01
建てつけの悪くなった古い引き戸が歪な音を立てている。木枠に嵌められた擦り硝子がそれぞれ異なったタイミングで鳴っている。平たい布団の中で寝返りを打つと、それを見逃すまいとばかりに声がする。
にゃー。戸から顔を反らすように向きを変える。にゃー。はあ、と欠伸の代わりに溜息を吐き、意を決し掛け布団を引き剥がした。もうすぐ四月とは言え、山の中はまだ寒い。にゃー。
「はいはい、ちょっと待って」
身体を起こすと温かな黒い塊が擦りよってくる。同居猫のきいろだ。黒猫のきいろ。目の色からそう名付けたのは祖母だ。
重い引き戸の向こう、縁側に銀色の器が二つ置いてある。片方は水が入っていて、もう一方は空だ。空の皿に猫のドライフ―ドを入れてやると、きいろが飛び付いた。
かりかりかり。きいろがフードを噛み砕く。その音に混じって足もとから別の音がした。にゃー。んにゃお。
きいろの声じゃない。縁側の縁に白と茶の耳が動いているのが見える。三角の耳が四つ。同じような柄で同じぐらいの大きさの猫が目を丸くしてきいろが食んでいる餌の器を凝視している。一匹が、そうっと片方の前足を出した。
「あー、だめだめ」
しっしと手で払うと、二匹は弾かれたように数メートル離れたところに跳んでいく。そして抗議をするかのように私の目を見てにゃーと鳴いた。
餌を食べ終えたきいろが舌なめずりをし、庭に佇む二匹を見ている。きいろが使わない皿を用意して、そこにドライフードを入れる。兄弟猫が目を輝かせた。なんとも心をくすぐる声でまるで私を呼ぶかのように鳴く。
「わかったわかった」
つっかけを履いて縁側から出来るだけ離れる。屋敷と生垣のちょうど中間あたりに器をき、距離を取ると二匹の猫たちが器の周りに駆け寄ってくる。そして迷わず口を開けた。
美味しそうにがっついている。その様子を縁側に腰掛け、きいろと並んで眺めた。
きいろと同じようにドライフードを少しずつ口に含んで齧る。
だけど、音がしない。
猫が餌を噛み砕くかりかりという音がしない。
それは何も距離のせいではない。その証拠に、ほら、あれだけ勢いよく食べているというのに、器に盛られたドライフードの嵩は減っていない。二匹の猫が、反対方向から一つの小さな器を覗きこみ、ときどき顔と顔が重なって、すり抜ける。
隣でまどろむきいろの頭を撫でる。ふかっとして温かい。
「早く成仏するように言ってやってよ」
私の手を振り払うようにきいろが頭を振るった。どうやら小指が耳に触ったのが不快だったらしい。
食べ終えた猫がこちらを向く。もう一度鳴くと、姿を消した。生垣の間をすり抜けて行ったわけではない。空中に、背景に、溶けて消えて行ったのだ。
「どうせ明日も来るんでしょうけど……」
吐息を吐いて腰を上げる。猫たちが口を付けていたドライフードは、置いたときと何も変わっていない。それをゴミ箱に捨てる。何も変化が無いとは言え、他の猫が食べたものを、ましてや既に命が無い者が口を付けたものを、きいろに与えるわけにはいかない。
庭の二匹の猫たちは、既に死んでいる。実際に死骸を見たわけではない。だけど私には視える。身体を失った者の姿が。そして見分けが付くのだ。生者とそれ以外の者とが。
私はたぶん生まれたときからこうだった。少なくとも物心が付いたときには既に、他の人には視えない人らとことばを交わしていた。両親はそれを疎ましがった。彼らは理解できなかったのだ。二人は私がまだ幼いころに別れ、私は母に引き取られた。けれど私たちはうまくやっていくことができなかった。そうして結局、私は母方の祖母に引き取られることになった。彼女は私を理解することができる人だったからだ。そもそも理解できないはずなどなかった。彼女も私と同じだったのだから。
祖父母が暮らしていた田舎町の山のなかの、敷地が無駄に広く長い歴史を目撃してきた屋敷で、今はきいろと二人で暮らしている。
私の唯一の理解者だった祖母は、今から三年前、私が高校三年生のときに亡くなった。それでもこのだだっぴろい屋敷で暮らし続けているのには理由がある。ここは祖母に護られているのだ。正確に言えば、祖母の依頼を受けたどこかの神社か霊媒師かその類の人のお札によって、であるが。それがあることによって、霊たちは屋敷の敷地内にまで侵入したとしても、私の許可なく建物の中までは入ることができない。さっきの二匹の猫たちも庭から縁側を覗くことはできても、それ以上は近づけない。
だからこの場所でなら、私は安心して暮らすことができる。逆に言えば私はここでしか静かに生活をすることができない。
毛繕いをし始めたきいろの背中をそっと撫でていると、このまま寝転んでしまいたくなる。
いけない。今日は一週間に一度大学へ行かなければならない日だ。溜息をつきながら立ち上がる。顔を洗い身支度をして、寝室にしている仏間の隣、今はアトリエとして使っている和室に必要な画材を取りに行く。410×273ミリのキャンバスをキャンバスバックに突っ込む。絵具やら絵筆やらは大学用と自宅用と分けてあり、もう長い間制作室に置きっぱなしにしてある。
「じゃあ行ってくるよー」
きいろに声を掛け、バッグを肩から提げて自転車に跨る。幾度か講師に注意されたことがあるが、わざわざ大学へ行くのにタクシーを使いたくもない。もう少し大きなキャンバスを運ぶなら仕方は無いが、これぐらいなら自力で運ぶ。庭を出て、まともに舗装もされていない砂利道を下る。前かごに入れたバッグが跳ねて、持ち手をハンドルにひっかけていなければ飛んでいきそうだ。
山を下ると田舎なりの、それでも町に出る。平日のこの時間は人が歩いている。何度目かの溜息が出る。本当に家の外に出るのは憂鬱だ。人にぶつからないように気を付けながらできるだけ速く漕ぐ。真っ直ぐ前だけを見る。脇目はふらない。例えばランチにでも行くのか、お洒落をした四十代のおばちゃん二人が楽しそうに笑いながら通り過ぎたカラス張りの店の前にぼんやりと立っている人影なんて視ない。視界に入れない。
「あら」
その影がはっと顔を上げて、私のほうを向くところなんて視ない。
「すいません、お姉さーん」
私は何も聞いていない。そういうことにする。ああいうのは一々構っていたら、いつまで経っても目的地に辿り着けない。
それ以降、声はしなかった。どうやら振り切れたらしい。駐輪場に自転車を停め、制作室に向かう。
都会でもなければそのベッドタウンでもなければ、観光名所も無い唯の田舎町。なぜこんなところに公立の、しかも芸術大学があるのか不思議だが、私はもうここに三年も通っている。この大学は良く言えば生徒の自由を重んじ、悪く言えばやる気の無い講師が揃っている。授業に出なくとも求められた課題を定められた期限までに達成することができれば、ほぼ間違いなく単位は貰える。もちろん真面目に授業を受けている生徒もいるが、多くは学科ごとに分かれ、自由な使用を認められている制作室に籠ってそれぞれの作品に取り組んでいるか、もしくは学校にさえ顔を見せない者もいる。就職に不安を感じ、そのための専門学校に通っている者もいる、らしい。
私はこの県立の芸術大学の、美術学部美術科で油画を専攻している。




