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 ごぼごぼと音がする。

 それは自分の口から空気が漏れていく音だと気が付く。その音にハッとしてようやく自分が水の中にいることを理解する。


 なんで!?


 水の中にいた覚えはない。しかしそんなことを考えている場合ではなかった。上らしき方向を見てみるが青い色が広がっているだけ何もわからない。


 息ができない……!


 よく見ると自分の腕に細いキラキラと光る黄金の糸のような何かが絡まっているように見えた。苦しさに目を閉じて意識を手放す最後、どこかに流されるような感じを覚えた。


 

 次に意識を取り戻したときは、どこかから流れ落ちるような感じがして目を開いた。実際自分はちょうど水とともに落下しているようで、眼下には真っ赤な絨毯の敷かれた床と、黒いマントの人物がこちらを見上げている姿があった。相手も驚いた様子でこちらを見ていたが、何もできない。水の流れに逆らうことにできずもう一度きつく目を閉じた。


 

 落ちる!!



 そう思ったところで、大きな水音とともにそのまま落ちた。正確には、下にいた黒いマントの人物の上に落下した。


「……、あれ、思ったより痛くない」


 と言うか全然痛くない。と言うか、床に直撃していない。と言うか、浮いてる!?


 ハッとすると真横に、黒いマントの人物の顔があった。真っ白な肌に、青い瞳、白髪の長い髪がフードの奥に除く。端正な顔立ちの男は、いくらか自分より若そうな気がするが、どこか疲れたような表情をしている。


 なんと言っていいかわからず黙っていると、ゆっくりと体が下りていき、最終的に赤い床に足がついた。床はさきほどの水でびしょ濡れだった。

 自分の着ていた服も水で張り付いていて気持ちが悪い。唯一救いなのは髪の毛が肩ほどで、短くて濡れていることが大して気にならないことぐらいだろうか。


「一体どうやって入ってきたんだ」

「そんなことはこっちが聞きたい」

 

 こう言うときは落ち着いて考えないと。

 私何してたんだっけ?




「石峰さん、お先ー」

「お疲れ様」


 石峰絵麻。それが私の名前。

 今年27歳で、もう入社5年目になる。最初に入社した会社から転職もせず働き続けている。それなりに頼りにされて、教えなければならない後輩もいた。


 1日の大半を会社で過ごすのだ。絵麻はいつもどうせなら楽しく仕事をしたいと思いながら、日々働いていた。仕事をしつつ、同僚と雑談もしながら、笑いながら仕事をするのが好きだった。


 今日もいつも通り会社に出社し、少し残業をしていたが、切りのいいところでやめて退社をしたはずだ。家へ帰宅する途中、夕立で出来た水たまりが所々にあり、それを避けながら歩いていた気がする。鏡のように夕焼け色を反射したそれの1つを、避けきれず踏んだ。



 ぴしゃり。そんな水の弾ける音がした。



***



 絵麻が落ちるより少し前。



 砂漠のオアシスにある国、マナテラ王国。

 この国の第一王女であるハティーナは、砂漠の真ん中で一冊の本を拾った。


 砂に埋もれて何か箱のようなものの一部が見えていることに気づき、ハティーナは簡単に砂を払うと、それが本であることに気づいた。さらに砂を掘ってみると、とても豪奢な装丁の本は、どう言うわけか厳重に鎖が巻かれ、簡単に開けられない状態で出てきた。


「一体どうしてこんなところに本が?っていうか、なんで鎖が巻かれてるのかしら?怪し過ぎじゃない?」


 黄金に輝く長い髪を背中に揺らし、日に焼けた肌と赤い瞳を持つ少女。ハティーナはその赤い瞳でしばらくそれを見つめた後、惹かれるようにその本を拾い上げ、砂を払った。

 タイトルはない。革装本に見えるそれは、砂に埋もれていた割に、状態が綺麗だった。


「誰かが落としたのかしら?でもさすがにこのサイズの本落としたら気づくわよね。むしろ、埋めたとか?」


 そんなことを言っていても答えなど出るわけがない。そう思ったハティーナは、しばらく本を眺めてから、持ち帰ることに決めた。明らかな怪しさとは別に、どうにも捨てがたい魅力が本から感じられ、手離すことができなかったのだ。



 城に戻ると侍女が怒った顔で、ハティーナを出迎える。

「ハティーナ様!一体どちらへ行かれてたんですか!また勝手に城を出て!」

「ちょっと散歩に出ただけでしょ」

 そう言って、侍女に拾ってきた本を渡す。

「な、何ですかこれ?」

「拾ったの」

「拾った?!こんなもの拾ってきてどうするんですか?!」

 キーキーと喚く侍女の言葉に耳を塞ぐ。ハティーナは、軽く手を振って答える。

「何か放っておけなくて。私の部屋に置いといて。立派な本だからもしかしたら、落とし主、いや、埋めた主?が、名乗り出るかもしれないでしょ。それまで保管するだけよ」

 ハティーナの言葉に侍女が顔を顰める。


「鎖まで巻いてあるなんて、絶対何か危ないものですよ!」

「まぁ、いいじゃない。私、先生のところに行って来るわね」

「では髪を結い上げてから!」

「いやよ、このままでいいでしょ。頭痛くなるし、大嫌いっていつも言ってるじゃない」

 長い髪を揺らしながらスタスタと歩いて行くハティーナに、侍女は諦めて大きなため息をついた。そして、本を慎重に両手で持ち直すと、ハティーナの私室へ向かった。



 一方のハティーナは、毎日向かう部屋へ足を進めていた。扉の前で立ち止まると、ハティーナはゆっくりと三回ノックする。


「先生、ハティーナです」


 彼女の声かけにすぐに部屋の中にいた男性が返事を返す。その返事を待ってハティーナは中へ入った。扉は開けておく。


「王女殿下にご挨拶申し上げます」


 ハティーナに対して礼の姿勢を取ったのは、若い男性だった。整った顔だが、その肌はハティーナと違い日に焼けた色ではなく、陶器のように白い。しかし、瞳は青く透き通っており、ハティーナとは、違う人種なのだろうとは想像がつく。黒いマントを身に着け、頭からフードをかぶっている。長い白髪の髪がフードの奥から少し見えた。

「ヴィザール先生、もうすぐこの国を出てしまうって本当ですか?」


 ヴィザールは、このマナテラ王国で10年ほど前から、王族の教師として城にいた。異国人である彼は非常に知識が豊富で、どんな問いにも答えて見せた。また、世界中を旅しているらしく、他国の文化などにも精通している。

 

 そんな彼に1番懐いたのが、第一王女のハティーナだ。他国に興味があった彼女には、ヴィザールの話は、ハティーナにはとても魅力的だった。近隣諸国はもちろんのこと、少し離れた国や、海の向こう側の国まで、様々な国の話を教えてくれる。世の中はとても広く、自分の知らない世界で溢れていると。


 ただ、ハティーナ自身はこの国の王位継承権第一位の王女である。この国から出ることが許されないことは自分自身がよくわかっていた。そんな彼女の興味を満たしてくれるのが、ヴィザールだった。


「ええ、もうここにも長くいますから」

「次行く国は決めていらっしゃるのですか?」

「これと言ってまだ決めていませんが、南の方にでも行ってみようかと思っています」

 

 ハティーナは子供のころからヴィザールを知っている。年上の兄ができたようで嬉しかったのだ。しかも、聞けばなんでも教えてくれる人なんて周りにはいなかった。

「ずっとこの国に留まることはできないんですか?」

「それはできません」

 ヴィザールははっきりとそう言った。


 ハティーナはヴィザールの作る壁をいつも感じでいた。どれだけ親しくなったと思っても必ずそこには壁があった。別にハティーナだけにそうだということでもなく、ヴィザールは誰に対しても同じように壁を作り、踏み込まれないようにしているようだった。


「先生、何か困ったことがあったら相談してくださいね。必ず力になりますから」

 ハティーナはヴィザールがとても心配だった。消えてしまいそうな、危うい状態に常にいるヴィザールが。とてつもない知識と情報を持ちながら、すべてを諦めているような彼が心配でならなかった。

「ありがとうございます」

 ハティーナの言葉にヴィザールは目を合わせることもなく礼を言った。壁を感じるのはそういうところなのだが、ハティーナは自分では彼を変えることはできないとずいぶん前から感じていた。



 誰かほかに彼を変える、または救ってくれるような人が現れることを願って。



 

 本を開いた時、それは叶う。

 ただし、何かを引き換えにして。



 汝の願いはーー。

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