2. その顔は切っていない
その夜、自宅の卓で、頭帯の留め具を撫でる。拭いた金具に、まだ石の粉が残っていた。溝の白いざらつきまで、昨日の通路から連れてきたみたいだ。隣ではゴブ助が、箱から出た布を小袋へ詰めている。袋の口を覗き込み、また布を押し込む。しまい直すたび、宝物らしくなるらしい。
翌朝、配信事務所の新人プロデューサー、粟津灯から連絡が来た。
手首の通話を開くと、灯の声が先に届く。
「数字はまだ確かめてない。あの子の記録を見て、仕事の話をしたいんだけど。今日、相棒も来られる?」
まっすぐな声だ。頭帯を袋へしまう手が、一拍止まった。数字より先に記録の話をされた所だけが、金具の冷たさよりはっきり残る。
「連れていく。けど、どの場面を見たんだ?」
「会って話す。画面越しじゃ、伝わらないから」
灯の声が、紙をめくる音で途切れる。
「その前に、確認させて。今朝、豹堂さんのマネージャーから編集への抗議が会社に来たの。同じ文が、相手の番組にも出てる」
公開された抗議文を手首で開く。末尾には、明日、同じ通路で再現するという告知。その横へ、自分の生記録を並べる。
「頭帯を外した所か? 取り外せることも、開始前に映してある。音も残ってる。切った区間はない」
「契約より先に、そこを確かめたい。うちは番組を作る配信事務所で、広告の取り次ぎもしてる。豹堂さんの広告は、別の広告部の担当なんだ」
ゴブ助と事務所へ歩いた。ガラス戸の向こうは、紙と珈琲の匂いがする。今日は、相棒が俺の前を歩く。小袋を抱えた背中について、冷房の効いた通路へ入る。資料卓から、小柄な灯が迎えに出た。灯の栗色のまっすぐな髪が、顎の線で揺れる。俺は名札の制作部という文字へ、目を戻す。
「粟津さん、これが開始からの記録だ。最後まで残ってる」
「来てくれてよかった。正直、来ないと思ってた」
「抗議が来てるのに? 俺が来たら、仕事の邪魔にならないか?」
「抗議が来てるから。逃げる人は、記録を持ってこないもの。確かめる相手がいなくなったら困るでしょ。あの子も、ようこそ」
資料を運ぶスタッフが、抗議の記録を俺の手首へ送った。卓の端に書類が並ぶ。スタッフは、その横で問題の箇所を示す。
「相手が問題にした箇所はこちらです。石の音と、頭帯を外した所です。全区間の提出を求めています」
抗議の記録は、豹堂側の映像を爪音の直後で止め、次にゴブ助の得意顔を並べている。着脱の瞬間まで拾っていた。同じ出来事なのに、間を抜かれるだけで、相棒の顔が作り物に見えてくる。画面の中の豹堂が、撮影へ顔を向けた。
「あれは編集だ。俺の映像をつないで勝った顔を作ってる」
腹の底が冷える。三年、あの声の後ろで段取りを組んだ。言い返す言葉より先に、どこを示せば説明が通るかを探してしまう。足もとで、ゴブ助が画面の自分の顔を見上げていた。逆毛が、少しだけ寝る。俺が提出する生記録の範囲を広げると、灯は箱より先の場面を開いた。
「あの子、勝ったとき、真っ先にあなたのほうを見たね」
「勝ったところより、その前後を見たのか? 箱に触った瞬間だけじゃなくて?」
「見たよ。勝つ前もね。だから、開始の合図から箱が開くまで、両方の続いた記録で確かめよう。得意な顔だけを買いに来たわけじゃないから」
「石の音、剣の向き、顔、コメントの時刻を合わせる。違ってる所があれば、その場で止めてくれ。顔じゃなく、先に手が届いたかを見てくれ」
記録の中では、殿のカメラ係が豹堂の背後にいる。音を揃えると、剣は石へ向き、反対側の手は箱へ進んだ。剣を振らずにカメラ係を庇う、豹堂の速さもそのままだ。ゴブ助の顔が俺へ向く瞬間も、相手の記録に残っている。コメントの時刻は、一度も切れずに続いていた。スタッフが、その時刻を残したまま再生を止める。
「顔をつないだ形跡はありません。相手の記録でも、箱への先着が確認できます」
俺は卓の端に手をついた。支えが欲しかったのだと、触れてから気づく。
「……つないでない。分かってたのに、言われると膝がゆるむな。ゴブ助、ちゃんと残ってるぞ。お前の勝った所」
灯が、止めた画面の時刻を叩く。
「最初から続いてたよ。私は、そこを買いに来たんだから。疑うなら、ここを見てもらおう」
俺の生記録と、相手の公開記録の時刻だけを配信に出す。相手の映像は映さない。手首へ〈向こうの記録でも取ってる〉が流れた。俺はカメラへ向けて声を出す。
「みなさん、同じ時刻を確認してください。途中で切れた所はありません。箱へ届いた手と、俺を見る顔は、続いた動きです」
袋をカメラの手前へ置いた。記録の説明だけなら、俺の顔は要らない。ゴブ助が袋を横へずらし、空いた場所から俺を見上げる。俺は袋を取り戻そうと手を伸ばす。
「おい、袋をどけるな。俺の隠れ場所がなくなるだろ。荷物を運べとは教えたけど、持ち主を画面に運べとは教えてないぞ」
「ギッ!」
相棒は袋を抱えて腕を張った。灯の琥珀色のまっすぐな目を避けて、俺は袋の角を揃える。手首の光が、手の甲へ白く残る。灯が袋から俺へ視線を戻した。
「戻る場所を選んだのは唐沢さんでしょ。そこまで消さないで! あの子だけの話にしないで。誰がこの道を作ったの?」
「ゴブ助がうまくやった。俺は……荷物を置いて、先に通れる場所を見ただけだ。それが、俺の仕事だった」
「荷物だけで、この画面になる? 唐沢さんの仕事を聞いてる。そんな言い方、ずるいよ」
「前の番組では、俺の名前は出さなかった。それで回ってたんだ。そう言えば、済むと思ってた」
俺が自分の映る画面を伏せかける。灯が卓から身を起こし、眉を寄せた。
「ここでも相棒の後ろへ隠れるのは、悔しいよ。次をどう撮るの?」
「……悔しいのは俺だ。ゴブ助がやったことまで嘘にされて、それでも自分の名前を出す所で止まる。格好つかないだろ」
「格好はいいよ。聞きたいのは、あの子を映す唐沢さんの言葉。次の撮り方を、ここで決めて」
画面を戻す。手首の光の中に、俺の顔が半分だけ映っていた。逃げたい顔だ。三年、映らない場所が俺の居場所だった。相棒の名前なら呼べる。俺の名前なのに、俺の声では出てこない。留め具の溝には、まだ石の粉が残っていた。箱を取った手も、俺へ戻ってきた手も、そこから続いている。俺は画面の端に残る自分の顔から、目をそらさない。
「やらせはしない。勝つ日も負ける日も、そのまま流す」
◇
スタッフが資料を回収して退席する。袋の横で頭帯を待つ相棒を見て、灯は発注書を俺へ向けた。
「制作部の新人の試験企画として、部長が予算を承認してる。撮影は三回、三万円。支払は三回目の一週間あと。独占の約束は、ここでは決めないよ」
「どうして、俺に? 抗議が来た相手だぞ。粟津さんまで困るだろ」
「数字が出る前に、あの顔を撮った人だから。理由はそれで足りる。あなたの仕事に頼むんだよ。数字の後ろへ隠さないで」
灯の指が、発注書の担当欄を叩く。俺は頭帯の留め具を押さえた。
「その仕事なら受ける。次は明日、抗議文の告知と同じ時刻に、同じ通路で。並んで撮れば、つないだ疑いもその場で確かめられる。始まる前から戻るまで、俺たちのまま撮る」
手首の欄が、同時接続900人、登録600人へ変わる。帯を持ち上げると、空いた場所がまた俺の前にできる。灯は数字に目をやらず、帯の向きが決まるまで待っていた。
「次も、一発で撮ろう」
袋の陰へ戻りかけた足を止め、俺は頭帯の横へ立ち直る。




