静かな世界の壊し方
「……ちゃんと」エリルが、小さく言った。
「話せたね」
僕は返事をしようとして、失敗した。喉の奥で、言葉がまた鉄みたいに固まる。
けれど。昔みたいな息苦しさは、なかった。うまく話せないことを、もう隠さなくていい気がした。
盤の向こうで、エリルが少しだけ笑う。
本当に、ほんの少しだけ。
秒蝋が、ぱちりと爆ぜた。
遅れて、歓声が戻ってくる。実況魔導士が興奮した声で何かを叫んでいた。
観客席では、まだ対局の余韻がざわめいている。
けれど僕たちだけが、少し現実へ戻り切れていなかった。
さっきまで、あれほど深く繋がっていたのに。
現実へ戻った瞬間、また少しだけ言葉が遠くなる。それでも。
昔みたいな沈黙ではなかった。エリルが駒へそっと触れる。指先が、わずかに震えていた。
たぶん彼女も同じだったのだと思う。
怖かったのだ。
言葉になってしまうことが。隠していたものへ、輪郭が生まれてしまうことが。
僕たちは昔から、何かを恐れすぎていた。
相手を困らせないように。空気を壊さないように。心を揺らさないように。
誠実でいろ。慎み深くあれ。沈黙を乱すな。そういう声が、いつも胸の奥にあった。
いつからだろう。幼い頃から、ずっと。感情が言葉になりかけるたび、その奥で、“何か”が静かに押し戻していた。――その程度で、心を乱すな。
ふと。僕は盤面へ視線を落とす。その瞬間だった。草原が見えた。一瞬だけ。
さっきまでいた、あの静かな場所。だが、何かがおかしい。
色がない。空も。草も。地平線も。
全部、古い記録紙みたいなセピア色へ変色していた。世界そのものが、細い線画みたいに痩せている。
僕は息を止める。違う。ここは、もう。さっきの場所じゃない。
エリルじゃない。“別の何か”がいる。
ぞわり、と背筋が粟立った。遠くに、人影が立っている。女のように見えた。だが輪郭が定まらない。
長い髪だけが、ゆっくり揺れている。身体の内側では、闇のなかに微かな光が瞬いていた。
人なのに。人として認識できない。ただ。視線だけは分かった。
覗かれている。僕たちの沈黙の奥を。
その瞬間。
低い振動音が、大盤宮全体へ響いた。僕は反射的に顔を上げる。
歓声が止まっていた。実況も。観客席のざわめきさえ、妙に遠い。空気そのものが、耳鳴りみたいに震えている。
次の瞬間。
館内拡声器から、高い反響音が漏れた。
――キィィィィィン。
鼓膜を引き裂くみたいな音だった。魔導灯が、一つ明滅する。続けて、二つ、三つ。
白い光が、不規則に点滅し始めた。
エリルが、小さく額を押さえる。
「……っ」
僕も遅れて、頭の奥へ鋭い痛みを感じた。
違う。ただの痛みじゃない。頭蓋の内側へ貼り付いていた薄膜を、無理やり剥がされるみたいな感覚。
視界が揺れる。草原がまた見えた。今度は、近い。セピア色の空。痩せた世界。
その中央で、“女”がこちらを見ている。
『――ようやく』
声ともノイズともつかないものが、頭の深い場所へ流れ込んできた。
ぶつり、と視界が切れる。その瞬間。
バチッ――!!
激しい火花と共に、宙へ浮かぶ魔導灯が一斉に弾け飛んだ。誰かが悲鳴を上げる。
次の瞬間。ドーム全体の光が死んだ。完全な暗闇。ざわめきが、一瞬遅れて恐慌へ変わる。
椅子が倒れる音。逃げ惑う足音。ノイズ混じりの拡声器。
耳鳴り。
その全部が、どこか遠かった。エリルが苦しそうに呼吸を乱している。
「……カイ、く……」
声が途中で切れる。彼女の肩が、小さく震えていた。また、頭の奥へあの視線が触れる。
冷たい。静かだ。それなのに、ひどく侵略的だった。感情の奥底へ、指を差し込まれる。
押し込めていたものを、逆側から掻き回される。
その時だった。
轟音が、ドーム上部を走り抜けた。観客席が、一斉にどよめく。暗闇の天蓋。
その内壁を、白い光が高速で疾走していた。
重力を無視したみたいに、半円状の壁面を駆け抜ける黒い機影。
爆音。火花。通過した軌道に沿って、死んでいた魔導灯が順番に点灯していく。
一つ。また一つ。闇が、切り裂かれる。
何が起きているのか、誰も分かっていなかった。
ただ。
“何か”が来たのだとだけ、分かった。
白い光が、再びドーム上部を走り抜ける。
その瞬間。
頭の奥へ食い込んでいた冷たい感触が、ほんのわずかに揺らいだ。




