためを思って言っているのよ』

 その一言が、目に見えない強靭な糸となって私の首に絡みつく。


 息が詰まる。喉の奥に鉛が詰まったように重く、胃がキリキリと捻り上げられる。

 幼い頃から、私はずっと「親の期待」という名のレールの上を歩いてきた。

 習い事も、進学先も、就職先も。すべては親が望む「正解」を選び続けてきた。

 本当は、もっと違うことがしたかった。自分の手で何かを作り出すような、そんな仕事に憧れていた。

 けれど、「あなたには無理よ」「これが一番安全な道だから」という言葉を飲み込み、自分の声を押し殺してきた。


(私の人生なのに、私がどこにもいない)


 自分の足が、地面から数センチ浮いているような感覚。

 糸で吊られた操り人形。誰かに操られていなければ、立っていることすらできない。

 胸の上に巨大な岩が乗っているような圧迫感に耐えきれず、私は夜の路地裏へと逃げ込んだ。

 浅い呼吸を繰り返し、冷たい壁に額を押し付けていると、霧の向こうにアンティークなランプの灯りが見えた。

『Bar Aurea』。

 重厚なオーク材の扉。その静かな佇まいに縋るように、私は震える手で扉を押し開けた。


 ◇


 カラン、コロン……。

 店内に入ると、外の喧騒が嘘のように遮断された。

 琥珀色の照明と、古時計の静かな秒針の音。

 カウンターの奥には、和装を思わせる服を着た美しい青年と、一匹の黒猫がいる。


「いらっしゃいませ」


 青年の穏やかな声にホッとしたのも束の間、不意に低い声が降ってきた。


「やれやれ。見えない糸で雁字搦めにされた、哀れな操り人形が迷い込んできたぞ」


「え……?」


 私は目を瞬かせた。今、カウンターの上の黒猫と目が合った。

 そして、その口が動いたように見えたのだ。


「他人の書いた脚本を演じるだけの人生。自分の足で歩く方法すら忘れてしまったか」


「ね、猫が喋った……!? 私、ついにストレスで幻聴まで……」


 限界を迎えた自分の脳を疑い、よろめく私に、青年――久遠が困ったように微笑んだ。


「幻聴ではありませんから、ご安心ください。彼は私の師匠でして、少々口が悪いのです。さあ、絡まった糸を解いて、こちらへどうぞ」


 久遠に促され、私はふらふらとスツールに腰掛けた。

 彼の黄金色の瞳に見つめられていると、心の奥底に封じ込めていた本音が、ポロポロと零れ落ちていく。


「……期待に応えなきゃって、ずっと無理をしてきました。親の望む『いい子』でいなければ、見捨てられる気がして。でも、もう……息が、できないんです」


「承知いたしました。貴方を縛り付けているその息苦しい糸、断ち切って差し上げましょう」


 久遠は棚から、透明なホワイト・ラムと、美しい海のような青色のリキュールを取り出した。

 さらに、小さな硝子の小箱から、仄かに銀色に光る、柔らかな一枚の羽を取り出す。


「『渡り鳥の風切り羽』を、一枚……」


 彼がシェイカーに材料とライムを絞り入れた瞬間、店内に鋭いアルコールの香気と、重力を奪うような強烈な圧迫感が広がった。


「うっ……! ぐ、はぁっ……!」


 久遠が突然、胸を強く押さえてカウンターに手をついた。

 顔面は蒼白になり、額からは大粒の脂汗が滴り落ちている。

 肩が激しく上下し、痛みを堪えるように奥歯を噛み締めていた。


「て、店員さん!? 大丈夫ですか……!」


「問題……ありま、せん……。貴方を縛り付けている……他人の人生を生きるという拘束感が、私の肺を……押し潰そうとしているだけ……ですからっ」


 久遠は激しい眩暈と息苦しさに耐えながら、震える手でシェイカーを構えた。

 シャカ、シャカ、シャカ。

 氷が弾ける音が、彼の命を削る音のように響く。

 私が背負ってきた「他人の期待」という名の呪縛を、彼がその身で引き受けてくれているのだ。

 彼は最後の力を振り絞り、鮮やかな青色の液体をカクテルグラスへと注いだ。


「お待たせ、いたしました。『蒼穹のスカイ・ダイビング』です」


 差し出されたのは、雲一つない大空を切り取ったような、深く澄み切った青色のカクテル。

 震える手でグラスを持ち上げ、一口、含む。


 ラムの力強い味わいと、ブルー・キュラソーの甘み、そしてライムの鋭い酸味が、鼻腔を突き抜ける。

 喉を通った瞬間、胸の奥に固まっていた鉛のような圧迫感が、一気に溶けて消え去った。


「あ……」


 視界が青く弾ける。

 気がつくと、私は果てしなく続く青空の中に飛び出していた。

 私を縛り付けていた無数の糸が、心地よい風に吹かれてパツン、パツンと切れていく。

 背中には、自分だけの見えない翼があった。

 もう、誰かの敷いたレールの上を歩かなくてもいい。親の期待は親のものだ。

 私は、私の生きたいように生きる。たとえ泥を被っても、自分の足で大地を踏みしめたい。

 脳を覆っていた深い霧が完全に晴れ、全身の細胞に新鮮な空気が巡っていく。

 自由だ。心の底から湧き上がるような爽快感が、全身を駆け抜けた。


 ◇


 グラスを空にすると、呼吸が驚くほど深くなっていた。

 あんなに痛かった胃の痛みも、胸の重さも、すっかり消え去っている。

 明日の面接は断ろう。そして、自分が本当にやりたかった仕事を探すんだ。


「ごちそうさまでした。……私、やっと自分の足で立てそうです」


 私は鞄から財布を取り出し、紙幣を出そうとした。

 しかし、久遠はまだ肩で息をしながらも、静かに首を横に振った。


「お代は結構です。金銭はいただきません」


「え? でも、こんなに素晴らしいものをいただいたのに……」


「代わりに、こちらを頂戴しましたから」


 彼が視線を向けたカウンターの上には、固く絡み合った、灰色の糸玉のような石が置かれていた。


「それは貴方を縛り付けていた『束縛』の糸玉です。もう、貴方には必要のないものです」


 私はその言葉に深く頷き、財布をしまった。

「本当に、ありがとうございました」と一礼し、店を後にする。

 扉を開けると、外の空気は澄み切っていた。

 私はスマホを取り出し、母親からのメッセージをそっと閉じると、迷いのない足取りで家路についた。


 ◇


「はぁ……はぁ……。い、息が……止まるかと、思った……」


 客が去った後、久遠はカウンターの裏で這いつくばるようにして床に倒れ込んでいた。

 強烈な拘束の魔力の反動で、体が鉛のように重いらしい。


「ふん。あれだけ太い糸で雁字搦めにされていたんだ。ハサミを入れるのに苦労するのは当然だろう」


 黒猫のメルが、カウンターに残された灰色の糸玉のような石を前足で小突く。

 石はコロコロと転がり、中心から微かな青い光を放ち始めた。


「『抑圧と束縛』の石か。硬く結ばれているが、解けば強い魔力線になる。悪くない収穫だ」


「……あのお客さんの代わりに……僕が簀巻きにされた気分でしたよ……」


 久遠は冷たい床に頬をすり寄せながら、恨めしげに呟く。


「泣き言を言うな、愚弟子。お前が拘束を引き受けたおかげで、一人の人間がまた大空へ羽ばたけたのだ。さあ、早く起きてグラスを洗え」


「……師匠は、相変わらず人使いが荒い……」


 久遠は力なく笑うと、ゆっくりと体を起こした。

 深夜0時の錬金酒場。

 誰かの絡まった糸を断ち切り、自由な空へ送り出すために、今夜もまた、グラスの音が静かに響いている。

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