第1話 森の中のベッド
「――何だあれ?」
低い声が、どこかで響いている。壁越しにしては妙に近い。
けれど位置は曖昧で、一階なのか隣室なのか判然としないまま耳に残る。
「うわっ、ベッド、か?」
別の男の声が重なる。
さっきよりはっきりしている気がするが、今日は仕事で疲れている、少しくらい静かにしてくれてもいいだろう。
「これほど立派なベッド……、見たことがありません」
今度は女の声だ。
澄んでいる、というよりは妙に通る声で、壁を一枚挟んだようなくぐもりがない。
少なくとも三人はいるらしい。
同じ間取りのアパート。そんなに広くないはずなのに、いったい何をしてるんだ。
「運んできた跡もない。まるで最初からここにあったみたいだ」
「お貴族様の道楽で、ここで造ったんじゃねえよな」
「まさか……」
会話の内容が、どうにも生活感から逸れている。
大学生の雑談にしては設定が重たいというか、演劇の練習でもしてるのか。
「寝てるやつがいる。何だぁ? 見たことねえ服だな」
「近寄っても平気か? 普通じゃねえぜ、気味が悪い」
「いい加減にしろ」と、つぶやきながら枕に耳を押し付けると、柔らかな感触が心をやんわりと癒してくれる。
「あのぉ、もし? 体調が優れないのですか?」
女の声が、今度はすぐそばで落ちる。
距離感が明らかにおかしい。隣室どころか、同じ部屋にいるような近さだ。
「おぃおぃ神官さんよぉ、誰彼構わず心配すんのやめといたら?」
「マクダウェル教は困っている人を救い導くのを教義としているのです。少々おかしな装いでも、差別などいたしません」
「ふぅ……、勝手にしなよ、俺たちゃアンタに雇われた身だ」
神官。宗教。雇われた身。
単語だけ拾うと、隣人トラブルの範疇を軽く越えている気がする。だからといって納得できる代替案も思いつかない。
しかし、そろそろ我慢の限界だ、壁ドンでもしてやるか。
拳を握り締め、
「うっさ……」と、口から漏れる声は、かすれてうまく吐き出せない。
まぶたを開くが、光が滲み、視界はまだぼやけていて、輪郭が安定しないまま揺れている。
「あぁ! 目を覚まされました」
澄んだ声が、今度は逃げ場なく耳に届く。
瞬きを繰り返すと、焦点が少しずつ合っていき、白い服、いや、神官服としか言いようのない装いが、ぼやけた輪郭から抜け出してくる。
目の前に知らない女が立っている。
「誰だ、アンタ」
女は、小さく一礼する。新入社員が上司に挨拶するみたいな、ぎこちないほど丁寧な角度で、ぺこりと。
その動きに合わせて、金色の髪がふわりと揺れる。
金髪?!
見慣れていない色だからか、現実に紐づける処理が遅れている感じがする。
「私はマクダウェル教の神官リンダと申します。ところで、あなたはいったい森の中で何をしていらっしゃるのかしら?」
森の中で何をしている、だと?
視線を横に滑らせる。
最初に目に入るのは木だ。一本だけじゃない、同じような幹と葉が、奥へ奥へと連なっている。
「え……森……?」
俺はアパートの部屋で寝ていたはずだ。
それを裏付けるように、背中には慣れた弾力がある。昨夜と同じマットレスの感触で、体を預ければ沈み方まで記憶どおりだ。
けれど、視界だけがそれを裏切っている。
見上げると、天井の見慣れたシミも、照明もない。ただ、やけに白い光が上から降りてきていて、思わず目を細めるほど眩しい。
「これは……夢か?」
上半身を起こすが、動きは普通だ。
重さも、関節のきしみも、寝起きらしい鈍さをちゃんと伴っている。
視界の端にベッドの縁が入る。
薄青色のシーツ。枕と掛け布団は昨夜のまま崩れていて、生活感のある乱れ方をしている。
「寝ぼけていらっしゃるのかしら?」と、女は首をかしげながら俺を舐めるように見る。
寝起きで不機嫌というのもあるだろうが、その不躾な視線が神経を刺激する。
とりあえず、この失礼な女は後回しだ。まずは自分のおかれている状況を整理する。
「正直に言うとまだ寝ぼけているのかもしれない。何が何だかさっぱりで、良ければ色々と教えてくれないか?」
今までの会話から、このリンダは慈悲深いのだと思う。ならば、情報収集する相手としては最適だ。
「あらまあ……。近づいてもよろしいかしら?」
「え? あ、ああ構わない」
女は一歩進み、距離が詰まる。
そこへ一陣の風が吹く。
葉が揺れる音が、ざわ、と遅れて耳に届く。
枝がしなり、光が細かく砕ける。
スカートの裾を片手で軽く押さえる。布が風に煽られて確かに揺れている。
それなのに、頬に何も当たらない。
空気が動いた感触が……、ない。
音だけが通り過ぎ、視覚だけがそれを補強する。
違和感を確かめるため、ベッドから降りようと足を横に振る。
次の瞬間、ゴン、と鈍い音がして足先が止まる。
「え?」と、反射的に声が出る。
確かに何かに当たった感触があるのに、そこに見えるものは何もない。
恐る恐る手を伸ばす。
空間を探るように指先を動かすと、すぐに硬いものに触れる。
透明な壁、そう言うしかない手応えだ。
リンダも同じように手を伸ばしてくると、こちらと同じ位置で指先が止まる。
「結界ですか?」
リンダがそれを軽く叩くと、コン、と乾いた音が返る。
ガラスに近いが、もう少し鈍い響きだ。
「結界?」
……そういえば、匂いがない。
体中のうぶ毛が逆立つ感触が遅れてやってくる。
湿った土も、青い葉も、そこにあるはずの匂いが一切しない。
森の中なら鼻にまとわりつくような重さがあっていいのに、それが丸ごと抜け落ちている。
慌てて自分の状態を確かめる。
掛け布団はかけていない。
寝返りの途中で蹴飛ばしたような崩れ方をしていて、妙に見覚えのある乱れ方だ。
けれど、その上にあるはずの寝巻きがない。
代わりに、スーツ。
ジャケットの硬さが肩に乗っている。ネクタイは緩んでいるが外れてはいないし、シャツの皺も、昨夜そのままの疲れを引きずっている感じがする。
昨夜、帰宅して、そこから先がない。
思い出そうとすると、そこだけ意図的に切り取られたみたいに空白になっていて、記憶の継ぎ目がやけに不自然だ。
……まさか、ここは地球じゃない?
「あなたが張ったのではないのでしょうか?」
「俺は知らない。そもそも結界って何だ?」
「獣を寄せ付けなくするための、防壁魔法です」
「魔法?!」
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