因果の果てに 6
目が覚めると全く見覚えのない場所にいて、正直困惑した。自分に一体何が起こったのか、まるで把握していなかったからだ。涙ぐんだ母親の姿を見た時も、とても不可解な顔をするしかなかった。
私は叔父の車でドライブ中、叔父がコーヒーを買いに行っている間に車から飛び出し、事故に遭ったと言うおそらく叔父からふきこまれたのであろう母の説明を聞き、ようやく事情を思い出した。それと同時に少し不安になり、日数を聞くと、どうやら2日も経っていると言う事がわかった。
母が医者に私が目を覚ましたのを知らせに行くと部屋を出て行ったので、ようやく私は周囲を観察した。どうやら個室をとったらしく、白い部屋にベッドは一つだけ。触ってみると、私は頭に包帯を巻いていて、足もギブスがつけられていた。枕元には花が生けられていて、無機質な病室に彩りを与えている。それが母が庭で栽培している花である事はすぐにわかった。
理央はどうしただろう?
こんな事になってしまって、自分を責めてはいないだろうか。落ち込んでしまっているのだったら、可哀相だな、などと考える。叔父などに連絡がつけば、言付けを頼みたいところだ。あの人は、理央の共犯者なのだから事情は察しているのだろうから。
それとも、流石に母が伝えてくれるだろうか?快く思っていないとはいえ、私たちは仲の良かった姉弟なのだから。家族なのだから。
母親が医者を連れて入ってきて、医者の質問にいくつか答える。医者が去ってから、叔父の事を母親にそれとなく聞くと、母親は私を事故に遭わせた張本人だからという理由で叔父に対して怒っていたようだったが、呼んで欲しいというと渋々了承してくれた。
「やあ、遅くなってすまなかったね」
叔父が姿を現したのは夜の11時を回った時だった。普通なら、こんな時間に面会というのはあり得ないらしいが、母と叔父はここの病院の院長とは知り合いらしく、付き添いの母と交代という事で話を通して貰ったらしい。実際、母は私の付き添いのために寝ていなかったようだし、今日も付き添うつもりだったらしいので、叔父がそう申し出てくれた事は有難かった。
「大丈夫なんですか?最近会社を結構休んでるでしょう?」
「その穴埋めに今日はこんな遅くまで残業してきたんだよ。それに、前々からあまり休みを取っていなかったからあまり咎められない。……私は周囲の覚えもいいしね」
叔父は気軽な口調でそう言って、私のベッドの側にある椅子に腰掛けた。
「具合はどうだい?」
「明日の検査で異常がなければ帰っていいって言われました。もっとも、足のコレがあるから当分は病院通いですけど」
そう言って片足をぎっちりと固めるギブスを示して見せると、叔父は残念そうにそちらに目をやった。
「傷は残ると?」
「多分。でも、命に別状がなかったんだから、良しとしなくちゃ」
「理央が悲しむよ」
その言葉で、病室内の空気がぴり、とした物に変わった。
「理央には君が目を覚ました事を伝えておいたよ」
「……ありがとうございます」
「とても落ち込んでいた」
私はその言葉には、敢えて返答しなかった。そんな事は予想がついていた。だからといって、今の私の状況ではどうすることもできないのだ。
私は少し浅い深呼吸をすると、至って平静に聞こえるように心がけながら口を開く。
「叔父さん、どうしてあんな事をしたんですか?」
私の言葉にも、叔父は顔色一つ変えないでいつもの少しおどけたような顔で軽く片眉を上げた。
「楽しくなかったかい?」
「論点をずらさないでください。私たちの事を知ってるのに敢えてあんな事をしようとするなんて、親族として失格ですよ」
その言葉に、叔父は微かに笑う。それから少し私に顔を近づけて言った。
「私は君たちを応援しているんだ。君だって、私と姉さんの事情を知っているだろう?」
「異常です」
私が即座に言うと、叔父はわざとらしく首を傾げてみせる。
「君からそんな言葉を聞くとは思わなかったな。やはり姉弟というのは気になる事かい?」
叔父の言葉はとても落ち着いていた。落ち着いているのに、なぜか軽く流せない何かがあった。その穏やかな瞳を、私は挑むように睨みつける。
「私にモラルなんてないです。とうの昔に捨ててるわ。だけど、社会的にはそうは行かない」
そう。モラルなんてものは、もう何年も前から私の中には存在しない。自分が弟と愛し合おうが、構わないと思っている。私の中には罪の意識なんてものは全く存在しないのだ。
だけど、周囲はそれでは許してくれない。
「理央はこれからもこの社会の中で生きていかなければいけない。食べていくためには就職だってしなくちゃいけないし、友人たちだって必要。社会の恩恵は受けずには済みません。だけど、もし私が理央の手を取ってしまえば、私たちはそういったものの全てを敵に回さなきゃいけなくなるんです。周囲から、白い目で見られて、疎外されて、どうやって生きていくんです?だけど、理央はそんなこと何も考えてない。だから、私は理央を拒否しなくちゃならないんです。なんとしても、理央をそんなものには晒せない」
叔父は大きく深く、溜息をついた。その瞳は、じっと私を見つめている。
「君はとてもリアリストだね」
「理央がロマンチストだから仕方ないんです」
「……君のお母さんにとてもよく似ている」
吐き捨てるようにそう言った叔父に、私は首を傾げる。
叔父はゆっくりと、噛んで含めるように言葉を続ける。
「相手の気持ちも考えずに、理詰めで物事を考えて、相手をどんなに傷つけているかも知らずに。……きっと理央は、君さえいればどうなったっていいのに。社会や周囲なんて、関係ないのに。君しかいらないのに。君がいなければ、生きてる意味なんてないのに」
じっと、恐ろしいほどに私を見据えて、言葉を紡ぐ。暗い病室内に、その声は重く響く。
「勝手に最良の道とやらを考えて、こっちの了解もとらずに進んで行ってしまう。取り残されたこっちの気持ちなんてまるで考えずに。……君の母さんもそうだったよ。俺の意見なんてまるで聞かずに、逃げるように結婚してしまった。俺がどんなに苦しむかなんて分かってたはずなのに、これが一番正しい道だ、とか言って」
いつの間にか、叔父の瞳は真剣な光を帯びていた。視線はこちらに向けられているものの、その瞳は私を映してはおらず、遠いどこかを見ているようだった。私は目を逸らす事が出来ずにその瞳を見つめる。
「そのくせ、姉さんが幸せになるならしょうがないと、数年かけてようやく俺も諦めがついて結婚したら、今度はあっさりと離婚して。……よりにもよってあんな男に引っかかる方が馬鹿なんだ。明らかに、財産目当てだったじゃないか」
きっと、それは私の父の事だろう。私は生まれた時から父の顔を知らない。私と理央が生まれた時には、母と父はもう、離婚をしていたからだ。
昔、理央とこっそり調べた事があるから、私達の父が今は別の家庭を築いている事は知っている。
「それでまた、不幸になって、俺は離れられなくなって。……そうやってずるずると縛り付けるくらいならば、始めから手放さないで欲しかったのに」
「……叔父さんは、お母さんの事がまだ好きなの?」
私の質問に、叔父は微かに荒んだ色を含む視線で答えた。
「私は昔から、君の母君に囚われている。君たちと同じだよ」
それから、静かに立ち上がる。
「私は君たちが結ばれることを願っている。あの人の前に、幸せな君たちの姿を突きつけてやりたい。俺を捨ててあんな男を選んだ事を後悔させてやりたい。……だから、君たちの事を応援しているよ」
見下ろす視線は今までに見たことのないくらい冷ややかで、それでいて激しい物を含んだものだった。その冷たさに、今まで穏やかな人だと思っていた叔父の正体を見た気がした。
「叔父さんは、私たちの事も憎んでいるのね?」
「そんな事はないよ。あの人の子供なんだから、愛さないわけがない。それに、個人的にも君たちはなかなか好ましいと思っているよ」
ただ、と叔父は続ける。
「私は自分の子供たちが君たちのような関係なのだったら意地でも止めたがね」
そう言って、叔父は私になんとも言えない視線を向けた。その瞳は、哀れむようでもあり、羨ましそうでもあり、憎むようでもあり、愛しそうでもあった。そして、何故だかとても満足そうだった。
私は本当に直感でだが、その瞳にある確信を得て、口を開く。
「叔父さん、仕組んだわね?」
叔父はおどけたように片眉を上げて、ゆっくりと口元に軽く笑みを浮かべて問い返す。暗闇の中に立つその姿は、とても不釣合いで、まるで悪魔のようだと思った。
「仕組んだ、というのはどこからの事?君たちのドライブの事?それとも、理央に彼女が出来たことを君に教えて君たちを炊きつけようとしたこと?それとも、妊娠中の姉さんに何度も何度も、君たちが僕らのようになる可能性を吹き込んだことかな?」
未央の無事を知るまで、数日家に閉じこもっていた。何もする気が起きなくて、ただ脳内では不安と恐怖と自己嫌悪だけが渦巻いていた。
どうしてあんな事をしてしまったのだろう?未央は嫌だといっていたのに。どうして事故に遭ったのは自分ではなかったのだろう?未央が死んでしまったらどうしよう?どうしようどうしようどうしよう……。
カーテンを閉め切った部屋は湿っぽく薄暗い。だけど、電気をつける気力さえ湧かない。動く気にさえなれない。チャイムの音が何度か聞こえた気がしたが、そんなものはどうせ些末事だ。
体中が重かった。祈るような恐怖で、全身が震えていた。
電話の音が聞こえる。虚ろな瞳で微かに顔を上げる。
何度目かの無視した無用の留守電の後、未央の無事を知らせる叔父のメッセージを聞いた時、安堵のためにその場に倒れこんだ。
目尻を伝う雫の感触が生々しい。涙なんて流したのは、久しぶりだった。どんなに辛い事があっても涙なんて流れなかったのに。手を当てて押さえようとしても、それは全く止まらない。次から次へと流れて湿った感触を残していく。自分の滑稽さに気付いて笑い声が口から漏れる。一度出てしまうと、それも止まらなくなった。しばらくの間、薄暗い部屋の中で、俺は壊れたように涙を流しながら笑い続けていた。
「理央君!どうしたの!?ここ数日全然連絡つかなくて心配したよー。鍵だってチェーンかかってるし、チャイム押しても出ないし。携帯だって繋がらないしー」
久々に学校に行って見ると、すぐさまサホが纏わりついてきた。俺は適当に受け流して追い払おうと思ったのだけど、なんやかんやと話しかけてきて、なかなか立ち去ろうとしない。その上、昼飯時には研究室に弁当を持参して入り浸る始末だった。教授や同室のやつらへの配慮から追い払おうとしたが、なかなか言う事を聞いてくれず、結局俺がサホに付き合って外で食事をする事になった。そして、どうしてここまでサホに束縛されなくてはならないのか、と考えた時になってようやくサホが自分の彼女だった事を思い出したのだった。
その事を思い出した次の瞬間には、もうサホに別れ話をする決意は決まっていた。
病院の待合室で私は頭を抱えていた。
叔父の真意を知った今、私はどうすればいいだろう?叔父の話からすると、母と叔父の過去は幸せとは程遠い。そして、私と母はとてもよく似ている。私も、あの二人のようになってしまうのだろうか?
恐ろしい、と思った。
あの二人はこの年になるまで、苦しみ続けたのだ。そして、私はまさに理央とふたりであの二人と全く同じ道を辿ろうとしていたのではないだろうか?母が結婚しても尚、叔父を縛り続けたように、そして、叔父が結婚した後に叔父の心の平穏を乱したように、私も理央が彼女が出来たと知ればその仲を壊すために、自分に色々言い訳をしながらここに来てしまった。もしかしたら母も、叔父が結婚してしまった事で叔父の気持ちを引きとめようと、そのためだけに父と離婚しようとしたのではないのだろうか?だったら、その浅ましさは私と非常によく似ている。
そんな風にはなりたくない。だけど、理央の側にいればきっと自分に抑えが利かなくなる。
退院手続きをしている母を尻目に、私は待合室の公衆電話に向かう。手元にある携帯電話で番号を確認して、その番号を押す。今は昼間で会社のはずだけど、留守番電話に吹き込んでおけば、律儀なあの男はきっと聞くだろう。
怪我のために、もう少しこちらにいるつもりだったけど、もうこれ以上は、いてはいけないのだ。
「お前なー、俺ってお前のパシリ?」
家の前に車を止めて、田崎は半ば呆れたような口調でそう言った。昼間のうちにまとめてあった荷物を手渡しながら、私は言う。
「しょうがないじゃない。この怪我じゃ電車に乗るにも一苦労だし、幸い車持ってる友人が側にいればねー。それより、母にばれないうちに早く出発した方がいいわよ?内緒で出てきてるから」
「うっそ?マジかよ……?」
「大マジ」
「勘弁してくれよー。これじゃ俺、かどわかしじゃねーかよ」
「何言ってるのよ。私、もう成人よ」
「つったってな」
文句を言いながらも、田崎は車のエンジンをかける。
「大体、お前の死にそうな声の留守電聞いてすっとばして来てやった俺に茶の一杯もないのかよ」
「帰ったらおごってあげるから」
大きな溜息と共に、車は渋々発進する。その時、ちょうど後方の道から叔父が家にやってくるのが見えた。叔父と私は車のミラー越しに目があう。少し驚いた顔の叔父の姿は、すぐに小さくなって消えて行った。
別れを切り出した時、サホはとても大きく、これでもかと言うほど目を見開いた。そして、長い髪が乱れるのも気にせず、大きく首を振った。
「やだ。別れたくない」
「別れたくないと言われても……」
今まで俺に従順だったために、別れ話もすぐにのんでくれるかと思っていたのだけど、当てが外れたようだった。これは、かなり面倒くさいことになりそうだ。いつか長谷と話したことを思い出した。後腐れのないタイプを選ぶ俺にしては珍しいと言っていた。だとしたら、長谷はこうなることを予想していたのかもしれない。
「俺はもうサホには興味もないし一緒にいたいとも思わない」
酷い事を言っているという自覚はあったけど、それを言う事に全く心が痛まない。自分が最低の人間だと言う事を、改めて自覚させられる。
「それに、好きな人がいるんだ」
サホの瞳が急に鋭い、今までに見たことのない暴力的な色を含んだ。一瞬それが何か分からなくて、だけど次にサホが大声をあげたから、それが怒りである事を知った。サホは今まで俺に対して一度も怒鳴ったりしたことは愚か、文句を言うような事もなかった。
「信じられない」
みるみるうちに顔が紅潮していく。拳を作った両手がぶるぶると震えていた。
「理央君に好きな人がいるかもって気付いてたけど。辛い恋みたいだって事も気付いてたけど。だけど、まさか、そんな事あるはずないって思ってたのに……」
キモチワルイ、と叫ぶようにサホは言う。
「理央君の好きな人ってあの未央って人でしょ?あの人、姉なんでしょ!?それしか考えられないもの。理央君、あの人が来てから変だもん」
黙って聞いている俺に、サホはさらに突っかかってくる。
「大体、キョウダイなんだからそんなの結ばれるわけないじゃん。叶わない恋なんだから、私と別れる必要ないでしょ?」
とうとう嗚咽を漏らし始めて、サホは俺のシャツを両手で掴んだまま頭を胸にあてて項垂れる。
「私は理央君に好きな人がいたって全然へーきだから、別れるなんて言わないでよ。一緒にいたいよ」
しゃくりあげるサホの声だけが、そこに響く。俺はその手を振り払いはしない代わりに、何も答えなかった。屋上で話していたために風が少し冷たい。いつもより少し近くにある、抜けるような青空を見ながら、どうして何もかもが上手く行かないのだろうなどと言う事をぼんやりと考えていた。




