迷子の羅針盤と氷雪のマティーニ
スマートフォンの画面をスクロールする親指が、微かに震えている。
画面には、転職サイトの大量の求人情報と、未読のスカウトメールが並んでいた。
「あなたにぴったりのキャリア」「失敗しない転職術」「適性診断テストの結果」。
溢れ返る情報の波の中で、私は完全に溺れていた。
今の会社に不満があるわけじゃない。でも、このままでいいのかという漠然とした不安が、真綿のように首を絞め上げてくる。
Aの道に行けば安定だが退屈そうだ。Bの道は刺激的だがリスクが高い。Cの道は……。
メリットとデメリットを天秤にかけ続け、気づけば半年が経っていた。
「正解」を選ばなければならない。失敗して、取り返しのつかない人生になりたくない。
(……結局、私はどうしたいの?)
自問自答のループが脳の髄をすり減らし、激しい頭痛を引き起こしている。
視界がチカチカと明滅し、胃酸が喉元までせり上がってくるような吐き気。
足元が沼のように重い。一歩でも間違った方向に踏み出せば、底なしの泥に沈んでしまうような恐怖に足がすくむ。
息苦しい。
立ち止まった路地裏で、浅い呼吸を繰り返していると、霧の向こうにアンティークなランプの灯りが浮かび上がった。
『Bar Aurea』。
重厚なオーク材の扉。その静かな佇まいが、迷子になった私を呼んでいる気がして、縋るように扉を押し開けた。
◇
カラン、コロン……。
店内に入ると、外の冷たい風が遮断され、代わりに静謐な時間が流れていた。
真空管ラジオから微かに流れるジャズの旋律。
カウンターの奥には、黒髪の美しい青年と、一匹の黒猫がいる。
「いらっしゃいませ」
青年の穏やかな声にホッとしたのも束の間、不意に低い声が降ってきた。
「やれやれ。無限の選択肢の前に立ち尽くして、結局どの扉も開けられない臆病者が来たぞ」
「え……?」
私は目を瞬かせた。今、カウンターの上の黒猫と目が合った。
そして、その口が動いたように見えたのだ。
「失敗を恐れるあまり、自分の足で歩くことすら放棄している。ただの置物と同じだな」
「ね、猫が喋った……!? 私、ついにストレスで幻聴まで……」
限界を迎えた自分の脳を疑い、よろめく私に、青年――久遠が困ったように微笑んだ。
「幻聴ではありませんから、ご安心ください。彼は私の師匠でして、少々口が悪いのです。さあ、迷い疲れた足を休めて、こちらへどうぞ」
久遠に促され、私はふらふらとスツールに腰掛けた。
彼の黄金色の瞳に見つめられていると、見透かされているような、でも不思議と安心するような感覚になる。
「……怖いんです。どの道を選んでも、後悔しそうで。情報ばかり集めて、結局『絶対に失敗しない正解』を探し続けて……一歩も動けなくなってしまいました」
堰を切ったように、心の奥に溜まっていた泥のような迷いを吐き出した。
「承知いたしました。貴方の足元を絡め取るその迷いの鎖、鋭く断ち切って差し上げましょう」
久遠は棚から、透明なドライ・ジンとドライ・ベルモットのボトルを取り出した。
さらに、小さな硝子の小箱から、仄かに青白い光を放つ、透き通った氷の欠片を取り出す。
「『北極星の氷片』を、ひとつ……」
彼がミキシンググラスに氷と酒を注いだ瞬間、店内に鋭いアルコールの香気と、凍てつくような冷気が広がった。
「うっ……! ぐ、はぁっ……!」
久遠が突然、胸を強く押さえてカウンターに手をついた。
顔面は蒼白になり、額からは大粒の脂汗が滴り落ちている。
肩が激しく上下し、痛みを堪えるように奥歯を噛み締めていた。
「て、店員さん!? 大丈夫ですか……!」
「問題……ありま、せん……。貴方を縛り付けている……無限の選択肢という重圧が、私の手足を……凍りつかせようとしているだけ……ですっ」
久遠は激しい眩暈と凍えるような寒さに耐えながら、震える手でバースプーンを握った。
カチャ、カチャ。
氷をステアする音が、彼の命を削る音のように響く。
私が背負ってきた「決断の重み」を、彼がその身で引き受けてくれているのだ。
彼は最後の力を振り絞り、透明な液体をカクテルグラスへと注いだ。
「お待たせ、いたしました。『氷雪のマティーニ』です」
差し出されたのは、一切の濁りを持たない、完璧に澄み切ったカクテル。
グラスの底には、オリーブの代わりに青白い氷の欠片が沈んでいる。
震える手でグラスを持ち上げ、一口、含む。
ジンの鋭いボタニカルの香りと、ベルモットの複雑な風味が、冷気と共に鼻腔を突き抜ける。
喉を通った瞬間、胃の奥に固まっていた鉛のような迷いが、鋭利な刃物で一刀両断されたかのように切り裂かれた。
「あ……」
視界が白く弾ける。
気がつくと、私は吹雪の中に立っていた。
目の前には無数の分かれ道がある。けれど、どれが正解の道かなんて、最初から決まっていないのだ。
大切なのは、どの道を選ぶかではなく、選んだ道を「自分の正解」にしていく覚悟なのだと、冷たい風が教えてくれた。
吹雪がスッと止み、頭上にただ一つ、北極星が力強く輝いているのが見えた。
あの方角へ行こう。根拠なんてない。ただ、私がそう決めたからだ。
脳を覆っていた深い霧が晴れ、心地よい解放感と、足元に血が巡るような熱が全身を駆け巡った。
◇
グラスを空にすると、体の芯に確かな熱が宿っていた。
あんなに痛かった頭痛も、吐き気も、完全に消え去っている。
明日、会社に行ったら、まずは自分の気持ちを上司に話してみよう。転職するかどうかは、それから決めればいい。
「ごちそうさまでした。……私、やっと一歩踏み出せそうです」
私は鞄から財布を取り出し、紙幣を出そうとした。
しかし、久遠はまだ肩で息をしながらも、静かに首を横に振った。
「お代は結構です。金銭はいただきません」
「え? でも、こんなに背中を押してもらったのに……」
「代わりに、こちらを頂戴しましたから」
彼が視線を向けたカウンターの上には、霧のように白く濁った、丸みを帯びた石が置かれていた。
「それは貴方を立ち止まらせていた『優柔不断』の塊です。もう、貴方には必要のないものです」
私はその言葉に深く頷き、財布をしまった。
「ありがとうございます」と一礼し、店を後にする。
扉を開けると、外の空気は澄み切っていた。
私はスマホを取り出し、転職サイトの通知をオフにすると、迷いのない足取りで家路についた。
◇
「はぁ……はぁ……。さ、寒かった……」
客が去った後、久遠はカウンターの裏で膝を抱えてガタガタと震えていた。
マティーニの鋭いアルコールと、極寒の魔力の反動で、指先が霜焼けになりそうだ。
「ふん。あれだけ頭でっかちになっていた魂だ。芯まで冷やして霧を晴らさねば、目は覚めなかっただろうよ」
黒猫のメルが、カウンターに残された白く濁った石を前足で小突く。
石はコロコロと転がり、中心から微かな青い光を放ち始めた。
「『迷い』の石か。濁りが取れれば、良い羅針盤の針になる。悪くない収穫だ」
「……あのお客さんの代わりに……僕が氷山に激突した気分でしたよ……」
久遠は床に突っ伏したまま、うわ言のように呟く。
「甘ったれるな。お前が震えた分だけ、一人の人間がまた迷いなく歩き出せたのだ。さあ、早く起きてグラスを洗え」
「……鬼師匠……」
久遠は文句を言いながらも、口元には微かな笑みが浮かんでいた。
深夜0時の錬金酒場。
誰かの絡まった迷いを断ち切り、明日への道を照らすために、今夜もまた、グラスの音が静かに響いている。




