02
正門を潜って緩やかな坂道を登り、左手に見えてくるのが図書館。右手にあるのが美術部棟。五階建てのビルが六棟並び、入口を共有しながらそれぞれを一つの専攻が一つの棟を使っている。ここに制作室も入っている。今日はそこで担当講師、岡江と会うことになっている。
待ち合わせの時間が、午前十一時。現在午前十時四十分。ちょうどいい時間だ。面談も、作品を評価されることも、アドバイスももらうことも面倒だ。だけど約束に遅れることも、嫌いだ。制作室にはすでに作業をしている生徒が四人いた。その内の一人は同級生だが、挨拶をするような仲ではない。
空いているイーゼルにキャンバスを立てる。
今課題として制作している絵は、高校の教室が舞台だ。左端後方の席から、教室前方の教壇や黒板があるほうを見ている。男女の比率はほぼ半々で、学ランとセーラー服の後ろ姿が並び、眼鏡を掛けた教師が左手に教科書を持っている。その横に、白い人影。教師の眼鏡に手を伸ばしている。生徒が座る机と机の間にも、白い人影。生徒の鉛筆に手を伸ばしたり、髪を弄ったりしようとしている。
この絵は、評価されるものではないと思う。今回のテーマは、学生生活だった。ありふれ過ぎた構図と場面だ。少なくとも展示や他の芸術を志す者の支持を受けるとは思えない。だけどそれでいいとも思う。これは私の記憶の中の高校生活を忠実に表したものだからだ。
背後で引き戸が開く音がしたが、私はあえて振り向かない。そもそもいつも彼の個人オフィス兼アトリエになっている場所で会うのに、どうして今日は他の生徒がいる可能性のある一般制作室を指定してきたのだろう。現にほら、一心不乱に絵筆を振るっていた生徒が振り返り、挨拶をする声がする。
「森崎さん、おはよう」
染められていない天然の灰色の髪、日に焼けた肌には皺と染みがある。何一つ飾っていないというか、見た目を気にしていないようだ。
彼は椅子を隣のイーゼルの前から引き摺り、私の横に並べる。それから私の間後ろに立った。
「……おはようございます」
重い腰を上げて、キャンバスの前から退く。岡江は顎を指先で摘まみ、真っ直ぐに私の作品を見つめた。
美術を専攻しておきながら、私は私が生み出したものを人に見られることが好きではなかった。私の全てを慈しんでくれた祖母を除いては、誰かに見せるなんてほとんどしたことはなかった。幼い頃から絵を描くことが大好きだった私は、保育園に通っていたときはクレヨンや色鉛筆で、それから画材を変えながらずっと描き続けている。今でも本当は水彩画が一番好きだ。だがこの大学には水彩画の専攻がなく、油絵に手を出すことになった。
「きみの、得意の巻きだね」
キャンバスから目を反らさず、そう言う男は水彩画のプロでもある。水彩画、油絵のどちらにも長けていて、どちらでも個展を開く。そういう意味では彼は他の講師と比べて、話がしやすい相手ではある。
「森崎礼子の白い人シリーズ」
岡江はそこでやっと絵から目を離した。
「ありがちと言えば、ありがちだね。だけどありふれた風景のなかにそうではない彼らがいることによって、面白みもある」
「面白み、ですか」
私にとってみれば、面白みなんて欠片も無い。これは私が高校時代に見ていた景色そのものだ。クラスメイトと現代文の教師。クラスメイトに悪戯する霊たち。教師にちょっかいを掛ける霊。それらが成功すると私のほうを見て、さも楽しそうに笑う霊。机の上に立ててあったペンケースを倒し、中身が床に散らばる。慌てて拾う女子生徒、飛んできたペンを拾って渡す隣の男子生徒。どう、と言わんばかりに私の顔を見る違う制服を着た霊。あのときは、数日前に私が拾ってしまった他校の女子生徒の霊だった。悪戯好きで、視えないことを良いことに好き放題やっていて、視えている私はなんとなくばつが悪いのだった。出会ってから二週間後に成仏した彼女が、絵の中からこちらを見て笑っている。悪戯っ子だったけれど、私は朗らかで奔放な彼女が好きだった。
「きみの作品は面白い。賞を取った作品も、そうでないものも。全てに現実味がある。ファンタジックでもあるのに、リアリティがある。全ての作品を集めて、個展を開いたら面白くなるだろうね」
「個展なんて、私にはできません」
「どうして?」
「どうしてって、前から言ってるじゃないですか。私には才能がありません。技術も知識もなくって、他の子たちのほうが素晴らしいです。どこからそんな発想が生まれるのか、不思議になるほど。私は自分で視たものを見たまま描くことしかできないから」
「それも、ある意味才能かもしれないよ」
岡江が作品に視線を戻しながら言った。
「題名はもう付けたの?」
「高校時代、です」
横顔に笑みを浮かべ、満足げに頷く。
「そのまま、だね。それがまたきみらしい」
高校時代と名付けられたその油絵は、私の元を離れ、岡江の元へ行く。課題となっていた作品の提出が済んだ。これで暫くは心の余裕が持てる。
「これからちょうど昼休憩なんだ。良かったら一緒に食事か……、お茶でもどうかな?」
岡江が自分のキャンバスバッグに私の作品を丁寧に仕舞う。その手つきはきっと私よりも優しい。
「遠慮しておきます」
「用事でもあるの?」
「いえ……、そういうわけじゃ、ないんですけど、すいません」
理由も無いのに申し出を断るのを後ろ暗く思っていると、断られた当の本人はあっけらかんと笑った。
「あはは、いいよいいよ。また、ね。しっかり課題の提出、受け付けました」
ひらひらと手を振り、岡江は教室を出て行く。私はそっと息を吐き、帰り支度を始める。
初めて岡江と話をしたとき、私は驚いた。芸術大学を選びながら、芸術に対する知識を最低限しか持たなかった私は、芸術家に対して偏見を持っていた。もっと天才肌の、気難しくて、人とまともにコミュニケーションなど取れない人ばかりだと思っていた。岡江はそんな私のイメージとは全く違う。いつも人当たりの良い笑顔を浮かべているし、何かと気に掛けてくれる。それが嬉しくもあり、反面どう反応していいのか困るのだった。




