#31 異世界ホスピタリティ
王国の王弟殿下が来店される試飲会当日。
『銀の梟亭』の店内は完璧に磨き上げられていた。
「グラスの曇りは一つもないわね。室温もバッチリ。ジュリアン、厨房の様子は?」
「完璧ですリザ様。料理長も気合が入っています。ただ……店長が過呼吸になりかけていますが」
二人もすっかり馴染んだね。
どこまでも私についてきてくれる……いい家族を持ったなあ。
「アリス! 店長に水飲ませて背中さすってあげて!」
「はいっ!」
給仕服に身を包んだ私、ジュリアン、アリスの三人は、絶望していた店長に代わって完全に現場を仕切っていた。
「あ、リザ様! 来たみたいです」
そして約束の時間。
控えめなドアベルの音が鳴り、数人の護衛を連れた初老の男性が静かに店内へと足を踏み入れた。
上質な──しかし決して華美ではない落ち着いた仕立ての服。
白髪交じりの髪を綺麗に撫でつけ、刻まれたシワには深い知性が漂っている。
王国の王弟殿下──その人だった。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
私が深く美しい礼で出迎えると、王弟殿下は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「出迎えご苦労……ふむ、静かで良い店だ。少し長旅で疲れていたから助かるよ」
物腰はとても柔らかく、傲慢なところは微塵もない。
しかしその深い琥珀色の瞳は、店内の隅々から私たち給仕の所作に至るまで、的確に値踏みしているのがわかった。
(なるほど。誤魔化しが効かない本物のお客様だ)
バーテンダーのカンがそう告げている。
王弟殿下が席につくと、青白い顔をした店長が震える手でごつい金属製のゴブレットをテーブルに置こうとした。
(ダメ! それじゃワインの香りが死んじゃう!)
私はすかさず店長の前にすり抜け、素早く金属のゴブレットを下げた。
代わりに、特別に用意させていた薄張りのガラスのグラスを静かにセットする。
「おや?」
「殿下。本日の試飲の品ですが、当初予定しておりました力強い重口の赤ワインではなく、こちらのワインからお出ししてもよろしいでしょうか」
私が恭しく差し出したのは、氷水で適温に冷やされた、黄金色に輝く公国特産の貴腐ワインだった。
店長が背後で「ヒッ」と息を呑む。
この時代、甘い貴腐ワインは食事に合わないと不評らしい。
王弟殿下は目を丸くして、私の顔とグラスを交互に見た。
「……随分と、思い切った提案をするね。公国が誇る重厚な赤ワインを味わいに来たのだが」
「はい。ですが殿下は先ほど『長旅で疲れている』と仰られました。お顔の色も、少しだけ優れないように見受けられます。そのようなお体に、最初から重い赤ワインは胃の負担になりかねません」
私はニッコリと、前世で培った営業スマイルを向けた。
「ですので、まずは胃を優しく目覚めさせるために、こちらの甘く芳醇なワインをご用意いたしました。もちろんただ甘いだけではございません。ジュリアン」
「はっ」
待機していたジュリアンが、すかさず一皿の前菜をサーブする。
それは塩気を強めに効かせた青カビのチーズとナッツを添えたもの。
「甘いワインに強い塩気のあるチーズ……? 奇妙な組み合わせだな」
「ぜひ、ご一緒に召し上がってみてください」
王弟殿下は半信半疑の様子でチーズを少量口に含み、そして薄張りのグラスに注がれた黄金のワインを一口飲んだ。
「……なんだ、これは」
大きく見開かれた瞳。
美味しいでしょうね。当然。
強い塩気と強烈な個性のチーズが、貴腐ワインの極上の甘みと絡み合うことで、互いのトゲを完全に消し去り、口の中で爆発的な旨味へと変化する。
これこそが、現代では常識とされている完璧な結婚だ。
薄張りのグラスと適切な温度管理によって、ワインの香りは何倍にも引き立っていた。
「見事だ……公国にこれほど素晴らしいワインがあるとは。いや、素材だけではない。この奇跡のような調和は、君が計算したものなのか?」
「ワインはただ高価であれば良いというものではございません。お料理と合わさって初めて完成するものです」
私が答えると、殿下は感嘆の溜息を吐き改めて私を真っ直ぐに見つめた。
「君、名前はなんと言う?」
「リザと申します」
「リザか。君はただの給仕ではないな。その所作といい、その知識といい……」
鋭い……下手に嘘をつかない方がいいかも。
「……とある事情で家を離れました地方貴族の娘にございます。今は身をやつしておりますが、このお店の皆様には大変良くしていただいております」
私が没落した貴族の娘だと名乗ると、殿下は深く頷いた。
「なるほど……リザ、私はワインの味にも驚いたが何よりも君の心意気に感銘を受けたよ」
「心意気、ですか?」
殿下は手元のグラスを優しく撫でた。
「我が国でも公国でも、私をもてなす者は皆ただ高価で希少なものを並べ立てて自慢するばかりだった。だが君は、公国の名誉や利益よりも先に、一人の客である私の体の疲れを案じてくれた」
殿下の穏やかな瞳が細められる。
「どんなに素晴らしい品も、提供する者に心がなければ真の価値は輝かない。君のその心遣いは中々できるものではない」
「もったいないお言葉です。殿下」
「いや、本当のことさ。今日はとても良い日になった」
殿下はその後も、私が提案するワインと料理のペアリングを心から楽しんでくださった。
店長は、カウンターの奥で涙と鼻水まみれになりながら、何度も天を仰いで神に感謝している。
ディアエル様の顔に泥を塗るどころか、この試飲会は大成功のまま幕を閉じようとしていた。
「リザ。私は数日この王都に滞在する。また必ず君の給仕を受けに来よう」
「はい。いつでもお待ちしております」
深く頭を下げる私を残し、王弟殿下は上機嫌で店を後にした。
よしよし。とりあえずは大成功!
私の知識と接客術が活きた。
この調子で頑張らなきゃ。




