∞聖
以前は馴染みがあった街並みも、ふと気が付けば様々な変化が押し寄せている。道幅は広くなり、広がった分奥へと下がった店は大きく新しくなった物もあれば、ひっそりと消えた名前もある。
以前は主として使われていた道が変われば、町ごと栄え、廃れ、全てが変わっていく。
新たに生まれ、新たが消え。
古きが永らえ、古きが失せ。
新たが尊ばれ、古きが尊ばれ。
新たが疎まれ、古きが疎まれ。
そうして全てが変わっていこうが、起こっていることは何も変わらず。
結局のところ、人が人である以上、何も変わらない。善くも悪くも、何も。
変わらないのだ。
思いっきり背伸びした瞬間風が吹き、最近ではここまで長いのは珍しくなった私の髪を揺らす。
海風は強いが、潮の香りがしてどこか心地いい。しかしそう思わせておいて、後でべたべたしてくるので油断ならぬ風でもある。髪に絡まった潮風はしっかり洗い流さないと、エーレによって再び丸洗いの刑に処されるのだ。
ついでに、髪を切ろうとした無言で丁寧に手入れを施される。その為に長いままで今に至っている。
何せ、未だに私の髪に関して私に管理権限が戻っていないのだ。
私の髪はともかく、海の町は楽しい。
人が営みを始める時間よりだいぶ早く目が覚めてしまったし、せっかく海の町に宿を取ったのだ。私はいそいそと、散策がてら散歩に出た。
海の町は、日が昇り切る前から目覚めが早い。しかし、船は既に出ているし、それ以外の人が活動するにはまだ少し早い。
ちらほらと人が営みを開始した気配が緩やかに漂う町を、特に目的なくのんびり歩いて回り。
そして迷った。
以前も訪れたことのある町だが、あの頃とは様相ががらりと変わっていたし、変わっていなかったとしても迷わぬ理由にはなり得ない。よって、しっかり迷った。
だが問題ない。
視線を上げて巡らせれば、ひしめき合う建物の中、群を抜いて高く立派な建物が見えた。
こういうこともあろうかと、というよりこういうことしかなかったおかげで、初めて、または久方ぶりに訪れる町では、見上げれば発見できる物理的に高い宿を取るという戦法を編み出したのである。
それまでは大変だった。主にエーレが。
お互いの場所は何となく把握できる体質となったおかげで、生き別れとなることはない。
けれど盛大に迷う私が待ち合わせに遅刻し、迎えに出たエーレが声を掛けられ、一人で歩くエーレが後を付けられ、私と歩くエーレが交際を申し込まれ、私の頭を引っ叩いていたエーレが役者に誘われ、結婚を申し込まれ。
とにかくエーレが大変だった。
そんなこんながあり、エーレが迎えに来なくても私が帰れるよう、遠めでも分かる建物が宿となることが増えたのだ。
しかし、それ以外の問題は何一つ解決しなかったし、迎えに来なくてもいいのにエーレは変わらず迎えに来るので、状況は何一つとして変わらなかった。
エーレは頑張ってほしい。
私は、最近朝に一人で散歩することが増えた。
昔はあれだけ朝に起きず、男女混合型起床係が編成されていたくらいことを思えば、不思議な気持ちになる。
いま思えば、人形である私に不具合が起こり、尚且つ忘却が繰り返されていた負荷により、稼働に支障が出ていたのかもしれない。
それらが無くなった今、さほど目覚めに支障を来さないのも当然といえば当然だ。
逆にエーレはよく眠る。
かつて私を起こしていた人とは思えない。まあエーレに関しては、アデウスを出る前からずっとよく眠っていたので変わっていないといえば変わっていないのだろう。
あの頃は気合いで起きていただけで、本来はよく眠る人だったのかもしれない。
今ではめっきり私より先に起きることはなくなった。夜にてんやわんやした翌日など尚更だ。今日もしばらく起きないだろう。
人の枠組みから外れても、エーレの体力は依然そのまま。老いがなくなろうと身体能力及び体力が向上されるわけでもなく。
今も一人寝台の住人である。
ただし気配には聡いので、寝台を抜け出したり、部屋から抜け出したりすれば、覚醒する可能性は格段に高くなる。
よって、私の抜け出し技術もアデウスにいた頃より格段に上がっていた。
夫婦でお互いに高め合える間柄は理想とされるものらしいので、私達はいい夫婦関係を築いていると思われる。
そういうわけで、私は今日も抜け出してきた。
勝率は五割五分。今日はエーレの察知の能力に勝利したわけだが、この勝利には後でめちゃくちゃ怒られるという欠点がある。
まあエーレはいつも怒っているので、通常通りである。
今は何時だろうと、町のどこにいても見えていた古い時計塔へと視線を向ける。
この町は、最近では老朽化により取り壊されることが増えてきた時計塔がまだ現役だ。
ただ、かつては町で一番高い建物だったのに、私達が泊まっている宿のような背の高い建物が増え、町のどこにいても見える時計塔ではなくなっていた。
それでも私が今いる海岸線からはよく見える。ここに来た際はまだ到達していなかった朝日を浴び、他の建物と年季の違いを見せつけていた。
時計塔に日が当たっているのなら、この町にも本格的に朝がやってきたのだ。
時刻は、早朝ではあるものの人の活動が珍しくはなくなってくる時間帯。
朝食用の屋台もちらほら用意を始めている。何か買っていってもいいし、宿の朝食を取ってもいい。
エーレはどちらがいいだろう。
ここは海の幸が豊富で、以前も今もエーレの舌に合っているようだった。だからどちらでも大丈夫だろうが、せっかくならエーレが好んだほうにしたい。
基本的に食事は一緒に取るので、朝食はエーレが起きてくるまで待つことにしているのだ。
特にすることもなく、町行く人々を眺める。最近身軽な服を好んでいるようだ。私ほど髪が長い人も滅多に見なくなった。
この町に来て、三日が経過している。ここはいい町だ。穏やかで、海風は心地よく、食べ物は豊富。人は愉快で豪快で、されど自然に敬意を払って注視している。
その様はどこか、神への信仰に似ていた。
この町は過ごしやすい。このまま数年過ごすのもいいだろう。以前もここで何年か暮らしたことがある。
その後は、北へと流れたはずだ。行先は話し合うけれど、基本的にエーレが決めてくれている。情勢を見極め、情報を集め、今では滅多に見なくなった神力使いを、人工的に生み出そうとしている国や組織に気を付けつつ。
次は、どこへ行くのだろう。
「マリヴェル」
「うわ、びっくりした」
「驚かれるような行いをした覚えはない」
まだ眠っていると思っていた人が起きていて、尚且つ自分の後ろにいたらみんな驚くと思う。
ふんわりとどこにいるか把握できるようになっても、どこにいるか確認しなければ分からないのだ。
振り向けば、すっかり身支度を整えたエーレが立っていた。
「こんな時間に起きるの珍しいですね」
夜にてんやわんやした日は尚更である。
「お前がいないからだろうが」
エーレは私の横に並び、海を眺めた。
視線の先では海鳥が海の上で旋回し、一か所に集まり始めている。あの下に魚がいるのだろう。
「ルウィは今頃何をしているでしょうねぇ」
「さあ」
前回会ったのは十年ほど前で、その時は漁師をしていた。
他にも役者をしていたり、神力使いを狩っていた国の反政府組織にいたり、料理人をしていたり、教師をしていたり。
つまりは人生を満喫している。
ルウィは、私達と一緒に旅をしたり、一人で旅をしたりと、世界中を好きに飛び回る日々を過ごしていた。ルウィとそれなりに付き合いの長い人と会ったとき、根無し草と言われていたものだ。
ルウィは私とエーレを示した上で、『それらが余の根だ』と告げ、相手を甚く感動させていた。
しかし、どれだけ月日が経とうとアデウスを大樹が覆った記憶色濃い私達の間で、根の扱いは少々複雑な気持ちを抱かせたものだ。
特に、大樹の根を乗り越えるたび、如実に体力を削られていたエーレの顔は顕著であった。
「殿下とは、百年に一度会うくらいで丁度いい」
「遥か遠くないですかね、それ」
「神力狩りを潰した際の騒動を考えれば、三百年に一度でもいいくらいだ」
「エーレ、祟り神みたいな扱いになってましたよね」
「最終的に神扱いになっていたのはお前のほうだ」
「そうでしたか?」
だがあの事件は、ルウィが反政府組織にいたからというよりは、既に巻き込まれて向かった先にルウィがいただけのように思う。
今までも、何かとそうだった。
「あれからもう二百年くらい経ちましたけど」
「二百三年だ」
「乗せてもらっていた旅団が立ち往生して、偶然冬を越すことになった村で生贄されそうになったのはその前でしたっけ?」
「百九十六年前だ」
「神の子を名乗る聖女が現れてどたばたしたのは?」
「三百四十一年前」
「私がパン屋の香りにつられて窓から転がり落ちたのは?」
「昨日。馬鹿野郎」
頭を引っ叩かれた。しかし、流石はエーレ。
私の大事な、歩く歴史書。
「あらあら、仲のいいこと」
特に何をするでもなくのんびり海を眺めていると、穏やかな老夫婦に声をかけられた。老紳士は、私達が振り向くとかぶっていた帽子を取って頭を下げてくれた。
「おはようございます。お散歩ですか」
「ええ、そうなのよ。年寄りは朝が早いでしょう? だから、せっかくならと二人で歩くようにしているの」
「素敵ですね」
老婦人は嬉しそうに笑う。
「ふふ、ありがとう。あなた達もお散歩かしら」
「はい」
「いいわねぇ。あなた達はご兄弟かしら」
「いいえ、夫婦なんですよ」
正直に答えれば、老夫婦は目を丸くした。寡黙な老紳士まで大きく表情を変えたので、よほど意外だったのだろう。
「あら、まあ。ずいぶん早くご結婚なさったのね。最近の若い方は、そういうものなのかしら。それに、ごめんなさいね。なんだかよく似ていたから、ご兄弟かと思ってしまったの」
「どうぞお気になさらないでください。今の若い方の事情は存じ上げませんが、私達は結婚してそれなりに経っておりますので、似てきたのかもしれません」
「あら、そうなの。本当に、お二人ともよく似ていらっしゃるわ。長く一緒にいると、夫婦も似てくるものよねぇ」
にこにこと笑う妻を見て、老紳士もふわりと笑う。確かに、笑うとよく似た雰囲気となる二人だ。長く積み重ねてきた時間が二人を形作っている。
そちらのご夫婦はにこにこ微笑み合っているが、こちらの夫婦は片方が猛烈に嫌そうな顔をしている。私と似ていると言われたのがとてつもなく嫌だったようだ。
気持ちは分かる。
私も私と似ていると言われたエーレが不憫でならない。
「あなた達を見ていると、何だか懐かしいわぁ」
「懐かしい、ですか?」
老婦人は、朝日を見つめるような目で私達を見つめた。
「私達がまだ幼かった頃、近所にあなた達によく似たご夫婦が暮らしていらっしゃったのよ。とっても綺麗なお二人で。髪がね、あなた達のように真っ白で。初めはみんな訝しがっていたけれど、そこの奥さんがね、焼き立てパンの匂いがしたら窓から飛び降りるし、洗濯物が飛ばされると屋根までよじ登るし、ひったくりが出たら坂を文字通り転がり落ちながら捕まえてくれるしで、いつの間にかみんな仲良くなってしまったの」
不思議だなぁ。初めて聞く話なのに、何だかとっても馴染み深い気配がする。
エーレを見ると、淡々と私を睨んでいた。
「そのお宅はご主人も凄くって。町中の老若男女を虜にしたって有名で、求婚者が列を為してね。ふふ、それで、その列にね、新しいパン屋さんの列だと勘違いした奥さんが並んでいたの。結局旦那さんは、順番を待って先頭に来た奥さんの求婚を受けていたわ。もう、おかしいったら」
エーレを見ないようにしたのに、側頭部がじゅうじゅうしてきた。
「そういえば、あの頃は小火が多かったわ。それがね、どれもこれも何かの犯人だったり、ちょっと問題があったりした人の周りばかりで。不思議よね。火の神様が守ってくださったのかしらって、小火が多かったのにみんなありがたがって」
エーレを見れば、私から視線を外してしれっとしている。
あの当時でさえ、神力使いはその身を明かさないほうがいい時代に突入していたのに、結構盛大に使っていたようだ。
海鳥が甲高く鳴いた方向を向いて、老婦人は目を細める。
「近所どころか町で評判のご夫婦だったけれど、いつの間にかいなくなってしまって。何だか……不思議な時代だったわ。どうしてかしらね。私、幼かったあの頃を思い出すと、まるで神話の中にいた気持ちになるの。…………いやぁねぇ、懐古ばかりして。私ったら、すっかりお婆ちゃんになってしまったわ」
そうして私達に視線を戻すと、ちょいちょいと手招きした。少し近づくと、可愛らしく耳元でこしょこしょと話してくれる。
「あのね、私ね、そのご夫婦のお姉さんが初恋の人なの」
夫には内緒よと笑うその人は、まるで幼い少女のようだった。
「妻の話に付き合ってくれてありがとう」
老婦人が少し疲れ、椅子に座る手助けをしているエーレ達を眺めていると、ずっと静かだった老紳士が口を開いた。
「妻は、もう随分と記憶が曖昧で。あれだけ話すのが好きな人だったのに、あまり喋らなくなっていたんだ」
「そうでしたか」
そんな風には見えなかったけれど、記憶が混濁し始めた人は毎日毎時間調子が違うので、今日はそういう日だったのだろう。
「だが、今日は本当に楽しそうだった。まるで昔に戻ったかのようだ」
表情にはあまり出ていないが、穏やかな視線で老婦人を見つめる彼の瞳は優しく、本当に嬉しそうだった。
「私も、妻とは幼馴染で。妻が話していた夫婦のことをよく覚えている。奇妙で優しい、いい人達だったよ。君達は、本当によく似ている……いや、失礼した。老人の戯言だ」
「あなた方の思い出にお邪魔していて、とても光栄です。こちらこそ、楽しい時間を過ごさせていただきました」
老紳士は少し微笑み、帽子を軽く持ち上げた。
「年寄りに付き合わせてしまって、すまなかった」
二人で椅子に座った老婦人達の元へと向かう。
「あら、もう行ってしまうの? 残念だわ」
「私達は旅人ですので」
残念そうに伸ばしてくれた手を両手で取り、可愛らしい瞳の少女を見つめる。
「どうか元気で、ナーサ。ティットと仲良くね」
「うん、ありがとうおねえさん。もうせんたくものとばしちゃだめよ」
「そうですね、気をつけなくちゃですね」
かつて手を繋いで駆け出して行った背を見送った幼い子ども二人と、手を振りながら別れる。
ティットは、ナーサと私達を何度も見ていたけれど、やがて自分の中で折り合いをつけたのか、帽子を軽く上げて手を振ってくれた。
「そういえば、ナーサ達と話していてあの頃を思い出したんですが」
ほんの少し時間が進んだだけで、町はにわかに活気づいた。漁師達は市場へ持ち込む魚を怒声と共に船から下ろし、人々は忙しなく一日を始めていく。
そんな中を、エーレと手を繋ぎのんびり歩く私達は、どう見ても無職である。
日々何かしらの職を渡り歩いているルウィとは違い、私達はこれと言って何もしていないのだ。
たまに働いてみたりはしているけれど、大体痴情の縺れで辞めることになってしまう。働いているのは私なのに、エーレが毎日迎えに来るからだと思っている。
エーレはリシュタークの財産があるので、生涯働く必要がない。元手がありすぎて、それを転がし続けているだけでいいのだそうだ。
私が坂道を転がり落ちていってもエーレに怒られるだけなので、お金が羨ましい。
エーレは、お兄さん達からの頼まれた役目として、リシュターク当主が代替わりしてから十年以内にふらりと顔を見せにいく。
ついでにリシュタークが荒れているときと、危機に陥った際もふらりと戻る。
そして何だかんだして、顔を見せた当主周り一帯を惚れさせて去っていく。
悪魔だと思う。
惚れさせておいて、次に会うのは何十年後かなので、生きている内に会えるかどうか分からない美しい人。
悪魔だと思う。
ちなみに、リシュタークの悪魔という題で小説が出ている。
読んでいたら取り上げられ、なんやかんやのてんやわんやしている内にどこかにいってしまったので、結局全部読めていない。いつか読み切ろうと決めている。
「何を思い出したんだ」
「夫婦には、まんねりやら倦怠期やらの危機が訪れるそうなんですが、うちはいつ訪れそうですか?」
「妻が少し目を離しただけで窓から落ちていたり、不倫に誘われて山ほどパンを買って帰ってくる内は訪れない」
「そうなんですか?」
夫婦には必ず訪れる危機のはずなのだが。そう井戸端会議で入手した情報なので、信憑性は高いはずだ。
「……つまり、私達はまだちゃんとした夫婦じゃないということですか?」
「どうしてそうなった」
必要な過程を経ていないということなのだろうか。倦怠期という謎の危機を乗り越えて初めて、私達は夫婦と言えるのかもしれない。
つまり、エーレといつの間にか夫婦となって幾星霜。私達はいま初めて、夫婦の危機というものに陥っているのだ。
「エーレ! 私と倦怠期になりましょう!」
「手が塞がっていなければはっ倒していたところだ」
「あっつぅ!」
私と繋いでいたがために塞がっていた手の代わりに、私が燃えた。
神力使いが神話の領域に片足を突っ込み、国家が非人道的な研究を行い復活させようとしている昨今、気兼ねなく使えない力で恙なく燃やされた私は、エーレが好きなのだ。
エーレが好きだから、エーレと夫婦といるためにちゃんと倦怠期というものを経過しなければと思っている。
私の決意を淡々とした瞳で見つめていたエーレは、とりあえず噛みついてきた。
朝っぱらから人前で披露していいのだろうか。
未だ謎に思っているが、当事者のエーレは平然としているのでいいのだろう。
「お前、倦怠期が何か分かっているのか」
「倦怠感が付きまとう夫婦生活じゃないんですか?」
「微妙にあっている現状が余計に腹が立つ。互いとの生活に飽きた状態を指すんだ」
「へぇー」
流石エーレ。物知りだ。
「その上で問うが、お前は俺が好物に飽きたのを見たことがあるか」
「そういえば、エーレは好きなものはずっと好きですね」
そして嫌いなものはずっと嫌いである。
「その俺が、何よりも好きなお前に飽きると思うのか」
「飽きられたくないので頑張ろうかなと思うんですが、とりあえずお腹空いたんで何か食べません? この町は海鮮が豊富な上に小麦の産地でパンもおいしいですから、毎食楽しみです」
「紫毛アデウス牛」
「海鮮とパンは!?」
確かに紫毛アデウス牛はおいしいし他国に輸出もしているけれど、アデウスから遠く離れたこの国で取り扱われているかは怪しいところだ。
それにエーレは、朝からお肉をもりもり食べる類ではない。料理長がいた頃は決死の覚悟で食べていたけれど、アデウスを出てから朝は控えめだった。
そうしたらみるみる痩せて、どんどん線が細く弱弱し気な美少女となってしまったものだ。
そして普段より増した求婚者を全て燃やし、エーレなりに頑張って食べるようになったが、それでも朝から肉をお腹いっぱい食べられないらしい。
それなのに、珍しい要求だ。
つまり。
「……リシュタークとアデウス、どちらが気になるんですか?」
「どちらもだ。今は廃れたとて、アデウスは最後まで神力使いの代名詞だった国だ。奴ら、アデウスに戦を仕掛けるつもりだぞ」
「あー……」
人工的に神力使いを作り出そうとしている国が、それらの研究に行き詰まればどうなるか。
「今までも馬鹿げた要求をしていたが、今度こそ許容を超えた。だからさっさと国交を断絶すべきだったんだ」
これまでも、事あるごとにアデウスの民の身体を研究しようと、アデウス内に病院を構えようとしたり、大量の移民を推奨したりと、あからさまでありながら一応は外交の皮を被った要求を出していた。
だが、アデウスが全て遮断していたため、ついに痺れを切らしたのだろう。
最早神話の領域となった神力使いをもう一度。
さすれば神は再び降臨せん。
そう信じた国があるのだから、何とも言えない気持ちになる。
神力使いがいるから神が現れるのではない。神がいるから神力使いが現れるのだ。
「じゃあ、ルウィと会えそうですね」
特に待ち合わせはしていないが、大事が、それもアデウス関連となるとふらりと現れるのがルウィである。敵側として現れた時は、思わず笑いそうになってしまったものだ。
未曽有の危機に曝されたアデウスを、在位十年で立て直した上に発展させたとして、アデウスの賢王と名高い我らがルウィード王は、漁師にも軍人にも弁当屋にもなれる才能があるのである。
アデウス国民は最高の王を戴いたものだ。
「……あと千年ほどは会わなくていい」
気怠げに溜息を吐いたエーレに見惚れ、日課と思わしき快走中の男性が街灯にぶつかっていた。
しかし、私には彼を心配する余裕がなかった。
「エ、エーレってもしかして」
「おい馬鹿やめろ!」
「ルウィと倦怠期なんですか!?」
素早い掌が、今度こそ私の頭を引っ叩いた。離れてしまった掌が少し寒い。
「昨日の今日で俺とお前の夫婦関係が破綻していると宣言された俺の気持ちを考えろ!」
「私もいきなり未知なる倦怠期に突入するとは思いもよりませんでした!」
「なっていないからだ、馬鹿野郎!」
しばらく会わなくていいという、食傷気味な倦怠感を纏った言葉、雰囲気。それらを考慮した結果、これが巷で噂の倦怠期だと思うのだ。
もう一発派手に私の頭を引っ叩いたエーレは、それはそれは深い溜息を吐いた。
このため息も倦怠期の一つに思えるが、これは結婚当初、もっと言えば出会ってからずっとこうなので、私とは倦怠期でないと思われる。
そして倦怠期ではないのに溜息を連発させている私は、相当酷い妻だと思われる。
「……分かった」
深く長く重く冷静な溜息を吐いたエーレは、光を宿さない瞳で私を見つめた。
エーレがこの瞳をしている場合、なんやかんやと大変な事態に陥ると、これまでの経験で私は学んだ。
よって今すぐ逃げ出したいが、目的地が同じ上に、先ほど離されたはずの手がしっかり繋ぎ直されていて逃げられない。
「エーレ、落ち着きましょう」
「俺は冷静だ。要は、妻に愛を信じさせられない夫である俺が至らないということだろう。だからお前が疑う余地のないほど、俺達の夫婦関係が安定していればいいだけの話だ」
「安定はしていると思います。だからこそ必要な過程を経ていないのではと思っただけで」
「そうか――……二度と倦怠期なんて言葉が言えないようにしてやる」
「アデウスの話どこ行ったんですか!?」
「アデウスよりお前との夫婦関係のほうが優先だ」
「そんなことないと思いますよ!? それとルウィの話もどこ行ったんですか!?」
「この状況下で他の男の名前を出せるお前を、そろそろ尊敬すべきか悩んでいる」
「私を尊敬すれば、人として大切なものを失うと思います」
「いきなり真顔になるな」
人の枠組みから外れてしまっただけではなく、こっちのほうが人としてまずい領域に足を踏み入れてしまうと思うのだ。
そして、それはともかく。
「全部、朝食食べてから改めて考えませんか?」
お腹が空いたのである。
「紫毛アデウス牛を出しているお店、宿の人に聞いてみましょうか」
「あって堪るか」
「エーレが言ったのに!?」
何だかんだ考えれば、数百年後も同じ会話をしていそうな予感がするのだ。そしてよく考えれば、数百年前も同じ会話をしていたような気がするのだ。
つまり私達はずっと倦怠期なのかもしれない。けれどそれなりに仲良くやっていけているように思うので、今のところ夫婦の危機は考えなくていいということなのだろうか。
朝食後、エーレに聞いてみよう。
エーレが言うなら、たぶんそうなのだろう。そしてそうじゃなかったら一緒に考えればいいだけの話だ。
とりあえず、私が知っている夫婦とは大体そんな感じである。
神力を持たぬ人間達は、やがて神力に頼らぬ武力を極めていった。
神力などなくとも、指先一つで他者を害してしまえる兵器が一般的となった頃には、大地のみならず上空も地下も人間の領域となった。
人は神の領域を犯しながらも、神々を忘れはしなかった。神々を決して忘れず、自らの欲を満たす争いの理由とした。
神の名の元に起こった争いは数知れず。そこに神の意思や介入があったかのようにどれだけ記そうが、人が神の姿を見つけることはなく。
神々は静かにこの世を去っていった。
身罷ったわけではない。神の領分を犯した人間達に怒りを向けたわけではない。
ただ静かに人を見限った彼の御方々の名を使い、人は争い続けた。
これから先も、ずっとそうして生きていくのだろう。
どれだけ歴史に刻もうと、どれだけ心に刻もうと、人は都合の悪いことは忘れていく。良いことまで忘れていくのだから、結局のところ人とはそういう生き物なのだ。
小難しい理論など必要ない。そういう性質を持った、そういう生態の命なのだ。
忘却は許しであり罪であり、生きる術でもある。
世界は今日も忘却を巡らせる。
故にこそ、人は忘却を忘れない。
それが、それこそが。
数多の神が去り、残る神もいずれ去りゆくこの星で生きる命に許された。
穏やかな救いなのかもしれない。




