そばにいるのは
「……は、早っ! えっ、まって、ちょっと、ええっ、どうして、え?」
私が即断りを入れたのに驚いたのか、アロナは言葉にならないほど狼狽えた。
もちろん私だって冷静ではない。まさか結婚の申し入れとは思わず、心臓が止まるかと思うほどの衝撃だったが、言葉はするりと零れ落ちた。
「私は、王女様の護衛をしたい。私が今ここにいるのは、ナーニャ様をお護りするために他ならない。そのために田舎から出てきたのだ。結婚するとなれば、近衛騎士の道は閉ざされてしまう……」
わざわざ男の格好をしてまで兵士になったのは、王女様の近衛騎士になりたいがためなのだ。厳しい訓練にも負けず、同僚の意地悪にも耐えるのは、いつか近衛騎士になれる日が来ると思えばこそ。
門兵になり、もう四年になろうとしているけれど、私は近衛騎士になる夢を諦めきれないでいる。
ここまで強い覚悟を持てるのは、生半可な気持ちではない。
私のこの意志は、幾度もアロナに話したことがあるというのに……
するとアロナは、「あーそっか、そうだよね。俺、順番間違えてた」と、独り言を言いながら、ウンウンと頷いた。
「俺が嫌いというんじゃないのだけは分かった」
「どういうことだ」
「ナーニャを護りたいために結婚できないんであって、俺本人が嫌だからって理由じゃないんだろ?」
しまった……うっかり口が滑った。
普段から余計なことを言わないよう、わざとそっけなく喋る癖がついているのに、無意識に零れた私の気持ちを拾われてしまった。
「……同僚として、心強くはある。しかしアロナ、ナーニャ様を呼び捨てにするとは不敬だろう」
王族に向かっていうには気安い呼び名をたしなめると、アロナは虚を突かれた顔をする。
「そうだ、ちゃんと説明しろって言われたんだった」
すっかり忘れていたらしく、後頭部をガリガリと掻きながら立ち上がった。それにつられて視線を上げると、斜陽がアロナの後ろから髪をきらきらと光の縁取りをしてとても美しく、どきん、と胸が高鳴る。
「ええと……つまり、ナーニャは俺の妹だから」
「――え? え、な、に……何を?」
今度は私が言葉を紡げない。
「だから、俺の妹だってば」
「いもう、と……いもうと……妹……妹?」
だめだ、頭が混乱して、もたらされる情報と記憶がうまく繋がらない。
「うわ、珍しい。ナトリが俺に対して隙だらけだ」
「つまりアロナは……?」
ナーニャ王女様が妹だということは、つまりアロナは――
「俺? まあ世間でいう王太子ってやつだけど?」
「え……」
ついには言葉をなくしてしまった私の口は、開いただけでまたすぐに閉じた。
つまり、アロナはこの国のナーニャ王女様の兄君である、ディセアローナ王太子だ、ということになる。
あまりの衝撃に気絶してしまいそうだ。くらくらと眩暈がしてベンチに手を置くと、その手の甲の上からふわりと私の手をすっぽりと覆う彼の手の平が包み込む。
「ナトリをナーニャの近衛騎士にさせられないか、エンザとか父上とか、いっぱい相談したけど……じじいが頑固で天にでも行かない限り難しいだろうって言われたんだ」
じじい、と悪態をつく相手は、おそらく貴族の中でもいい噂を聞かないあのあたりかな、と私でも想像がついた。いいことも悪いことも、自分の意に添わなければあの手この手で阻止させることを知っている。
そして、いくらか覚悟していたけれど、夢が断たれた現実は重くのしかかってきた。
「……私はただ、お護りしたかっただけなのだ」
突きつけられた途端、いままでどんなに辛いことがあっても堪えてきた涙が、じわりと視界を滲ませる。
腿に置いていた手を、ぎゅうっと握りしめた。うなだれる私の目の前には、その握りこぶしと兵士の制服が目に入る。近衛騎士になるという女性が一人もいないなか、男性用なのを手直ししてまで制服を着て、男でも根を上げるという訓練に耐えたのは、なんだったのか……
先が見込めないのなら、田舎に帰った方がいいのだろうか。そう思った私の溜息は、情熱をも吐き出していく。
「お前以上に向いてるやつなんて見たことないけど?」
ぽん、と頭に大きな手のひらが乗せられ、そして何度も何度も、後頭部をあやすように上下に撫でられた。普段なら払いのけるところなのに、されるがままに任せる。なぜなら、それがいま……私の欲しいものだったから。
ひと撫でされるたびに、絶望に染まる心に明かりをともし、凍りそうな心を温めてくれる。
「ありがとう。その言葉だけで十分だ」
ちゃんと自分の覚悟を知ってくれる相手がいる。それだけでも救われる思いだ。
「ちょっとまてよ、気持ちを畳むな」
気持ちを切り替えようとする私に、アロナは慌てて私の両肩に手を置いた。
「なあ」
「……なんだ」
「夢だったんだろ? ナーニャの近衛騎士団に入りたいって」
「ある。王女さまを護りたい……だが、私には叶えられないと知ったから……」
「だから、俺と結婚しようといったんだ」
「……は?」
改めての求婚に、私はいままさに零れ落ちそうな涙が引っ込んだ。
「どうしてそうなるんだ」
だから、という流れに繋がるのがよくわからない。キョトンとする私へ、アロナは真面目な表情を、ふにゃっと頬を緩めてみせた。
「だからさ、そうすれば堂々とナーニャの傍にいられる。例え俺の事が嫌いだとしても、夢は叶えられるぞ? 俺はナトリと結婚できるなら、それでも構わない」
アロナは、その理由をゆっくりと話す。
アロナと結婚すれば、近衛騎士にならなくてもナーニャの傍にいられるし、むしろ一番近いところで守ることができる。近衛騎士は男だけど、ナトリなら寝室にもいられるし、沐浴の時も同じ部屋で警備ができる――と。
それに……と、さらに付け加えた。
「ナトリと結婚するなら、うるさいじじい達も文句はないだろ」
私の正体も、とうの昔に調査済みだったらしい。
とある地方の貴族の娘だけど、私は五番目に生まれ、三人目の女という立場から、政略結婚の駒以外の使い道がないと思っていた。地方とはいえ貴族の――伯爵の娘だから、それなりな貴族の子息へ嫁いで一生を終えるのが普通だろう。
しかし私はナーニャ様に出会ってしまったのだ。一生を捧げるつもりで、両親を説得し、近衛騎士となるため王都にやってきた。身分を隠し、一般人として入隊試験を通って、早五年。だから、自分が伯爵令嬢だったことすら記憶が薄くなっている。
そんな私に、この国の王太子が結婚を申し込むなんて……
まさかの申し出に戸惑っていると、男の顔が曇る。
「……いや、か。そうだよな、さんざん言い寄った自覚もあるし、こんな男に求婚されたって……」
「勝手に結論付けるな! ……あ、つけないでください」
慌てて言い直すと、普段通りで構わないと苦笑された。ここにいるのは、ただの門兵だと。
アロナが門兵の任務に就くようになってから、散々『可愛いね!』『好きだ!』と言われすぎた。いまやその言葉は挨拶代わりのようで特に気にも留めないほど軽い扱いになっていたのだ。
だいたい、アロナ――ディセアローナ王太子は外遊から戻ってきていないはずなのに、どうして。
それを聞くと、アロナは「王族で代々やってることだよ」と、内緒の話をしてくれた。
この国では、王太子時代に隣国へ外遊に行くことになっている。しかし、公式には五年としてあるが、本当は二年で、残り三年は市井に下りて過ごすのだ――と。
「城の上からじゃ本当の意見なんて聞こえないもんな」
実際に生活してみて、見える景色は全く違っていたと、アロナは笑った。
文字だけで、数字だけで、政治をしている立場だった。けれど、様々な人が出入りする食堂や兵士と触れ合ったことで、一人一人が様々なことを考え、それぞれに歴史があるということに気付けた。すべては無理でも、小さな意見も考慮し、よりよい方向へと導く大義を持つことができ、この三年間感謝している。そう言うと、アロナは私の肩に置いていた手に力を込めた。
「こうしてナトリと出会えたのは、伝統のお陰かな」
「……正直なところ、あなたの事を胡散臭く思ってた」
「はっきりいうね」
全く気分を悪くした様子もなく、いつも通りの様子のアロナに、私は少しだけほっとした。
そして普段は言えない気持ちを伝えようと、ゆっくりと深呼吸をする。
「しかし、実際には真面目に業務をこなすし、いざという場面では非常に頼りになる。軽薄な奴だと思いながらも、私は評価していた。……でも」
「でも?」
「ここで了承したら、アロナは私が〝王女さまへの警護〟だけにつられて結婚に飛び付いたと思わないか?」
「それならそれで構わないと言っただろう?」
「私の気持ちを後付け扱いされたくない」
「気持ち……? それって」
「言わんでもわかるだろう! もう勝手に召し上げろ!」
恥ずかしさをごまかすために怒鳴っても、アロナは笑うばかりだ。もう知るか! と立ち上がろうとしても、肩に置かれたアロナの手が邪魔をして、その場でジタバタするだけになる。
一世一代の告白に、アロナはさらに意地悪を重ねてきた。
「ねえナトリ、気持ちは後付けじゃない、ということ?」
「ううう、うるさい!」
「聞きたいな。ナトリ、聞かせて」
「……」
答えるまで離さない、と抱き寄せられた。
なぜかアロナの懐に収まると、全身の力がくたりと抜けそうなほど、全てを預けたくなる。心地よい体温と、頼もしさと、そして胸の奥がきゅうっと苦しくなるような、アロナの香り……
アロナ……アロナ……
出会ってその日からずっと、アロナに会わない日はなかった。
気付けば傍にいた。
口を開けばそこからでるのは口説き文句だった。
いつも私の視界にいた。
いつも、いつも。
いつも視界にいたのは、私もアロナを見ていたから。
口説き文句を真剣に止めなかったのは、私が聞きたかったから。
傍にいてくれたのは……周囲から守ってくれるアロナに、私が甘えていたから。
私が好きになった人は、敬愛するナーニャ様のお兄様。それは偶然だったけれど、私が好きになったのは、ただの門兵であるアロナだ。
公人としてではなく、おそらくこちらが素の姿なのだろう。
「一回だけでいいからさ、気持ちを聞かせて?」
大きい図体をしているくせに私にねだる姿は、本当に王太子なのかと思うほど、妙にかわいく思えてしまった。もしかしたら私は重症なのかもしれない。
「本当に一回だけでいいんだな?」
「うん、一回だけでいい」
「……好きだ」
押しに根負けした私は、何の飾り気もない言葉を言い放つ。その途端、アロナは私を抱き寄せていた手を離し、顔を覆い、天を仰いだ。
「――生きててよかった」
そこまで? と疑問に思うものの、私の言葉一つで本当に喜ぶ姿を見られて、私もなぜか嬉しくなった。
「一言でここまでの感想が出るなら悪くないな」
「じゃあもう一回!」
「調子に乗るな!」
減るもんじゃないのに! とぎゃいぎゃい騒ぐアロナを軽くいなしていると、離れたところからこちらの様子を伺っている子供たちが見えた。あれは、たしかアロナに纏わりついていた子ではないか? それに……よく見たら、ネズミのルコを持っていた子も加わっている。
指をさして教えると、アロナは子供たちに向かって両手で大きく丸を作ってみせた。それを見た子供たちは、一斉にきゃあっと声を上げ、こちらに駆け出す。
小さな子供たち十人ほどが、私たちを取り囲んだ。どの子も目がキラキラとして頬を上気させている。その中で、ルコの飼い主の子が、「いいかお前ら、いくぞ」と小声で合図をした。
「アロナにーちゃん、おめでとう!」
「おめでとう!」
祝いの言葉と共に、背中に隠していたらしい小花を、一斉に宙へと高く投げた。それにつられて空を仰げば、ふわっと一斉に上がった花々は、色が夕陽と絡まりあい、幻想的な美しさを見せる。それは一瞬の風景だったけれど、私の目に、心に、記憶に、深く刻み込まれた。
「僕も妹もよろしくね、ナトリ?」
夕焼け色がいっそう濃くなり、やがて二人の影が重なった。
王太子が自ら選んだ相手と結婚するという発表は、国中が驚きに包まれた。なにより、相手が城門警備の兵士だったことから、噂があっという間に広がったのだ。
そして実は地方貴族の出身で、王女様をお護りしたい一心で一般公募の入隊試験から兵役に就いたというナトリの高潔さは、民の間から美談として伝わった。更に王太子であるディセアローナは、遊学を五年していたはずが、そのうち三年間は自国の市井に下り、しかもナトリと同じく一般公募の入隊試験を受け、城門警備の任に就いていた。
王城にやってくることの多い商人たちは、その二人を目にする機会も多く、ことあるごとに褒め称える。
『いや~、ナトリの美しさは品があると思ってたんだ』
『あの冷静さにやんごとなき高貴さを感じさせるんだよな! 俺も只者じゃないと思ってたぜ』
『ほかの兵士なんぞ腹立つことばかりだが、いつも親切にしてくれてねぇ』
『うちの息子は彼女に助けられたのよ! 命の恩人だわ!』
『男ばかりの世界に入って同じ格好をするなんて、よっぽど苦労しただろうに』
『あんな綺麗な顔した上に男装ってのがたまんねえよな! クソッ! なんで王太子なんかに!』
――最後の一言は、兵士の間から聞こえたとか、聞こえなかったとか。
ちなみに、王太子に関しては、決して立場を明かさず真摯に職務を全うしていたと、美談だがナトリの話のついでになってしまうのは、仕方がないことかもしれない。
ナトリの妃になるまでの話は、民間で物語になって広まり、劇になり、歌になる。
そして国民に愛された妃は、〝男装の麗人ナトリ〟物語として後世に伝承されていった。