因果の果てに 7
数日間は、また静かに過ごしていた。本当は未央があの家にいることを思えばいても立ってもいられなかったけど、未央は怪我をしているのだし、それが自分のせいだと言う事もあって自粛していた。サホはあれからも時々何か言いたげに俺を見ていることがあったが、俺が徹底して無関心を通しているために、それ以上の事はなにもなかった。
そんな時、突然叔父が家に訪ねてきた。相変らず飄々とした仕草で、だけどどこかとってつけたように心配そうな顔を浮かべていた。
「理央、拙いことになったよ。私は君のお母さんから君を連れてくる事を仰せつかったんだけどね。随分ご立腹だ」
意味がわからずに首を傾げる俺に、叔父は大きく溜息を漏らす。
「姉さんの所に女の子が訪ねてきてね。あの日君が未央と車に乗っていた事をばらしてしまった」
「……どこでバレたんだ?」
思わずといったように呟くと、叔父は苦笑する。
「結構大きな事故だし、地元で事故があったなんて普通の子には結構耳に入るんじゃないかな。姉さんみたいに世間と隔絶して生きてるような人じゃなきゃね。私の同僚も何人か知ってたよ」
言いながら、叔父は俺に戸締りをするように促すと、自分の乗ってきた車に歩き出す。
「シートベルトをきちんと締めろよ。で、さっきの話だけど、私のカンで言えば、多分その子は耳に入ったというより調べたんだろうな。目撃者にでも聞いて回って」
「なんでそんな事」
叔父の車の助手席に乗り込んでシートベルトを締めると、エンジンをかけて叔父は苦笑するように言う。
「君に恨みを持ってるんじゃないか?……その女の子って言うのは、サホちゃんという子だよ」
言うと共に、車が発進した。
「それともう一つ。これは君を刺激しないように言わないで置いたんだけど、数日前に未央が退院日だったんだけど、その日の夜に突然東京に戻ってしまってね」
その時、余程俺はすごい顔をしたのだろう。叔父は苦笑して続ける。
「そんなに恐い顔をするなよ。未央に逃げられるなんていつものことだろう」
「余計なお世話」
俺の不貞腐れた言葉に、叔父は今度は声を立てて笑った。
「お前って未央の事になると途端に可愛くなるよな。普段はスカしてて憎たらしいだけなのに。……それでまあ、お前の母さんは未央が突然東京に戻ってしまったのはお前のせいじゃないかと疑ってるってワケだよ。まあ、あながち邪推というわけでもないんだけど」
エンジンの音は絶えず微かに車内に響く。その音に妙に苛立ちを感じながらも、俺は頷いた。
「確かに邪推では、ないな」
未央が東京に帰ってしまった原因は十中八九、俺にある。胸に手を当てて考えればすぐに思い至る。
「それで、叔父さんはまた止めてくれなかったんだな」
それでも非難するように言った俺の言葉に、叔父は心外だとでも言うように片眉を持ち上げて俺の方を横目で見る。
「何せあの怪我だし、君のこともあるしね。止められる状況なら止めていたさ。ただ、未央は誰にも何も言わずに帰ってしまったしね。まあ、見かけたことは見かけたんだけど、その時はもう車の中で、止める暇もなかった」
「車?」
俺は怪訝に思って問い返す。未央は怪我をしたまま車を運転していたのだろうか?
叔父は苦笑して、僅かになだめるように穏やかな口調で俺に言う。
「怒るなよ?……男が、運転してたな。結構仲良さそうだったぞ」
一瞬、体中を何か熱いものが駆け巡る気がした。激しい暴力的な感情が体内を支配し、それに押し流されそうになって慌てて自制を試みる。知らず、手をきつく握り締めていた。
叔父はそんな俺に哀れむような視線を投げかけてから続ける。
「お前にだってサホちゃんがいたんだ。同じことだろう?」
俺は歯を食いしばって、ただその衝撃に耐えていた。
できることなら、叔父に即座に反論したかった。それは、違う。俺にとってサホはどうでもいい存在なのだ。サホにしたって、その前の女たちにしたって。
男と女では、決定的に違う物があると思う。……そんな言い訳のような事が頭の中をぐるぐると駆け巡る。だが、それは全て俺にとって都合の良い詭弁でしかなかった。はたから見れば、同じことだ。未央が男と一緒にいるのも、俺がサホと一緒にいるのも。
どうして未央を責められる?
嫉妬する権利は俺にはある?
言い返す言葉もなく、沈黙した俺に、叔父は静かに語りかける。
「君たちは本当に、不器用で恐がりだな。越えてしまえばあんなもの、きっとなんでもないのに」
呟くようなその言葉に、俺は俯けていた顔を上げて叔父の方を見る。叔父はただ真っ直ぐに前を向いて、ハンドルを握っていた。
「お前たち……お前も、未央も、そして姉さんもみんな恐がりだよ。何をそんなに恐れる?世間の目が恐い?」
「俺は恐がっていないよ。未央を手に入れられるなら、そんなもの、どうだって良いんだ」
叔父がミラー越しに俺の方を見る。俺はミラーの中の叔父の瞳を見返した。
うちの家系は色素が薄い。それは何世代か前に西欧人の血が混じった名残だと聞いたことがあった。叔父もその例外ではなく、母や未央や、それに俺自身に似ていなくもない薄い鳶色の瞳に、この人には珍しく微笑を浮かべないまま、静かな色を湛えていた。
「では何をそんなに躊躇しているんだ?未央が嫌がっているのなんて口先だけだろう?そんな事、分かっているのだろう?それなのに、なんで君は指一本触れなかった?姉さんの目を盗む方法なんていくらでもあったはずだ。同じ屋根の下に住んでいて、となりの部屋に愛しい人がいて、良く正気でいられたね」
その言葉に、俺はふと、過去の自分を思い返してみた。それと共に、何か、引っかかる物があった。何か、大切なことを思い出しそうな……。
「正気でなんかいられるもんか。俺はとっくに、狂気に一歩足を踏み入れてるんじゃないかと思ってる……だけど、それでも未央には触れられない。触れたいけど、触れてはいけなかった。この前のはやっぱり過ちだ」
脳内で違和感の元を必死に探しながら、俺はゆっくりと言葉を紡ぐ。
意外そうに、そして不思議そうに叔父は軽く眉を上げて見せた。それが演技なのか、本当の感情からでた行動なのかは、俺には判断しかねたけれど。ただ、叔父が俺にその話の続きを促している事だけは確認できた。
その続きは、どうするのだろう?俺は何を言おうとしている?
言いながら、それと同時進行で考える。とても、大切なことを思い出しそうだ。もうずっと、見失っていたこと。未央に焦がれるあまり、忘れてしまいそうになっていた事。
思い至った時には、自然に口からこぼれていた。
「未央の傷つく事だけはしてはいけないんだ。これは、昔からの俺の不文律だ」
そう。それこそが、ずっと俺を抑え付けていたもの。俺の自制に役立って、時に気が狂いそうなほどに俺を縛りつけたもの。そして、昔から俺の根幹にあったもの。
母親の目を盗む事なんて、きっとどうにか出来たはずだ。だけど、未央はそれを望まなかった。母の言いつけを破るという罪悪感と、弟と結ばれるという背徳。そういった物を未央は望んでいなかった。ごく一般的な、穏やかな家族を望んでいたのだ。
確かに、俺のことを除いては母と未央は仲が良かった。時々は二人で買い物や旅行などに出かけることもあるくらい。俺の事がなければ、ごく一般的な、仲の良い親子だったのだろうと思えた。そういう母親に対して、ギクシャクしてしまうのが嫌だったのだろう。
だから、未央は俺との関係を、壁越しの電話以外望むことがなかった。
未央がそのつもりならば、俺は従わなければならない。無理に俺の思いを通せば、きっと未央はとても傷つく。未央は、家族が壊れるのをとても恐れていた。
思い出したそんな当たり前の事実に、俺は愕然とする。
昔はあんなに労わっていたのに。今では自分の気持ちをただ押し付けようとするだけだった自分に、そして未央の言葉に、気持ちに何一つ気を配らずに情熱を押し付けるだけだった自分に。
―――これではただの駄々っ子のようだ。
思い通りに行かないからと言って、拗ねて、心の余裕を失くして。
昔は未央を自分が守るのだと思っていた。どんな恐ろしいものからも、全て自分が守ってやるのだと。未央の笑顔を。
それなのに、今未央を困らせているのは他でもない自分なのだ。
俺はたった今しがた気付いた事実に茫然と言葉を失った。叔父はただ黙っていたので、車内に沈黙がおりた。
道路は少々込んでいて、道に連なる車のライトがまぶしかった。
「叔父さん、未央の住所教えてって言ったら教えてくれる?」
否、という答えが当然だと思いながらもそう聞いてしまう。今すぐにでも未央に会わなくては、という思いが抑えきれなかった。
「そうだね、いいよ」
予想外の叔父の言葉に、驚いて叔父を見る。叔父は俺を振り向いて、苦笑していた。
「お互いに、話し合うことが必要だ。未央は恐れるばかりできちんと君と向き合おうとしないし、君は勝手に未央の心中を推測してしまっている。それじゃあ、お互いに齟齬がでてもおかしくないよ」
叔父は唐突に後部座席に置いてあった自分の鞄を手を伸ばして取ると、そこから財布を引っ張り出す。
「お金は貸そう。姉さんには私がうまく言っておくから、行ってきなさい」
「行って、って。今すぐに?」
「そうだよ。善は急げと言うだろう」
叔父はそう言って唐突にウィンカーを出す。
「駅まで送っていこう」
突然のことに呆然としている俺に、有無を言わせないような強引さでそう言うと、叔父は澄ました顔で車のハンドルをきった。
東京は、私にとって故郷と別世界のようなものだった。
そこにいれば、理央とは接触することのない確実な場所。そういう意味で、私はどこか故郷と東京が同じ地続きではないような気がしていたのかもしれない。戻ってくればまた、毎日繰り返しの生活で、静かに静かに、理央の事は心の底に沈みこませて生活をしていける。心乱されることなんてない。本当に、平坦な現実。そうあるべき現実だ。
そう、故郷に帰っている時の事は夢だと思って忘れてしまえばいいのだ。胸の奥で痛みも気持ちもすべて押しつぶして。
そういう考えて、ある意味私は油断していたのだ。
理央が、こっちに来る事など、想像すらしていなかった。叔父がここの場所を漏らすなど、あってはならない事なのだ。
インターフォンの映像を見ながら私は、混乱した頭をどうにかなだめようと浅く呼吸を繰り返す。その姿を見た時、一瞬、何が起こったのかわからなかった。
「未央、空けてくれ」
混乱する私とはうらはらに、理央は、静かな声でそう言った。
それは、故郷で聞いた物狂おしい、何かを押し込めたような声ではなく、ただただ優しい声だった。優しくて、落ち着いていて。そんな理央の声を聞くのはとても久しぶりだった。
「話をしよう。大切な話があるんだ」
だから私は戸惑ってしまった。どうしていいのか分からなくなる。
理央がいつものようにやみくもに、熱に浮かされたような言葉を喋るならば、なんとか拒絶する事ができたのに。条件反射のように、無理矢理に心を凍らせることができたのに。
理央の声はとても冷静だったから。だからその言葉を一蹴できなかった。
鍵を開けると暖房の効いた部屋に寒い空気が吹き込む。身震いしたのは、果たしてその寒さのためだけだっただろうか?
理央の瞳は真っ直ぐに私を射っていた。戦慄する程に真剣で、でもそこには正気を失ったような熱っぽさはどこにも見られず、静かに凪いだ色を湛えていた。
「未央、決着をつけよう」
理央は静かにそう言った。覚悟を決めた目。そう、思った。
「本音を話し合おう。俺たちはきっと、昔とは随分変わってしまって、もう未央の考えてる事は、俺には分からないんだ」
僅かに寂しそうにそう言って、だけど視線は揺るがない。
「それでも、俺の気持ちは変わらない」
静かなくせに、とても強く響く。大きな声も出していないのにきっぱりと、意志を持った声。
眩暈が、する。
私はぐっと歯を食いしばる。
なんとか止めなければいけない。口から出てくる言葉を止めて、ドアを閉め、理央を追い返さねば。
そう思うのに、努力もむなしく、口が自然と開いていた。
「私たちは姉弟なのよ?」
しばしの沈黙の後、未央は呟くように言葉を落とした。
「知ってる」
俺は即座に返す。
未央の唇は、暖かい室内にいて薄着なのに外気が開け放したドアから入ってくるためか、真っ青になっている。そして、微かに震えていた。
「それは法律的に禁止されてるのよ?」
「うん」
「倫理的にもよ?」
「うん」
「社会的にも、普通、そういう人達は奇異な目で見られるの。いくら隠し通したって、理央がずっと結婚しないで姉の私と一緒に居たら変に思われるわ」
「変に思われても良い」
「良くない」
未央は声を荒げた。切羽詰ったような瞳で、俺を睨む。
「良くない。そんな簡単なものじゃない。もし、周りにバレたらどうなるの?陰口をたたかれたり、白い目で見られたり、嫌がらせを受けたり。私たちはそうされてもおかしくない立場なんだよ?異端なの。そんな私達がまっとうな生活を送れると思う?」
「もし、そういう事が起きても、俺は未央と一緒に居たい。一緒に居られるなら、そんな事くらい甘んじて受け入れる」
「そんな簡単なことじゃない。理央は簡単に二人で逃げよう、とか口にするけど、そんなの現実逃避だわ。現実では会社に入って働かなくちゃ生活していけないし、周囲の人の助けだってきっと必要になる。そういう現実を、全然分かってない」
「うん」
頷くと、自分で言ったことなのに、未央が少し怯んだのが可笑しかった。
「俺はきっと分かってない。分からないほど恋しくて、周りが見えなくなって、未央を傷つける事をいっぱいした。未央はずっと、『普通の』幸せを願ってるって知ってるのに、自分の気持ちだけを押し付けた。だから」
俺は真っ直ぐに未央を見つめる。声が少し、震えそうになった。
「決着をつけに来たっていったろ?未央に決着をつけてもらいに来たんだ」
未央の瞳が不安そうに大きく揺らぐ。細い腕が微かに震えていた。
「俺を受け入れれば、未央は普通の人が得られる幸せなんて一切受けられなくなる。結婚とか……それに、子供とか」
未央がピクリと体を強張らせた。未央が俺を非難しながらも一度も触れてこなかった事。軽々しく口にできない。そのくらい、未央にとって重大な問題。
「俺はそういったものを全て与えられない。それに、さっき未央が言ったように周りに不審がられるリスクもある」
未央は俺の顔から視線を逸らした。目を伏せて、足元を凝視している。長い睫毛が未央の瞳を覗くのを拒んでいた。
「そう言う事、色々考えて欲しいんだ。言い方悪いけど、それと俺を天秤にかけて欲しい。考えて、未央が出した結論に、俺は今度こそ従うから。未央がそれでも俺とは一緒にいられないって言うなら、俺はただの弟に戻るように努力するから」
未央は硬直してしまったようにピクリとも動かない。当たり前だろう、突然こんな事を言い出されても、混乱するに決まっている。
「母さんにバレると拙いし、俺は一端家に戻るよ」
言っても未央の反応はない。
「あ、いい忘れた。俺を選んだ時のメリット。俺を選んだら、普通の幸せは未央に与えられないかもしれないけど、その分すごく大切にするから」
他の男には絶対にできないくらい、大切にするから。
言った時、初めて未央の肩が微かに揺れた。
パタン、とドアが閉まった音がして、私は顔を上げた。そこには元の通り、見慣れたドアがあるだけだった。
顔を上げた反動で、頬に雫が零れ落ちた。同時に、いつのまにか止めていた息を吐き出し、しゃくり上げるように空気を吸い込む。
どうしよう、という言葉が頭の中をずっと巡っていた。
理央は本当に決着をつける気だ。もう、今までのような甘えた関係は許してもらえない。モラトリアムは終わったのだ。ここで出した答えが、この先の二人の関係を決めてしまう。
どちらを選ばなくてはいけないか、は分かっている筈だった。
だけど。
混乱する頭で玄関のフローリングに座り込み、すすり泣く。幼い頃に戻ったようだった。
自分ひとりでは対処できない問題を突きつけられて、万策尽きて誰かが助けてくれるのを期待して泣き喚く子供。だけど、もう自分は子供じゃないから誰も助けてくれない。自分で今度こそ、決めなくではいけないのだ。




