プロローグ
さむい。いたい。力が入らない。
人間の作った大きな椅子の下にいるけれど、強い風が吹いているから雨を避けることなどできない。雨水に濡れた体は、冷たい風にあおられて飛ばされないように、せめてもの抵抗で体を低くして地面にしがみつく。それでも記憶にある中でお腹いっぱいになるほど何かを食べたことなどない体は今にも飛ばされてしまいそうだ。
せめて、雨がやまなくてもせめて風がやんでくれたら。
何度目になるかわからない祈りなど知ったことではない。そう言うかのように風が強くなる。
「‥‥‥?!‥‥‥~!!」
辛うじて飛ばされることはなかったけれど、それもいつまで持つかわからない。もう、力などない。
さっきの強い風が気のせいだったのかと思うほど、今度は体をあおるものがなくなった。束の間の安息の時間を空想の世界へと飛ばす。
風に飛ばされて、自分はどうなるのだろう。昨日のように、大きな黒い鳥に食べられそうになる、いや、とうとう食べられてしまうのだろうか。もう逃げる力もない。
「ねえ」
それとも、この先にある湖に落ちてしまうのだろうか。そこには大きな魚がいると聞いたことがある。鳥ではなくて、魚のごはんになるのだろうか。
「ねえ、キミ、ひとり?」
気のせいだと思っていた知らない声が、今度は近くから聞こえてきて現実世界に帰ってくる。やはりそこは風1つ吹いていない。ここが人間の言う天界というところなのだろうかと思った。目の前に立つ、地面に向かって真っすぐに伸びた色素の薄い毛と、晴れた日の空の色をした瞳の少女は、天界に住んでいると言われても疑いようのないほど目を奪われるものだったから。それでも彼女の背後には大粒の雨が降り注いでいて、ここは天界などではないと納得する。
美しい容姿の、まだ幼さの残る顔立ちの少女は、体をかがめて自分を見つめていた。天界住んでいる生き物ではない。人間というやつだ。森のボスが言っていた姿かたちと同じ姿で、自分の目の前にいる。
「キミ、うちに来る?」
人間はいい奴と悪い奴がいると、ボスから聞いた。目の前の少女はどちらだろう。
どちらか判断できずにいると、少女の方から手を伸ばしてきた。思わず威嚇してしまった自分に手を掻かれるなど想像もしていないのだろう少女は、それ以上手を近づけてくることはなかったけれどひっこめることもない。そのままの距離で、さらに問いかけてくる。
「あなたが、気に入る場所ではないと思うけれど、雨風くらいは凌げる、よ?」
雨を、風を、そのどちらも?
甘い言葉に誘われるなと脳が警告してくるのを、弱り切った体は聞いてくれない。気が付いた時には、彼女の腕に包まれていた。
「ここ。私の、おうち」
彼女の腕に包まれたまま、人間の家という建物に入ると、温かい空気が冷え切った体を撫でた。
彼女に抱えられたまま、だんだん誰もいない森の奥に進んでいると気が付いた時は、彼女に騙されて、自分は鳥でも魚でもなく人間に食べられるのだと、寒さではなく恐怖に体が震えた。
けれど、彼女は自分を騙してはいなかった。冷えて泥で汚れた体を温かい水で綺麗に洗って、ふわふわのたおるというもので水気をふき取ると、何かを呟いて温かい、優しい風でわたしを包み込んだ。何だろうと思ったときには、すっかり体に残った水分は飛ばされて、泥で汚れて黒かった体は真っ白く、小さな枝やツタが絡まった毛はサラサラになっていた。黒い鳥につつかれた時に出来た傷も、彼女が何かを呟いた次の瞬間には、何もなかったかのように元に戻っていた。
更に彼女はおいしいご飯も作ってくれた。魚がいいかな、肉がいいかななんてつぶやいていた時は、彼女のご飯だと思っていた。柔らかく煮て解した魚をのせた小さな器が目の前に置かれて、自分のものだったと気づいた。久しぶりのご飯で、あっという間にすべて平らげてしまった後でお腹がびっくりして痛くなった時、痛がる自分におろおろ慌てていた彼女を見て、おなかは痛いのに、彼女は悪い人間じゃないってわかって、安心した。
一晩中おなかは痛かったけれど、彼女がずっとそばにいて看てくれていたから、心はすごく温かかった。
いつの間にか眠ってしまっていて、目を開けたときに彼女の顔が近くにあって驚いた。飛び上がってしまってから、おなかが痛くないことに気づいた。一晩寝て、痛みは引いていた。
「にゃあん」
感謝の意を込めて、寝息を立てる彼女の耳元で小さくつぶやくと、彼女の長いまつげが揺れた。ゆっくり持ち上げられていく瞼の先の瞳に自分が映る。
2度、3度と瞬きをしてから、彼女は柔らかく顔を緩めた。
「よかったあ。元気になったんだ」
そのまま腕を天に向かって伸ばした彼女は、改めて自分を見つめてきた。
「これから、どうする?」
彼女の瞳は、揺れていた。柔らかい顔をしているけれど、心の奥に潜むそれには気づかれたくない、そんな顔に見えた。
「森に、帰る?」
どうすると聞かれて、答えは決まっていた。
不安そうに尋ねる彼女を見上げて、彼女に近寄る。
「にゃああん」
人間の彼女には、自分の言葉が伝わらないだろうか。
「ここに、私と、一緒にいる?」
それでも、彼女は自分の言いたいことをわかってくれた。少し驚いたかのように大きな目を更に大きくさせる。それにこたえるように彼女を見つめると、3度瞬きをした後で、彼女は嬉しそうに顔を緩めた。
「うん、いいよ。ありがとう」
お礼を言いたいのは自分だ。彼女がいたから、今日こうして生きていられる。ありがとう。
「私は、エレナ。キミは、なんて名前?」
名前、名前は何だろう。分からない。ボスからは白いのって言われていた。ボス以外とは話したことがないからわからない。
「名前、ないの?えっと、待ってね」
言われた通り待つことにする。待っている間やることはないから、彼女を見つめる。彼女も自分を見つめてきた。
「あ、キミ、目の色が、違うんだね」
そうなのだろうか?自分の目を見ることはできないから、わからない。
「朝焼けの、空の色みたい。そうだ、アウローラ。アウローラは、どう?昔の、言葉でね、朝焼けって意味」
アウローラ、朝焼け。綺麗な名前。今日から、アウローラ。
「気に入った、かな。え、と、よろしくね。アウローラ」
彼女の柔らかく微笑む横顔を、昨日の雨など嘘だったかのように朝日が温かく照らしていた。
暗い雨の中でも天界の人と錯覚してしまった彼女は、柔らかい光に包まれて人間と知っている今でも天界の人なのではないのだろうかと目を瞠ってしまった。
これが、森の図書室の少女、エレナと、私、アウローラの出会い。