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そう思ったときには自然とレイコの居場所を探っていた。家に帰るつもりなのだろう。駅に向かっているようだ。
レイコの後ろに付いて行く。振り返りはしないけれど、きっとバケオがいることには気づいているだろう。
券売機で切符を買って改札を通り過ぎる間も、レイコはずっと足もとを見ていた。時刻表を確認すると、次の電車までには二十分以上もあった。それにも関わらずレイコはベンチに腰掛けようともしない。乗車位置を示す黄色い点字ブロックの上に立って、ぼんやりと線路の無数の濃い死を眺めている。
もしも霊が視える人がこの光景を見たら、きっとバケオのほうを人間だと思い、レイコを幽霊だと勘違いするだろう。そんな彼女が左手を左胸に当てているのを見て、ことばが口を付いて出た。
「俺が死んだのは、レイコちゃんのせいじゃないから」
さっきよりは小さく、それでも細い肩が弾む。
「レイコちゃんと出会う前に、もう俺は死んでたんだから」
鼻で笑い飛ばしてみる。思い出した記憶は些か衝撃的だ。自分の身体が血の海に沈み、手足は可動範囲を越えて曲がっている。唯一の救いは、痛みを覚えていないことだった。
「……違う」
小さな声が風に乗って聞こえてきた。乱れた黒い前髪に隠されて、表情が見えない。
「そういう意味じゃない」
名前を呼ぼうとしたそのとき、透明な雫が左胸を愛おしそうに抑える手の甲に落ちた。
「私が謝ったのは、そういう意味じゃない」
「レイコちゃん……」
「違うの……」
とうとう両手で顔を覆ってしまった。震える肩を抱こうとして止めた。彼女には霊に触られるときもなんとなく感じるらしいが、きっとそれはバケオが今与えたい温もりじゃない。
「ごめんね、バケオ」
レイコは俯いていた顔を上げた。その表情を見て、息を飲んだ。大粒の涙が幾筋も光る跡を残して頬を滑り落ちていき、鼻は真っ赤に染まっている。
「私なんかで、ごめんね」
そういうことだったのか。やっと合点がいった。長い間胸に痞えていたものが、すとんと落ちた。私なんか。レイコは確かにそう言った。
「手術が終わって目が覚めたとき、罪悪感で押し潰されそうだった。成功しなければいいのにって祈ってたの。この心臓が私に適合しませんようにって」
しゃっくりのような嗚咽が聞こえる。一人で泣きながらぶつぶつと呟いているレイコを、電車を待つまばらな人たちがちらちらと横目で見ている。彼らの不躾な視線から、レイコを護ってやりたかった。
「私じゃない誰かに移植されるべきだった。幸せになる可能性を持ってて、もっと生きたいと思ってるような人に渡るべきだったのに……」
レイコは過呼吸でも引き起こしそうなほど、不規則に息を吸っては途切れ途切れにことばを吐き出した。
「ごめんね。私、こんなんで」
手の甲で乱暴に拭っても拭っても、溢れ出る涙は止まらない。
「ごめんね。バケオ、ごめん。私なんかじゃ、心臓を渡した甲斐、ないでしょ」
そう言ってすでにくしゃくしゃの顔を、笑う形に歪めた。
静かなホームに響く嗚咽の音。レイコは笑おうとする。自分を卑下し嘲るかのように。
単調なメロディとアナウンスが流れて、電車がホームに滑り込んでくる。ドアが開き、乗り込もうとしたレイコの手首を掴んだ。触れることはできなくてもしっかりと掴んだ。レイコが驚いた表情で振り返って、足を止める。車掌がこちらを見ている。乗るか乗らないのか確認しているのだろう。やがて諦めたかのように笛が鳴り、電車はたちまち小さくなっていく。
「バケオ……」
「優希」
「え?」
「俺の名前、優希って言うんだ」
「ゆうき……くん?」
「やめてよ。レイコちゃんいつも俺のこと呼び捨てにするじゃん。今更くんとか言われてもなんか変な感じするし」
バケオのことばにようやくレイコが笑みを浮かべた。今にも消えそうな儚いものではあったのだが。
「バケ……ゆうき、はさ」
「……バケオのままでもいいけど」
「でも」
「あだ名、気にいってないわけじゃないし」
「……付けたときは馬鹿にしたくせに」
レイコの抗議を受けて思い出す。確かに彼女のネーミングセンスを笑った覚えがある。だってオバケにバケオって、ねえ。
「バケオは友だちとかいっぱいいたんだろうね。部活もやってたんでしょ? 家族も仲よさそうだし」
涙も止まり少し落ち着いた様子を見せるレイコは、それでも周りの視線を気にしようとはしなかった。
「そういうのってすごく憧れる」
「憧れ?」
「そう。憧れ。友だちと遊んだり、部活やったり、家族揃ってご飯食べたり……、そういうことしたかったんだよね。たぶんそれって普通なことなんだろうけど、私には普通じゃなかったからさ」
それからあっと小さく声を上げて訂正した。
「普通じゃないのは私の方だったね」
おどけて見せるその笑顔が泣き顔よりも痛々しい。もしも俺が生身の人間だったなら、その手を引いて胸の中に閉じ込めて、これ以上何も話せないようにしてしまいたいのに。
「手術が終わってからずっと、この心臓の持ち主が私の元に来てくれたらいいのにって思ってた。ここに来て、思いっきりののしってくれればいいのに。私なんかに渡すために提供をしたわけじゃないって言ってくれればいいのになーって思ってた。やっと来てくれたね」
ことばが途切れた。傾き始めた日に、影が伸びる。
「ののしってくれていいよ。バケオには、その権利があるから……」
「……もうやめてくれよ。俺はそんなことをするために残ったわけじゃない」
噛みしめた奥歯を、きつく合わせた唇をこじ開けるかのように胸に湧いたことばが飛びだして、レイコちゃんは恐れるような目で俺を見た。ほら、そういう顔、するくせに。
否定されたいと口では言うくせに、いつだって受け入れられることを求めている。どうしようもなく不器用で天の邪鬼だ。
「俺はレイコちゃんに笑ってほしくて。病気、治って良かったって思ってほしくて。心臓貰って良かったってそう思いながら生きてほしいだけだったんだ」
呆気に取られたような表情が次第に怒りを孕んでいく。本人にも自覚できないような感情がレイコの中で巻き起こっている。
それはきっと今までの人生で誰にも言えずに密かに貯め込んだ哀しみが、姿を変えたものだ。
「……私は心臓なんていらなかった! あのまま死ねば良かったの! こんな……っ、こんな私なんて生きてても意味無かった!」
次の電車を待つ人々が互いに目配せをし、なかには顔を寄せ合ってこそこそとことばを交わす者までいた。
「レイコちゃん、場所変えよう」
「……いい」
「でも見られてるよ」
「いいって言ってるの!」
二重だけれど大きくはない目がきっと睨みつけてくる。日に当たらないせいで白い頬、目の下に滲む隈とただ伸ばされただけの黒い髪。そのどれも生きている感が無い。まるで彼女自身が幽霊のように。それなのに、その濡れた黒い瞳だけが強烈な熱を噴き出そうとしていた。
「もう慣れてるから」
彼女の傍にはいつも人間以上に、死んだ者が多くいた。
「じろじろ見られるなんていつものことだし。もう慣れてるよ」
止まったはずの涙が再び頬を流れ始める。
「これが普通なの。他の人にとってはおかしいのかもしれないけど、私にはこれが普通なの」
「レイコちゃん……」
「どうしてだったのかな。私、別にこんな力要らなかったのに。この力も心臓も、もっと別の人が持つべきだったのに。ねえ」
強い輝きを湛えた瞳が痛いくらいに訴えてくる。生きたいのに、生きたいと思えないと。これほどまでに死んだことを後悔した瞬間は無かった。死んだ後にレイコと出会ったことを憂いた瞬間は無かった。
「どうしてなんだろ。どうして私みたいなのが生き残ってさあ、バケオみたいな人が死んじゃうの? 逆だったら良かったのに。私が死んで、バケオが生きてれたら良かった……」
そんなことを言わないでと言うことさえ叶わなかった。どうしたって俺にはレイコちゃんを救えない。
だって俺は、もう死んでいるから。
電車がホームに入ってくるその風に、砂のように吹き飛ばされそうなレイコはただ涙を拭って、無言で乗り込んだ。慌てて付いて行き、空いた車内で隣に腰掛ける。何も口にすることなく、ただ目的地に辿り着くことだけを待った。




