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「大人しい子だね。名は何というのかな?」
「…アウリ、アウローラ、です」
「アウローラ。なるほど確かに朝焼けのようだね」
なんで、どうしてこんな事になったんだろう。
目の前には灰色がかった茶色の髪とタンザナイトの様な紫の瞳を持った端正な顔立ちの成人男性、シルヴィオ・レオーネ次期侯爵様。と、何故か彼の隣でくつろぐアウリ。
来客を告げる鐘が鳴った時、人間が来たとは思っていなかった。時々鹿や熊などの野生動物が訪ねてくることはあれど、4年前を最後に人間は訪れていないから。ただ野生動物の場合、鐘を鳴らすことはしないし、彼らは余程のことがなければここを訪ねてこない。
何かあったのかと恐る恐る玄関の扉を開けた先には、シルヴィオ様が立っていた。予期せぬ来客者に驚いたあまり、抱いていたアウリが腕から滑り落ちて、私はアウリが腕の中にいないことも気づかずに固まってしまった。
何とか現実に戻ってきてシルヴィオ様を招いてお茶をお出ししたものの、今更になって家に他人がいることを自覚して逃げ出したい気持ちを必死で押さえ込んでいる。
いつも通り対人間用の顔を作って、必死にそれが崩れてしまわないように細心の注意を払いつつも、脳内を駆け巡る思考は止まらない。家にいるのに、仕事をしている気分だ。因みに泣いて腫れた目は魔術で何とか気づかれない程度まで戻っている、はずだ。
(アウリが猫でよかった。怪我、ないみたい)
これからは来客があった時は、アウリを抱えて出迎えることはやめようと心に固く誓いながら、思考の海に沈みそうになっていると、シルヴィオ様が口を開いた。
「突然伺い、申し訳ない。これはほんの気持ちだが、口に合うと嬉しい」
そう言ってシルヴィオ様が差し出すのは、街で有名なスイーツ店の焼き菓子だ。熊や猫の形のクッキーが可愛らしくラッピングされている。
「…ありがとう、ございます」
大人しく受け取ったはいいもののどうしたらいいのかわからず、内心、冷汗をかきまくっている。実際背中は汗でぐっしょり湿っているけれど、何とか顔には出さない。
(賄賂?賄賂なのかな?明日からの護衛、逃がさないって言っている?!)
実際そんなことをされなくても逃げることはできないし、渡してきたシルヴィオはただ本当に突然押しかけたお詫びの品としての気持ちだけなのだが、思いがけない訪問者にそんな想像しか脳内に残らなくなる。
「ところで、今日はいつもと髪型が違うね」
言われて思わず髪に手をやる。
(違う、かもしれない。いつもと少し手触りが違う、気がする。でもさっきまとめられていた髪をほどいたから、いつもとそんなに変わらないはずだけど)
不思議に思いつつ、なんて返答すべきか迷っていると堪えきれなくなったというような笑い声が耳に届く。
「ふ、ふふ‥‥‥もしかして、パーティーの後髪をほどいて、そのまま鏡を見ていない?」
ぎくりとした。その通りだったから。そもそも、鏡を見ることなど週に1度あればいい方だ。祖母がいたころは、毎日のように姿見の前で着せ替え人形のごとく彼女の作る洋服を着せられ、髪をいじられていたが、今ではほこりをかぶっている。最後に鏡の前に立ったのは、顔に小さなできものができたときだろうか。それも何日前の事だったか覚えていない。
固まっているとシルヴィオ様が手のひらサイズの手鏡を差し出してくる。これで確認しろと言いたいらしい。
大人しく手鏡を受け取って覗き込むと何とも言えない髪型になっていた。毛先までくるくるして、ところどころ絡んでいる。いくつか束ができていることから、どうやらただ編み込んだだけではないようだ。髪を巻いたうえで整髪剤か何かで崩れないように固めていたらしい。
(だからいつもと違ってごわごわしていたんだ)
鏡を覗き込みながら、見られる程度まで手櫛で整える。正直私としてはこのままでもいいのだけれど、目の前に自分の雇用主の息子、明日からの護衛対象がいることからこのままというわけにもいかない。面倒くさいけれど、それが人間社会だ。
ついでに顔を確認してみたけれど、目を冷やすついでにと顔を洗ったことで化粧も落ちたようだ。目の腫れも引いてそこまでひどい顔ではない。
「さて、本題に入りたいのだけれど、その前に1つ。父上から話は伺った。任務を引き受けられたこと、感謝する」
「あ、いえ。こちらこそ‥‥‥?」
手鏡を返して、漸く笑いが収まったシルヴィオ様が頭を下げてくる。まさか貴族相手に、それも護衛対象から頭を下げられるなど想像もしていなかったからどう反応したらいいのかわからない。語尾に疑問符がついて、しまったと思ったけれど、シルヴィオ様は気にしていないようだった。
(あ、そういえばパーティーにシルヴィオ様はいなかったっけ?騎士団の、どうしても抜けられない仕事があるって聞いたな)
今日のパーティーと、5日前のお祭りも同じ理由で参加できなかったはずだ。隣国から来られたお貴族様の護衛任務があるとか、公爵様から聞いたのを思い出す。
護衛対象が他の人を護衛しているという何ともややこしい内容が頭でいっぱいになったところで、シルヴィオ様の声で現実に引き返される。
「本題なのだが、明日からエルナ殿は水、木、火、月の日は私の護衛で風の日はエミリオの家庭教師で合っていただろうか?」
「‥‥‥はい」
嫌だけど、すっごく嫌だけど、もう決定事項であるから覆すことはできない。明日から、夜が明けるのが辛い。
「エミリオには、何を教えるのかな」
聞かれて、咄嗟に「知らない」と喉まで上がってきた言葉を飲みこむ。知らないことは事実でも、それをそっくりそのまま伝えるわけにはいかない。
「‥‥‥公爵様には、学院で学ぶ内容を、学院の授業進度と、エミリオ様の現状を見て必要なことを教えるように、と言われています」
言葉にして、私がこれからやっていかなければならないことは、とんでもなく難しいことではないかと気づく。気づいたところでもう引き返すことはできないのだとも理解しているから、更に気分が落ち込む。
「なるほど。要は算額や歴史などの座学から、魔術や体術などの実技まで幅広く、か」
シルヴィオ様が言葉にした通りだ。その中からエミリオ様の苦手な分野、苦手なところを重点的に教えることになる、と思う。
「確かに、エルナ殿にしかできないことだな」
「‥‥‥」
(何を根拠に?!私なんかにそんな超人的なことできませんよ!そもそもエミリオ様の事すらよく知らないし‥‥‥話したこともないのに、苦手な事なんかわかるはずがないじゃない!)
思っても顔には出さない。態度には出さない。シルヴィオ様の隣に座っているアウリが、心配そうな目を向けてくるけれど、今ここでアウリにすがるわけにはいかない。彼にアウリと話すところを見せたくない。
「エルナ殿、私の護衛と、エミリオの家庭教師で手がいっぱいなのは承知で頼みたいことがある」
「‥‥‥え?」
(嫌ですけど?なんで、どうして?何を頼まれるのかわからないけど、これ以上私に仕事を増やさないで。いや、増やしてもいいけど、せめて人と関わらない仕事にして)
そんな私の心中など知るはずもないシルヴィオ様は言葉を続ける。そして、やはり私の思う内容ではないことだった。
「私に、稽古をつけてほしい」