#35 くちづけ
翌日の昼下がり。
フヴィート公国の本城──その大広場は、緊急の声明を聞くために集まった数万の民衆で埋め尽くされていた。
「……本当に後悔はないかい?」
本城の巨大なバルコニーへと続く扉の前。
ディアエル様は私の手を強く握りしめ、少しだけ不安そうな瞳で私を見下ろした。
彼がこんなに脆い表情を見せるのは──初めてかもしれない。
「これから私が語る真実は、公爵としての私の威厳を失墜させるだけでなく、君を再び王国の政治の渦中に引きずり込むことになるかもしれない。私が用意した安全な鳥籠にさえいれば、君は一生、誰の悪意にも触れずに生きていけたのに」
「後悔なんてありません」
私は彼の手を両手で握り返す。
そして真っ直ぐに瞳を見つめる。
「私はもう日陰の女ではありませんから。あなたに守られるだけの小鳥は卒業して、公爵夫人としてあなたと共に戦うって決めたんです」
私の決意。
ディアエル様は微かに息を呑み……やがて憑き物が落ちたように穏やかに笑う。
「……ああ。君は本当に、いつだって私の想像を遥かに超えていく」
重厚な扉が開かれる。
私たちはしっかりと手を繋ぎ、眼下に広がる無数の群衆を見下ろすバルコニーへと歩み出た。
私たちが姿を見せると、広場を埋め尽くす民衆の間にどよめきが走った。
ディアエル様は一歩前に進み出ると、魔道具の拡声器を通して静かに語り始めた。
『親愛なる公国の民よ。急な集まりに感謝する。本日は統治者であるこの私から、皆に謝罪しなければならないことがある』
広場が水を打ったように静まり返る。
ディアエル様は私の肩を抱き寄せ、群衆を見据えた。
『約一年前。私はスノーローズ伯爵家の三女、エリザベートを公国への不敬罪により処刑したと公表した。だがそれは偽りだ。彼女は生きている。私の隣にいるこの女性こそがそのエリザベートである』
私が深く被っていたマントのフードを外し、その姿と黒髪を民衆の前に晒す。
ざわめきが大きくなるかと身構えたが、民衆はただ固唾を飲んで公爵の次の言葉を待っていた。
『スノーローズ家の三女という身分は、公国の主である私の正妻とするには、王国との間に無用な軋轢を生む。だから私は身勝手な手段に出たのだ』
ディアエル様の声に苦渋の色が滲む。
『彼女に大逆人という汚名を着せ、社会から抹殺した。身分というしがらみから彼女を切り離し、私だけの安全な鳥籠に閉じ込めて一生愛でようとしたのだ……公国を導く者としてあるまじき愚行だ。どんな誹りも受けよう』
「ディアエル様……」
彼がどれほど私のことを愛し、独占しようとしていたか。
その歪んで──けれど純粋な愛の独白に胸にトゲを刺されたようだ。
『だが彼女は、ただ与えられるだけの愛に甘んじることなく、自らの足で鳥籠を抜け出した。そしてこの一年、身分を隠して公国のために尽力し、自らの手で、私の隣に立つための新たな地位と功績を勝ち取ってみせたのだ』
ディアエル様は私の手を高く掲げた。
『私はこの誇り高き女性を心から愛している。王弟殿下の猶子としてではなく一人の女性として。私は──エリザベートを我が正妻に迎える』
堂々とした告白。
広場は深い沈黙に包まれた。
私は飛んでくるかもしれない石や怒号を覚悟して、ギュッと目を閉じた。
「……やはり、そうでしたのね」
「ええ。私たちはとうの昔に察しておりましたよ」
最前列にいた年配の貴婦人や商人たちが、上品な笑みをこぼしたのだ。
それを皮切りに、広場全体から穏やかで温かいさざざめきが広がっていく。
「あのような苛烈で公明正大な閣下が、女性を手に掛けるなどあり得ないと思っておりました」
「ええ。身分差の障害をなくすために、あえて法を曲げてまで囲われたと……あの合理的な閣下が、そこまで一人の女性を愛されたのですね」
「閣下が初めて心から愛された女性です。私たち公国の民が、歓迎しないはずがございません!」
怒号も非難も暴動も起きなかった。
そこにあったのは祝福だった。
「これは……少し驚いたね」
予想外の反応に、完璧な氷の公爵であるディアエル様が珍しく呆然と目を見開いている。
「私です」
その背後から、宰相のレイドラーがツカツカと歩み寄る。
「ご安心ください陛下。私が少しだけ……民の間に真実を囁いて根回しをしておいたのです」
「レイドラー。お前か」
「私が多少の後押しはしましたが、ここまで簡単に民が受け入れたのは、他でもない陛下のこれまでの治世があってこそです」
レイドラーは涼しい顔で一礼し広場を指差した。
「陛下はまだお若い。古くからの領民たちは、陛下を心から尊敬しつつも、どこか自分の息子のように見守ってきていたのです」
私もこの国で貴族の話を1年聞いていた──ここ最近の閣下は、まるで恋する無垢な少年のようだった。
日々政務で忙しくされているが、どうか幸せになってほしい。
そう。
慕いながらも、どこかディアエル様を心配しつつ、幸せを願う人々ばかりだった。
「皆、親心で仰っておりましたよ」
その言葉に、広場から「その通りです!」「末長くお幸せにー!」と温かい声援が飛ぶ。
冷徹で実力主義の国だと思っていたけれど。
ディアエル様が命を懸けて守ってきたこの公国の民は、こんなにも愛情深く……温かかったんだ。
「……本当に、民には敵わないな」
ディアエル様は大きなため息をつき、やがて降参したように苦笑いを浮かべた。
そしてバルコニーの中央で彼は私に向き直る。
数万の民が見守る中で、ディアエル様は静かに私の前に跪き私の右手を取る。
「エリザベート。私は君を愛している。君と出会ってから、私の氷のように退屈だった世界は君が与えてくれる色で満たされていった」
彼の蒼い瞳が甘く熱を帯びて私を射抜く。
初めて出会った時からずっと向けられていた絶対的な愛。
この人はずっと私を好きでいてくれた。
だから私はもう逃げない。
「どうか、私と共に生涯を歩んでくれないか?」
「……はいっ!」
私は溢れそうになる涙をこらえ、満面の笑みで頷いた。
ディアエル様は立ち上がると、私を強く抱き寄せる。
「エリザベート」
「はい──」
数万の民衆から割れんばかりの拍手と歓声が湧き上がる中。
私たちは静かに──そして深く唇を重ね合わせたのだった。




