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山に囲まれた何も無い街。電車だって一時間に一、二本しか来ないような街。
ここで俺は生まれて育った。母さんと父さんと二つ下の弟とゴールデンレトリバーの四人と一頭で暮らしていた。
進学校でも荒れているわけでもない公立の高校に入学して、野球部に所属して、勉強よりも身体を動かすことのほうが好きだった。
三年生は夏の大会をどこまで勝ち進めるかによって、引退の時期が変わる。できるだけ長く野球をこのメンバーで続けていたくて、クラスメイトが勉強に本腰を入れ始めた夏休みも、俺は練習に精を出していた。大会の予選までは二週間を切ったところだった。
練習が終わり、ユニフォームからジャージに着替え、方向が同じ部員と途中まで自転車で一緒に帰る。
友だちは多いほうだと思う。生まれてこの方人見知りということばに縁がなく、誰と一緒にいることも嫌だと感じたことはなかった。クラスメイトや部員はもちろん、一度も同じクラスになったことがなくても友人と呼べる人が何人もいた。
中学も楽しかったけれど、高校はさらに楽しい。あと半年で卒業してしまうのが惜しいぐらいだ。
途中で友だちと別れ、一人で自転車を漕いでいた。帰ったらシャワーを浴びて適当になんか食べて、漫画の続きを読みながらとりあえず昼寝をしよう。起きたら勉強しよう。そんなことを考えながらぼんやりペダルを踏んでいた。
横断歩道を横切ろうとしたときだ。それは気が付いたら目の前にあった。なにかもわからなかった。認識する前に俺は吹っ飛ばされていた。
「なんだ、これ……」
自転車が滅茶苦茶になっていた。かごもタイヤもぐにゃりと曲がっている。エナメルバッグは離れたところに転がっている。スニーカーも、それから俺自身もだ。
「おい、起きろって」
自分で自分に言うのもおかしいが、肩を揺すって起こそうとした。そうしなければ取り返しのつかない何かが揺るぎないものになってしまう気がした。
伸ばしかけた手がはたと止まる。頭の辺りを真っ赤に濡らして、手とか足とかをわけのわからない向きに曲げて、地面に転がっているのは紛れもなく俺だ。だけどその肩を掴もうとして、今こうやっていろいろごちゃごちゃ考えているのも俺だ。なんだ、これ。
路肩にトラックが止まっている。その運転手だろうか。作業服を着た中年の男が、携帯を耳に押し当て怒鳴っている。焦っているのかどもっていて、あれじゃ何を言っているのか相手には伝わらないだろう。
そんなこの際どうでもいいことを考えていないと、どうにかなりそうだったのだ。
俺が呆然と立ち尽くしている間に、俺の身体は救急車に乗せられ、病院で処置を受け、気が付けば病室のベッドに寝かせられていた。
全身を包帯で覆われ、手には点滴の管が繋がれ、口には呼吸をさせるためにマスクが付けられている。
「おい、大丈夫かよ……」
そこに横たわっているのは紛れもなく自分のはずなのに、あまりにも無残な姿を見て俺はまるで他人に話しかけるかのようにそう声を掛けていた。
暫くすると看護士とともに母が病室に駆けこんできた。
「母さん!」
俺、どうなったの? どうすればいい?
そう尋ねたいのに母は俺の声など聞こえていない様子で、動かない身体に縋った。
そうして父と弟と医師までもが部屋に終結する。弟も部活だったせいか、ジャージ姿だ。
呆然とする家族一同に、医師は平坦な声で告げた。
「大変残念ですが、息子さんは脳に甚大な損傷が見られます。おそらくもう二度と目を覚ますことは無いでしょう」
母が声を上げて泣きだした。まるで何かが爆発したような声だった。
何もかもが非現実的だ。母のこんな姿は見たことがない。いつもにこにこ笑っていて、勉強しなさいよって声を掛けてくることはあっても滅多に怒らないし。
それになんだ、目を覚まさないって。だって俺はこうして全てを見ているのに。
「……どういうことですか」
父が掠れた声で尋ねた。
「脳死の可能性があります」
父が小さな声で、脳死、と繰り返した。
「いわゆる植物状態ですね。心臓は動いていますが、もう意識が戻ることは無いと思って頂いたほうがよろしいかと思います」
なんだそれ。待てよ。俺は結局生きているのか? それとも。
その日は家族全員が病室に泊まることを許された。三人がそれぞれパイプ椅子に座って、動かない俺を見ている。何かことばを掛けてやりたいのに伝わらないことに、もどかしさを覚えた。
「兄ちゃんさ」
唐突に弟が口を開いた。父と母がどこか呆けた表情をするなかで、弟だけはしっかりとした印象を受けた。
「前に一緒にテレビ見てたときに、臓器移植のことやっててさ。兄ちゃんもやりたいって言ってた」
「……なにを?」
母が震える声で尋ねる。なにを馬鹿なことを、そう責めるような声だ。
「臓器提供だよ」
弟のことばに、かつて自分が口にしたことを思い出す。確かテレビでは六歳の女の子が、心臓移植を待たずに亡くなってしまったというニュースが報じられていた。日本では臓器のドナーが少なすぎるせいだ。そんな現実を見て、思ったんだ。
どうせ死ぬのなら、誰かの役に立ちたい。その人の一部になって、人生を分けてもらいたい。って。
まさかそれが実現するとは思わなかったけれど。
「何言ってるの! まだ……、まだ生きてるのに!」
鳴き叫ぶ母に、弟は冷静にことばを続ける。
「けどもう目ぇ覚まさないんだろ? だったら兄ちゃんがやりたかったこと、やらせてやったほうがいいじゃん」
「でもっ……!」
「だってそうしたら……」
初めて弟の目に涙が浮かんだ。小さい頃は泣き虫で俺の後ろを付いてくるばっかりで、いつも俺の真似をしたがっていた。今でも仲が良い。一緒になってゲームをしたりしていた。
だけど泣き顔なんて見るのはいつぶりだろう。
顔を真っ赤にしてぼろぼろと涙を流している。嗚咽しながらも弟は喋るのを止めようとしない。
「だってそうしたら、兄ちゃん、誰かの役に立って、誰かの中で生きてけるじゃん……」
父が立ちあがって弟の肩を抱いた。背を擦りながら、しきりに頷いている。反対に母は力なく椅子に座り込んだ。
弟のことばでやっと納得できた。
そっか。俺は死んだんだ。少なくとももう俺として生きていくことはできない。
涙も無く座り込む母さんを励ますことも、静かに涙を流す弟を茶化すことも、弟を慰める父さんに声を掛けることも、愛犬と散歩することも、学校へ行くことも、野球も、なにもかももうできないんだ。
ここで一生眠り続けるか、生きられる可能性があるひとに希望を与えるか。
その二つしか選択肢は無い。
静かに夜は更けて行った。




