第1話 爆裂! 婚約破棄と危険な家族②
空気が一変したのを感じたのは、アルフレッド殿下が大きく息をついてからだった。つい先ほどまで会場に広がっていた微妙な沈黙が、今にも不穏なものへと変わりそうな予感。私はまさかと思いつつ、殿下の横顔をそっと窺う。何か嫌な胸騒ぎが止まらない。
「リリエッタ。おまえとの……婚約は、ここで破棄させてもらう!」
殿下の宣言に、私は思わず頭が真っ白になった。
え? 今、何とおっしゃいました? 婚約破棄? それどころか私のことを名前呼び捨てにして……いえ、それよりももっと衝撃的な単語が耳を直撃している。なんだか言葉の意味を理解するまでに数秒かかりそう。ざわついている周囲の人々を見渡すと、皆似たような表情だ。あちこちで「いま何と?」「婚約破棄ですって?」というひそひそ声が飛び交い始める。
「……殿下? いまのは、どういう……」
私は何とか声を振り絞ろうとするけれど、唇が震えて言葉にならない。すると殿下は腕を組み、私を冷たく睨みつけた。
「これ以上、おまえのわがままに付き合うのはごめんだ。そもそも、今日の茶会だっておまえのせいで遅刻する羽目になったんだぞ? おまえが無茶な準備を押し付けるから! ――ついでに言えば、おまえが“悪女”だって噂もさっき耳にした。周りを困らせてばかりだという話じゃないか!」
唐突に飛び出す理不尽な台詞に、私は自分の耳を疑う。私のせいで遅刻? 無茶な準備って、むしろこのお茶会は殿下がぜひ開いてくれと言ったと聞いていたのだけど。どうして私が責められなきゃいけないの?
「ちょ、ちょっと待ってください! 悪女って、どこからそんな話が……! それに、遅刻に関して言えば私はまったく聞いていませんし……!」
「もういい。おまえの言い訳なんか聞きたくない。こうして皆の前で言ってやる。おまえとの婚約は今この時点で、正式に白紙だ。いいな?」
殿下はまるで勝ち誇ったように胸を張り、私を指さして断言する。信じられない――というか、どこから突っ込めばいいのか分からなくなるほど、めちゃくちゃだ。そもそも王族同士の約束事をこんな形で取り消すなんて、そんな勝手が許されるのかしら。
「お、お嬢様っ! 落ち着いてくださいませ!」
動揺する私に慌てて駆け寄ってきたのは、侍女のノエルだ。顔を真っ赤にして息を荒らしながら、私の肩を抱き留める。
「殿下、いくらなんでもひどすぎます! 遅刻の原因をお嬢様のせいにするなんて、聞いてるこちらが呆れますわ! 失礼ながら、殿下はお茶会以前にどこで何をなさっていたんですか!?」
「はあ? 下々の使用人が口を挟むな。これは俺とリリエッタの問題だろうが」
「使用人とかそういう問題ではありません! お嬢様を侮辱するなんて、私が許しません!」
ノエルがプンプンと怒りを爆発させるのも無理はない。私もその勢いに呆気にとられてしまうほど、彼女は普段から私を守ろうと必死だ。それにしても、今は使用人としての立場を忘れて大声を上げている。周囲の貴族たちも、まさか侍女が王太子に意見するとは思わず唖然としているようだ。
「殿下……!」
私はノエルの肩をやんわりと叩き、なんとか落ち着かせようとするが、彼女は怒りが収まらない様子。私としても、殿下の宣言が理不尽すぎて簡単に納得できるわけがない。
「あの、殿下。そもそも“悪女”って呼ばれているって、一体どこからそんな話を……。私、心当たりがないのですけれど」
「はっ、いくらでも耳に入ってくるんだよ。おまえが他の貴婦人にどれだけ嫌われてるか、本人だけが知らないんじゃないか?」
まったく身に覚えがない。私としては普通に仲良くしていたつもりだったし、仮に陰口を叩かれたとしても、こんな場所で公然と責められる筋合いはないはずだ。しかも何より、王太子としてもう少し言葉を選んでほしい。私たちは、そもそも今日は婚約を祝う会をやっているんですよ?
「……それでも、何も今日の場で言わなくてもよろしいでしょう。こんな大勢の皆さまがいらっしゃる前で……!」
「だからこそ今言うんだ。おまえと王族の血を結ぶなんて国のためにならない。さっさと手を切るほうがいいに決まってるだろうが」
私の胸中にじわじわと怒りが込み上げる。たとえ王太子であっても、こんな言い方をされてはいくら私でも耐えきれない。ところが、そんな私以上に激昂しているのはノエルだった。
「許しがたい……! 殿下、それ以上お嬢様を侮辱なさるなら、このノエルが黙っておりませんよ!」
「黙っていないとは、どうする気だ? 侍女の身分で俺に刃でも向けるつもりか?」
殿下は口元に嘲るような笑みを浮かべ、ノエルを睨み返す。私には、彼がここまで高圧的だった記憶があまりない。いつもはもっと適当で、だらしないというか、ある意味愛嬌があるとさえ思っていたのだけれど。
「お嬢様を“悪女”呼ばわりなんて、私がこの身を賭けても看過できません!」
まさかノエルまでこんなに気丈に出るとは……! 私は驚きつつも、さすがに王太子への暴言は危険すぎるとハラハラする。周りの貴族たちも、もうどう止めればいいか分からないらしい。あちこちで「ええ……」「どうしてこんなことに……」と困惑の声ばかりだ。
「……ああもう、いい。これ以上言い争いをしても意味がないだろう。とにかく俺は、おまえとの婚約を取り消す。この件は正式に王宮へ届け出るから覚悟しておけ、リリエッタ」
アルフレッド殿下がそう言い放った瞬間、私の頭にはカッと血が上るような感覚が走った。どうやって冷静でいろというのだろう。こんな形で婚約を破棄されて、このまま黙って引き下がれなんて――。
「少しお待ちになってください! 私だって納得がいきませんわ。殿下、今日の会をどう思っていらっしゃるんですか? これは一体、どちらのために開いたお茶会だと……」
最後まで言い切る前に、殿下が私をキッと睨んだ。私の言葉をすべて遮るように、彼は手のひらを振りかざす。
「これ以上のおしゃべりは耳障りだ。俺がわざわざ来てやっただけでも感謝してほしいくらいだ。それに王族に歯向かうなんて、いい度胸じゃないか。――おまえがもう少し大人しくできないなら、この先いろいろ苦労するだろうよ」
その横柄な物言いに、私は思わず唇を噛む。さっきからあれこれ理由をこじつけてはいるが、要は殿下が一方的に気分を害したいだけにしか見えない。私のせいで遅刻したというのも、どう考えても無理のある言いがかりだし。
「……わかりました。そこまでおっしゃるのなら、私からお願いすることは特にありませんわ」
心臓がバクバクと音を立て、頭がクラクラする。それでも、この場で泣いたり取り乱したりするのは私のプライドが許さない。せめて、人前では気丈に振る舞ってみせる――そう思い、私はできるだけ堂々と背筋を伸ばした。
「ただ、後から後悔なさらないよう……」
小さくそう呟くと、殿下は私の言葉に耳を貸す様子もなく、踵を返して庭園の出口へと向かう。置き去りにされた招待客たちが、完全にどうすればいいのか分からない顔を見合わせている。まさに茶会は大パニック。誰も殿下を止めようとしない。
「お嬢様……」
ノエルが不安そうに私を見上げてくる。その手はまだ震えているようだ。私も体が熱くなっているのを自覚する。
「……まったく理不尽ですわ。殿下が一方的すぎる……!」
そう声を絞り出すと、周囲の貴族たちが少しずつ囁きを始めるのが分かる。婚約をあんな形で破棄して、しかも私に濡れ衣を着せたのだから、当然うわさ話はどんどん広がっていくだろう。私が悪いと思われてしまう可能性だってある。今までは慕ってくれていたはずの人たちまで、何か言いたげな目を向け始めている。胸に嫌な重みがのしかかった。
――それでも、このまま引き下がるわけにはいかない。私の人生が勝手に狂わされるなんてこと、絶対に許せない。
ノエルが手渡してくれたハンカチで息を整えると、私はぎゅっと唇を結んで庭園を見渡した。ここは私の家の庭だというのに、ひときわ寒々しく感じてしまう。
「ノエル、今日は……ひとまずもうお開きにしましょう。何を言われてもいいから、来賓の方々に謝罪とご挨拶を……」
「はい、わかりました。お嬢様、お顔が真っ青ですよ」
「……大丈夫」
今、頭の中に渦巻いているのは、怒りと戸惑い、それからほんの少しだけ湧いてきた復讐心みたいなもの。こんな酷い別れ方をされた以上、いずれ必ず正当性を証明してみせる――そんな決意だけが私の胸に燃え上がっていた。
お茶会はめちゃくちゃ。私の未来も今は真っ暗。でも、これで終わりだなんて思ってない。絶対に、殿下に仕返しを……いえ、その前に、自分自身を守るためにも行動を起こさなきゃ。
心の中で、そっと息をつく。
――さあ、どうやってこの理不尽な状況を覆してやろうかしら。…ただ、私の家族がこの話を聞いたら、どうなることやら……。
そう考えただけで、頭痛がしてきた。どうせ大騒ぎになることは目に見えている。しかし今は、私自身が受けた屈辱をバネに動き出さなくては。静かな怒りを抱えたまま、私は招待客に頭を下げ、王太子によって台無しになったお茶会を早々に終わらせることを決めたのだった。