迂回路と紙の沈黙
教室では石像のように黙り込んでいる僕だったが、学院の中にはもうひとつ、自分の居場所と呼べる場所があった。
「戦略棋研究課」だ。
任意選択科目の中で唯一、僕がまともに息をできる場所だった。
魔力を帯びた盤面の上で、静かに駒を進める。
ただそれだけの、ひどく閑静な空間。
二年になった頃には、流れのまま部長の椅子まで押しつけられていた。
そこでの僕は、教室にいるときとは別人だった。
盤面へ落ちる魔力の流れを読む。
相手の癖を崩す。
沈黙のまま、数手先で息の根を止める。
そんなことだけは、昔から妙に得意だった。
教室では、あれほど言葉一つ扱えないくせに、盤の前では不思議なほど頭が静まった。
駒を打つ。
読む。
切る。
気づけば対局相手は完全に黙り込み、額に汗を滲ませていた。
そして皮肉なことに――
エリルが初めて、僕へ真正面から視線を向けてきたのも、その部室だった。
ある日の放課後。
部室の扉が開く気配に顔を上げた瞬間、僕は一瞬だけ思考を止めた。
エリルが、入口に立っていた。
戦略棋研究課に見学者など滅多に来ない。
まして彼女が来る理由など、僕には思いつかなかった。
だが対局の途中だった以上、いつまでも視線を止めているわけにもいかなかった。
僕は盤面へ意識を戻した。
駒を打つ。
読む。
切る。
視界の端に、彼女の気配だけを感じながら。
気づけば対局相手は完全に黙り込み、額に汗を滲ませていた。
終局後、部室を出ようとしたときだった。
廊下ですれ違ったエリルが、一瞬だけ足を止めた。
彼女は何も言わなかった。
ただ、いつもより少し長く、こちらを見ていた。
その視線だけが、妙に胸へ残った。
時は流れた。
学院での最後の秋。
卒業を控え、皆が少しずつ自分の進路を語り始めていた。
騎士団へ入る者。
王都の魔術院へ進む者。
家業を継ぐため故郷へ戻る者。
講堂には以前よりも騒がしさが増え、将来への期待と不安が、そこかしこに漂っていた。
けれど僕とエリルだけは、相変わらずだった。
視線が合えば、どちらからともなく逸らす。
廊下ですれ違えば、不自然なほど同時にうつむく。
互いの気配だけは、嫌になるほど分かるのに。
最後まで、言葉だけが届かなかった。
そんな曖昧な距離を抱えたまま、卒業の日が訪れた。
学院の中央回廊には、古い石壁へ言葉を刻む慣例があった。
将来の誓いを書く者。
英雄譚の一節を残す者。
講師への恨み言を彫り逃げしていく者までいる。
僕はしばらく壁の前に立ったまま、鉄筆を握っていた。
刻むべき言葉が、どうしても定まらなかった。
長い沈黙のあと、僕はようやく石へ鉄筆を押し当てた。
『……いずれ、必ず』
乾いた音が、静かな回廊へ短く響く。
刻み終えたあと、自分でも、ひどく曖昧な言葉だと思った。
だが、それ以上の言葉を、僕は最後まで見つけられなかった。
翌朝。
人気のない回廊で、僕は自分の刻印のすぐ隣に、新しい文字が増えていることに気づいた。
細く、静かな筆致だった。
『話しかけたかった』
その一文を見た瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
王都の楽師たちが歌っていた、古い恋歌の一節。
僕はしばらく、その文字から目を離せなかった。
……同じだったのか。
僕だけでは、なかったのか。
回廊の窓から吹き込む春の風が、石壁の白い粉を静かに攫っていく。
けれど、その二行だけは、いつまでも僕の視界に残り続けていた。




