振動の行先
風が、木の葉を静かに攫っていった。
ロドは、ずっとそこに立っていた。
硝子質の面具を外したまま。疲れた青年の顔で。レイラ夫人の横たわる姿を、一度だけ見た。それから視線を戻した。
感傷ではなかった。
慣れているのだと、分かった。
「……どうやった」
静かな問いだった。
責めているわけじゃない。怒っているわけでもない。ただ純粋に——理解できない、という声だった。
カイは夜明けの空を見た。
どう答えればいい。自分でも、よく分からなかった。盤面があったわけじゃない。特別な術式を使ったわけでもない。
「……ただ、話しただけだ」
ロドの目が、わずかに動いた。
「先生の声が、まだそこにある気がした」カイは続けた。「だから……話しかけた。それだけだ」
沈黙。
ロドは何も言わなかった。
風が吹く。白い髪が、また揺れた。
エリルが、震える声で言った。
「……盤面が、見えた」
ロドの視線が移る。
「私には……今、うまく説明できない」エリルは俯いたまま続けた。「カイくんが話しているのに……なぜか、駒が動いているみたいで……どちらが先なのか、分からなくて」
喉が詰まる。それでも。
「ただ……見えた。確かに」
長い沈黙が落ちた。
蝋燭の爆ぜるみたいな音が、どこかから聞こえた。夜明けが、少しずつ空を白く変えていく。
ロドが、ゆっくり口を開いた。
「……そうか」
それだけだった。
だが、その二文字の重さが、妙に胸へ沈んだ。
「それがお前たちの力だ」
ロドは噴水の方へ歩いた。石造りの縁に、静かに手を置く。
「見ていろ」
その瞬間だった。
噴水の水面が、ざわりと揺れた。水が——粒子になった。細かく、細かく、光を帯びながら宙へ舞い上がる。
エリルが息を呑む。
粒子は集まった。凝縮した。形を作った。
滑らかな曲線。流線型の胴体。背びれ。
鯱だった。
白い光の鯱が、公園の夜明けの空へ、ゆっくりと泳ぎ出した。
エリルが、思わず呟いた。「……鯱」
ロドは振り返らなかった。
鯱は弧を描いて地面へ降りてくる。着地の瞬間——形が崩れた。いや、変わった。
粒子が再び凝縮する。細長い機体。蒼白い魔力輪。
二輪型の乗り物が、静かに石畳へ降り立った。
「……」
カイは言葉が出なかった。
ロドが機体の把手へ手を置く。
「俺はこれしか使えない」
静かな声だった。
「外を走ることはできる。速く動ける。奴らを追える」
機体の蒼白い光が、ゆっくり脈打っている。
「だが」
ロドの手が、止まった。
「やつらの中には入れない」
その言葉だけ、わずかに低かった。
長い年月が、その一文に沈んでいる気がした。カイは何も言えなかった。
「だからお前が必要だった」ロドは続けた。「会話をしただけだと言ったな」
「……ああ」
「それが全てだ」
風が吹く。
「やつらには無効化できない者がいる。術式も、武器も、俺の機体でさえ弾き飛ばされる。だがお前は——」
ロドがこちらを見た。
「それらに対して、ひどく有効だ」
胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
有効。その言葉が、妙に重かった。強いとは言わなかった。派手だとも言わなかった。ただ——有効だ、と。
「いずれ気づく」ロドは短く言った。「お前が何をしているのかを」
エリルが、静かにカイを見ていた。
「……支度をしてほしい」
ロドの声が、少し変わった。
「お前は必要な存在になった。スーラタワーとして、動いてもらう必要がある」
カイは答えなかった。
「日常のことは、こちらでうまくやる」
その言葉が、一拍遅れて頭へ届いた。
日常。家族。夕食の匂い。母親の声。
「家族には——」
「心配するな」ロドは遮った。「消すわけじゃない。ただ、お前がいなくても困らないように、整える。それだけだ」
沈黙。
エリルの肩が、小さく揺れていた。
カイは夜明けの空を仰いだ。少し前まで、先生がそこにいた。手を握り返してくれた。ちゃんと育っていたのね、と笑った。
「……準備ができたら、連絡をよこせ」
ロドが機体に跨る。蒼白い魔力輪が、石畳を静かに踏んだ。
「早ければ早いほどいい」
それだけ言って。
ロドは走り出した。
夜明けの路地を、白い残光だけ残して。あっという間に、遠くなった。
公園に、二人だけが残された。
噴水の水が、また静かに流れている。さっきまでイルカだったものが、ただの水に戻っている。
エリルが、ぽつりと言った。
「……鯱…だったね」
「……ああ」
「なんで、鯱だったんだろう」
カイには答えられなかった。
ただ。
その問いが、妙に胸の奥を軽くした。
二人して、しばらく噴水を見ていた。朝の光が、水面へ、静かに降りてきた。




