03
バッグに空になったキャンバスバッグを畳んで入れ、自転車を漕ぐ。
今日は街に出たついでに画材と食品の買い出しをしていく。できるだけ脇目を振らず、見たいものだけを見るようにして。駅前のビルには、この辺りでは大規模の画材屋がある。
ビルの自動ドアの前で手を振っている人がいる。センサーが反応せず、中に入れないと思っているらしい。あんた、ドアなんて閉まっていても入れるでしょうが。そう心の中で突っ込み、その横を通る。もちろんドアは開く。彼が付いてきたかどうかは確認しない。エスカレーターに乗って八階へ。
画材屋に入り、油絵具の棚の前で呼吸を整え、恐る恐る背後を窺う。良かった。どうやらひっかけずに済んだようだ。
私が彼らを見分けられるように、彼らもまた私を見分けることができる。霊の多くは何か理由があって留まっている人が多いから、生者と話ができる私を頼ってやってくる人もいる。だけどいちいち相手にしていられない。私がたった一人しかいないのに対し、彼らは数え切れないほどいるのだ。
それに少し立ち話をするぐらいで済めば、そんなに問題ではない。だが彼らに気に居られ、付き纏われ、いわゆる取り憑かれた状態になると厄介なのだ。だんだん気も身体も重たくなり、風邪を引くのと自律神経が乱れて少し鬱っぽくなるのが同時に起こる。しかもそれから逃れるにはそうさせている張本人に成仏してもらうか、誰かに祓ってもらうしか手段がない。
絵具を数本と刷毛、絵筆を購入してビルを出る。脇に停めた自転車に乗ろうとした時だった。
「あ、やっと見つけた!」
底抜けに明るい声を背後に受けた。わかっていたのに。私は振り向いてはいけないと解っていたはずなのに、釣られるように振り向いてしまった。
そこにいたのは、黒髪にジャージ姿の、たぶん私よりも少し若いぐらい、高校生と思われる男の子が片手を上げて立っていた。春の陽射しのような、屈託のない柔らかい笑顔を浮かべてさも嬉しそうに小さく跳ねている。
口を開きかけて、止めた。口を聞いたら面倒なことになる。視えているとバレてしまったら、逃げられなくなる。
今更遅いとわかっていながら、急いで自転車を出した。
「あ、待って!」
若くて明るい声が飛んでくる。待てるわけがない。キャンバスが無くなったおかげでずいぶん漕ぎやすい。町は山のほう、私の家に向かうに連れてだんだん上り坂になっていく。立ち漕ぎをする。それでも重い。だけど止まっていられない。生垣の切れ間、私の背の高さの石柱と石柱の間を通り抜け、自転車を飛び降りる。焦りのせいで震える手で鍵穴に鍵を刺して回し、後ろ手に引き戸を閉め、施錠した。
そうしてやっと息が付ける。知らない間に肩で息をしていた。心臓がどくどくと音を立てている。胸に手を当てる。皮膚を突き破って飛び出してきそうなほどだ。身体が辛い。
それでもこんな激しい運動をできるようになったことに、感慨もある。
私は中学生の頃、心臓病を発症した。おじいちゃんやおばあちゃんしか罹らないような病気に、私は十代前半で罹った。入院と投薬でなんとか症状を抑えていたものの、結局は完全に治すためには誰かの心臓を貰うしかなかった。臓器移植だ。当時の私は、それがいかに金銭的にも確率的にも難しいものかなんとなく知っていたし、死ぬことに対しては恐怖以外に抵抗は無かった。だから私はあと数年で死ぬんだと漠然と思っていたし、ぼんやりとその事実を受け入れていた。
そうならなかったのは、私が知らない間に、祖母が様々な手続きをしていてくれたからだった。そうして何の巡り合わせか、私は他人の心臓を譲り受けた。拒否反応もほとんどでることなく、私は今まで生きている。
少し落ち着いてきた心臓が、それでも音を立てている。私を生かしているこの心臓は名前も知らない誰かのものなのだ。
長く息を吐いて立ちあがる。廊下の向こうから軽い足音がして、きいろが出迎えてくれた。
「ただいま」
柔らかい頭部をそっと撫で、作業部屋に向かう。今日の戦利品をそれぞれの引きだしにしまい、買い溜めてあるキャンバスをイーゼルに立て掛ける。ふと気になって擦りガラスの戸を開け、縁側から庭を覗く。誰もいない。どうやら撒くことができたみたいだ。
どうしてあのとき振り向いたりしたのだろう。どんなに惹き付けられる声だったとしても、できるだけ関わらないようにしなければいけないのに。少なくとも今まではそうしてきたのに。振り向かなければならないような気がした。私のなかの何かが、確実に反応していた。見ず知らずの、男子高校生の霊に。
ゆっくりと瞬きをして、部屋に戻る。絵具塗れのジャージに着替えて、髪を後ろで一つに束ね、絵筆を執る。こうしているときだけは、無心になれるのだ。